【山下訓広】インドネシアの時が、一番サッカー選手らしかった〈前編〉

山下訓広さんは、高校サッカーの千葉県代表として国体に出場し、準優勝の実績を残します。その後、茨城県・流通経済大学を経て、ロアッソ熊本に入団。

退団後は、シンガポール、ミャンマー、インドネシアと約10年に渡り海外サッカーで活躍後、2019年に現役を引退しました。

引退から間も無く、セカンドキャリアとしての第一歩、インドネシアでチャリティー活動をされている山下さん。

前編は、現在の具体的な活動内容や経緯について焦点をあて、お話を伺っていきます。

▲インドネシアのチームに入団し、開幕戦前に取材を受けた時の1枚

自ら企画したチャリティーイベント「ONE WORLD」

Q,現在、山下さんが取り組んでいる活動について教えてください。

日本でサッカーイベント等を開いて、寄付金と洋服を600アイテムほど集め、インドネシアでONEWORLDというサッカースクールの企画を立ち上げました。

ONE WORLDのサッカースクール企画の内容としては、スタジアムでインドネシアのプロサッカーリーグで活躍された足立原健二さんと松永祥兵さん、インドネシア吉本興業シンガーソングライターの加藤ひろあきさんにゲストで参加していただき、子供達250人に対して開催しました。その他には孤児院の訪問も行いましたね。

そして今は、ジャカルタの洪水で、学校が水没してしまっている現状がありますので、その修復のため寄付をさせて頂いています。

インドネシアでチャンスを与えてもらったことに感謝しているので、これからも活動を続けて、インドネシアの子供達に還元できればと思っています。

Q,イベントが成功できた要因は何でしょうか?

最初はチャリティーマッチにしようとしていたんです。結局、連携がうまく取れず、それには至らなかったんですけど。

そういう部分では、未熟だし準備不足だったなと思いますが、僕に出来ることは先のことは見えなくても、まずは行動に移すことでした。

今回の件で、沢山の事を学ばせてもらいましたし、ずっと失敗を繰り返していたら意味がありません。

学び、改善しながら、もっと人のためになるイベントを組んでいきたいですね。

▲「ONE WORLD」のポスター

インドネシアが
一番サッカー選手らしかった

Q,各国で選手生活を送りましたが、なぜチャリティー活動をインドネシアから始めたのでしょうか?

5年間シンガポールに住んでいましたが、自分は裕福な方だと感じていたので、その想いには至りませんでした。

それに対してインドネシアは、一番サッカー選手らしくいられた国だったんです。ファンも多いし、コミュニティーが増えたこともあって、自分の中で感謝が大きかったのかな。

Q,サッカー選手らしくというと?

やっぱり人が本当に良かったのかなと思います。街を歩いていても「写真撮って」とか「サインして」とか。サッカー選手やってるなーと思いましたね。

▲インドネシアのチームに所属していた際、カフェにいたら子供達が集まってきた時の1枚

Q,インドネシアでは、サポーターが暴動を起こし、亡くなってしまう現実がある。それは、教育の問題ではないかと仰っていましたね。

イベント開催のきっかけも、そこなんです。こんなに応援してくれている人が、人を殺すまで殴ってしまうっていうのは、僕たちでは考えられないことですよね。

パワフルではありますが、道徳心やモラルが少し欠けているのではないかと思います。子供達は小学校卒業後に、すぐ働き手になることで違う辛さがあると思います。難しい問題ですよね。

ただ、応援してくれる人や子供達が、そういうことを繰り返してしまうと思うと、サッカー選手として悲しいと思ったので、まずは行動に移しました。

今回はチャリティーですが、将来的には子供達が教育を受けられる学校の運営にも携わっていきたいなと思っています。

想いを実現するためには
必要なものがある

Q,2020年5月頃から始めた外国人が日本企業で働く環境を整える仕事も、教育の観点からきたんでしょうか?

そういう観点で関わりを持てるのであれば、何でも取り組まなければいけないなと思っています。

僕自身、社会人としては歩き始めなので、何もかもが大変です。何が自分にピッタリくるか分からないですし、今は模索しているところです。

ただ、想いだけではどうにもならないこともありますよね。僕自身も最初は想いの方が大きかったんですが、それを実現するためには必要なものがあって。

それはお金であったり、苦手な仕事をやり遂げる苦しさだったり。そういう点も理解して、やりたいことに繋げられるようにしていきたいですね。

Q,日本に戻り、サッカー選手をやろうと思ったことはありますか?

シンガポールでサッカー選手をしていた時のお給料の手取りは5万くらいでした。もちろん、家と飯は付いていますけど。

そこから選手として成長し、月収40~50万はもらえるようになってきましたが、振り返った時には僕自身が33歳。

そこからサッカー選手として、どのくらいお給料がもらえるかというと、それは難しかった。プロとしてのこだわりは、やはりサッカー選手でいたかったので。

また、東南アジアでの八百長は日常茶飯事。この状況でプレーする苦しさは、最初から重々承知していました。

じゃあ、それがない国に行けば良いじゃんと思いますが、その実力は僕に備わっていなかったんです。

一番サッカー選手らしくいられる場所だったからこそ、ここで一生懸命やるつもりでいました。

しかし、2019年。僕自身サッカーの調子が悪くなっていたこともありますし、八百長のような今まで我慢できていたことが途切れ、サッカー選手として仕事ができる喜びと現実に気持ちが揺らいでいました。

その時期が、ちょうど2019年8月ハーフシーズン。退団が決まったこともあり、引退を決意しました。

▲「ONE WORLD」にて、現地の子供達と記念撮影

Q,現役時代の時にコレをしていれば、もっと充実していたなと思うことはありますか?

英語は、日常会話より深く勉強しておけば良かったかなとは思います。甘くならず、もっと先のことを考えていれば良かったなと。

Q,現役時代、引退後のことも考えていましたか?

そうですね。考えてはいましたけど、何ができるかは決まらない感じでした。それでも、サッカーであることはブレなかったですね。

次回後編、サッカーに対する情熱が生まれたプロセスと現役時代の選手生活を中心にお話を伺っていきます。

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1995年静岡県出身。バスケット競技歴10年。会社員の傍ら、スポーツライターとして活動中。

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