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港ソフトボールクラブが歩んだ奇跡の9年間。42-0の大敗を越え、全国大会出場チームへ

「僕らのチームの道のりは『奇跡』という言葉がぴったりだと思います」――そう語るのは三重県松阪市を拠点とする「港ソフトボールクラブ」の前監督・戸田勝(とだ・まさる)さんだ。

休部状態だったチームは、戸田さんらが主導となり2016年に子どもたち4人で再始動。わずか9年で、全国大会出場という偉業を成し遂げた。全国でも類を見ない復活劇はいかにして起きたのか。今回はチーム再建の鍵を握った戸田さんの言葉から、激動の9年間に迫っていく。

42-0の大敗を越えたチーム再建術、鍵は伝統「かんこ踊り」

2015年、妻の地元である松阪市に移住した戸田さんは、小学1年生の息子が入団できる野球チームを探していた。野球ではなかったものの、隣町にある「第四ソフトボールクラブ」の存在を知り、息子の入団とともに保護者コーチとして1年間チームに携わった。

ソフトボール未経験だった戸田さんは、競技のルールや指導法を学んでいく中で、のちに初代監督となる小濱裕也(こはま・ゆうや)さんと出会うことになる。「自分たちでチームを作ろう」と意気投合した2人は、4人の子どもたちとともに休部状態だった地元チーム「港ソフトボールクラブ」を再始動させた。

「当時は小濱さんが集合をかけて、選手の倍近い数の大人が練習場所に集結してくれたこともありました。地元の方々が球拾いからノック練習、ときには試合形式のランナーとなって駆け回ってくれました」

スタート時の部員はわずか4人、グラウンドにあるのはたった4つのボールだけ。全国大会の舞台からは、あまりにもかけ離れた環境での再スタートだった。

初期メンバーの4人。全国大会などまだ夢のまた夢だった頃。

そんな状況でチーム拡大の確かな足がかりとなったのは、江戸時代から受け継がれる「かんこ踊り」の存在だ。初盆の家を回って3日3晩、朝方まで踊り続けるこの伝統行事には、地域の子どもからお年寄りまで多くの人々が参加する。

戸田さんは、かんこ踊りを仕切る青年団で団長を務めていた刀根銀次(とね・ぎんじ)さんをチームに引き入れた。のちに戸田さんからバトンを受け、全国大会で監督を務める人物である。

「お子さんの入団はもちろん、地元で生まれ育ち、人望が厚い(刀根)銀次さんがいれば青年団からの流れができると確信していました。そして最大の理由は、いつかこのチームを地元の人間の手に委ねたいという、私自身の強い想いがあったからです」

2018年には11人のメンバーを集めて、松阪市のソフトボール協会への登録も果たす。しかし、初めて参加した協会主催の大会で、彼らに大きな壁が待ち受けていた。

メンバーが11人に増え、協会登録を果たした2018年。まだお揃いのユニフォームはなかった。

「初めての大会で全国ベスト8に入る強豪と当たり、結果は42-0の敗戦でした。相手の攻撃が終わらず、スリーアウトを取ったときには交代になった安堵とアウトが取れない悔しさと…、いろんな感情が混じって選手も保護者も気づいたら泣いていました」

突きつけられた現実はあまりにも厳しかったが、「青年団からの流れを作る」という戸田さんの狙いは確かに機能し、港ソフトボールクラブへと加わる子どもたちは着実にその数を増やしていった。

6人の全国経験者、強豪からの移籍が起爆剤に

チームの歴史を大きく動かす転機は2022年に訪れる。当時の港ソフトボールクラブは、最上級生の6年生が1人しかいないという状況だった。時を同じくして戸田さんがかつて参加していた「第四ソフトボールクラブ」が突然の解散を迎える。全国大会常連の強豪チームから、6人もの最上級生が行き場を失った。

彼らは近くの公園で自主練習を続ける日々を送っていた。その状況を見かねた戸田さんは、第四の監督を経由して彼らを自チームへと誘い入れることを検討する。

しかし、その一方で「全国経験者が大量に加入することは、既存の選手たちの出場機会を奪うことになる」という監督としてのジレンマを抱えていた。悩み抜いた末、保護者を集めた戸田さんは、チームの未来を見据えた想いを真っ直ぐにぶつけた。

「彼らをうちのチームで受け入れたい。移籍してくることで今のポジションを失う子が出るかもしれないが、新しく入ってくる彼らの存在が必ずこの港を強くしてくれる」

この提案に反対する者はいなかった。むしろ途中から加入することを気に病んでいた6人の選手たちを、全員で温かく歓迎した。実力者が入ったからといって、すぐに目に見える結果が出たわけではない。しかし、上級生の高い技術や練習に向かう真摯な姿勢を間近で見た下級生たちは憧れを抱いた。この環境の変化こそが、3年後に全国の舞台へ羽ばたくための強固な土台となっていった。

永遠に感じた80分…全国大会で知った重圧

2024年には「松阪ケーブルテレビ杯」でついに悲願の大会初優勝を飾る。決勝戦が生放送される大会での勝利は、チームにとって確かな自信となった。

「これまで自分たちが一切映っていない大会DVDを勉強として買っていました。だけどこの年、初めて自分たちが活躍する映像が収録されて、子どもたちは喜んで映像を何度も観返していましたね」。チームは上昇気流に乗り、その後は複数の大会で優勝を経験する。

数々の実戦や地方大会を乗り越え、チームは全国の舞台へと通じる力を確実につけていった。

そして2025年、ついに悲願の全国大会初出場を決めた。しかし、辿り着いた全国の舞台で「80分の試合がとんでもなく長く感じるほど、体中に興奮と緊張感が襲ってきました」と振り返るほど、これまで経験したことのない重圧がのしかかる。結果は、のちに全国準優勝した福井代表チームに6-0の敗戦。

「直前に行った全国出場チームとの練習試合は2戦2勝。手応えを感じていただけに、悔しい敗戦でした。全国大会で1勝することの難しさを、選手たちは痛いほど感じたと思います」

悔し涙を流した選手たちは「もう一度この舞台に戻ってきたい」と強く誓い、その言葉どおり翌2026年も全国出場の切符を見事に掴み取ったのである。

250万円の寄付を生んだ強固な”地域密着”

「外から来た自分を優しく受け入れてくれたこの街に、どうしても恩返しをしたい」。一度も疎外感を味わうことのなかった地域への深い感謝を、戸田さんは力強く語る。

そして、この港ソフトボールクラブの飛躍も地域の助けなしには成り立たなかった。試合を組めない人数だった最初期は、隣町にある米ノ庄小学校のソフトボールクラブが合同チームに誘ってくれたことで、貴重な試合経験を積んでいった。

練習するためのグラウンドすら満足に確保できない状況だった2019年には、地元のサッカースクールが救いの手を差し伸べてくれた。「自分たちも練習場所の確保に苦労したから」と、港小学校から借りている貴重なグラウンドの半分を譲ってくれたのだ。これらの温かい手助けが、チームが本格的に活動を展開するための第一歩となった。

地域とともに大きく成長した現在の港ソフトボールクラブ。

そして、地域の大人たちの支えも忘れてはならない。チーム最大の強みだという「県内でもトップクラスを誇る練習量」を実現できているのは、保護者や地域が一体となった強固な連携体制があるからこそ。

「こちらから声を掛けずとも、大人たちが自然とグラウンドに来てくれるんです。率先してノックバットを握り、道具を運び、審判までやってくれています」

保護者たちは順番に指導者の資格も取得しているという。一人の指導者に頼り切るワンマンチームではなく「全員でチームを、子どもを育てる」という理想的な環境が整っている。

そしてチームは昨年、初の全国大会に向けて「寄付金」を募った。すると、即座に保護者や卒団生だけでなく、チームが活動する地域、そして隣町の人々まで協力を申し出たのである。最終的に目標金額を大幅に上回る、250万円もの寄付金が集まった。休部から全国大会へ挑むまでに成長したチームを、地域全体が温かく見守り後押ししてくれた。

地域とともに育ってきた「港ソフトボールクラブ」。その成長を見届けてきた戸田さんは、チームの未来について最後にこう語った。

「休部から全国出場までの道のりは、奇跡のような出来事の連続でした。だからこそ『チームが存続し続けること』が何よりの目標です。地元の青年団と港ソフトボールクラブで、子どもたちが行き交う循環が続けば最高ですね。チームが存続していけば、おのずと全国制覇という大きな夢も近づいてくると信じています」

逆境の中でも右肩上がりに成長を続ける港ソフトボールクラブの軌跡は、彼らが歩んできた道が決して間違っていなかったことの証明だ。松阪発、奇跡のチーム「港ソフトボールクラブ」は2026年8月、2度目の全国大会へと挑んでいく。

結果だけでなく「そこに至る過程」を丁寧に紡ぐスポーツ記者を目指しています。休日は仕事抜きでJリーグの応援に声を枯らす熱烈なサッカーファン。読者と同じ「スポーツを愛する目線」を忘れず心に響く記事を執筆します。

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