“好き”という情熱で魅力を発信!『バレーボールマガジン』代表・中西美雁さんの歩み
「未経験者だからこそ、伝えられる魅力がある」
『バレーボールマガジン』の代表を務める中西美雁(なかにし・みかり)さんは強い信念を持ち、バレーボール界に携わってきた。
だが、その道のりは平坦ではなかった。バレーボールライターながら、バレーボールの競技経験がなく、“ファン上がりのライター”と一段低く見られることもあった。また、紙媒体からweb媒体へと移行したときに、“媒体の命綱”ともいえる取材パスがおりなくなった期間もあった。Web媒体は印刷媒体に比べて発行のハードルが低く、一般のファンでも運営できてしまうからというのがその理由だった。実際、一般のファンでブログを「媒体」と主張して取材パスを乱発させて問題になったこともあり、一概に統括団体を責めることはできない。
それでも、中西さんは“ファン上がり”であることを恥じたことはないと断言する。未経験者だからこそ、ファンだからこそ、伝えられることがある。“好き”という純粋な情熱でキャリアを切り開いてきた。
「バレーボールに携わりたくて…」バレーボール雑誌を創刊
中西さんは幼少期から母が行うママさんバレーに同行するなど、バレーボールが身近な環境で育った。テレビでバレーボールの試合中継があれば、欠かさず視聴するバレーボール一家であった。
だが、中西さん自身はバレーボールの競技経験はない。幼少期からピアノに取り組んでおり、バレーボールは突き指するからという理由でピアノの先生に反対され、プレイヤーとしてのバレーボールを諦めざるを得なかった。それでも、バレーボールへの情熱は廃れることはなかった。
転機となったのは、大学院中退後のことだ。大学院では国際法関連の勉強をしていたが、肌に合わずに中退し、いきなりフリーのライターに転身した。当初は音楽関係の執筆をしていたが、「せっかくライターになるなら、バレーボールに携わりたい」と自分1人でバレーボール雑誌の制作に着手。
当時はバレーボール雑誌が少なかったことや新卒の年齢でなかったこともあり、出版社に入社するのではなく、自身で法人を立ち上げ、雑誌『バレーボールスピリット』を刊行した。

また、同時期に雑誌『バレーボールマガジン』への寄稿を開始。『バレーボールマガジン』は1973年に創刊を開始し、日本のバレーボール専門メディアでは2番目に長い歴史を持つ。1990年代に一時休刊となっていたが、中西さんがライター活動を始めたタイミングで復活した。その後、『Vマガジン』などで編集にも携わり、2003年にウェブメディア(当時の名称はバレーボールワールド)を立ち上げた。こうして、バレーボールの世界へと足を踏み入れていくのであった。
バレーボール未経験で下に見られることも…
中西さんのバレーボールライターとしての歩みは、苦労の連続だった。
「バレーボールのライターをしていると、必ずと言っていいほど『バレーボールをしていたんですか?』と聞かれます。ある時とある監督さんに質問され、バレーボールの競技経験がないことを伝えると、『僕らの苦労はわからないですね』と言われるなど、見下されるようなこともあり、悔しい思いをしたこともありました」
また、2010年代に雑誌からウェブメディアに軸足を移してから、試合会場での取材パスが下りないことが数年続いた。その間はマッチレポート、結果の速報、チームへの取材など、できる限りでバレーボールの魅力を発信し続けた。努力が報われ、数年の時を経て、取材パスの許可が下りた。

現在ではニュースサイトで当たり前のようにバレーボールの情報を確認できるが、ウェブメディア移行期の2010年代はバレーボールの情報は需要がないと判断され、掲載されていなかった。中西さんたちはニュースサイトの本社に何度も通い、プレゼンを実施。数年にもおよぶ交渉の末にバレーボールの情報配信にこぎ着けた。
こうした苦労の根底には、バレーボールへの情熱、そしてバレーボールの魅力を伝えたいという思いがあった。
未経験だからこそ、ファンだからこそ、伝えられることがある
バレーボール未経験と揶揄されることもあった一方で、競技未経験者だからこそ、新しい戦術や理論を受け入れやすいというメリットを感じているという。バレーボールに限らず、常識は時代の変化とともに移り変わる。
なによりも競技を先入観なく、柔軟な目線で見られることがライター活動に大きく役立っているという。
また、もともとはバレーボールのファンであるからこそ、読者目線を持つことができる。
「子供の頃からバレーを見てきましたが、選手の声は雑誌にごくわずか載っているだけでした。実際には記者会見など取材現場ではかなり時間かけて行われていましたが、どこにも載っていないというのが実態でした。ファンはメディアを通じてでしか、選手の声を知ることができません。だからこそ、できる限りありのままを掲載するように心掛けています」
『バレーボールマガジン』では選手のありのまま、試合そのまま、プレーそのままの魅力を伝えたいという思いから、早くからスタッツ(数値データ)を公開していた。選手の過去の実績にとらわれず、メディアのフィルターを通さず、プレーそのもので評価するというポリシーも掲げる。

“ファン上がり”であることを隠すライターも多くいる中、中西さんは“ファン上がり”であることを恥じたことはないという。むしろファンだからこそ、ファンが求めることがわかることがあるとポジティブに捉えている。
なによりもバレーボールが好きだからこそ、熱量を高く持って取り組める。中西さんをはじめとする『バレーボールマガジン』のスタッフはSVリーグ、Vリーグ、大学、春高といった多彩なカテゴリーを取材し、海外リーグの取材を行うこともある。
「紙媒体時代に現在のネーションズリーグの前身であるワールドリーグの会場でバックナンバーを販売するために編集長の運転するバンに乗って全国を回ったこともあり、日本男子代表の試合は、国内のどの関係者よりも数多く生で取材しているという自負はあります。初めての海外取材は2002年のアルゼンチンで行われた世界選手権。以来、アテネ五輪予選敗退後、辞退者が続出して11名で行われ、10年ぶりに優勝したアジア選手権や、コロナ禍のスロベニアでの世界選手権、史上初のメダルとなったポーランドでのネーションズリーグもほぼほかの日本人取材者がいない中、黙々と取材を続けてきました。オリンピックは取材パスの資格が厳しすぎて一般の媒体にはおりませんが、チケット観戦で北京五輪やパリ五輪も日本戦は全試合取材をしてきました。
女子も史上初五輪出場が途絶えたシドニー五輪予選後のワールドグランプリにも、毎日足を運びました。観客は学生の動員のみで400人だけ、取材者も私と現在のバレマガ編集長の高井、もうひとりバレー部出身の新聞記者の3人だけ。最大手の競合他誌すら姿を見せなかったどん底時代も“バレー情報発信の灯を絶やしてはならない”と選手とともにポールを立てたり、ネットを張ったり。マカオのワールドグランプリで自国の選手より大きな声援を浴びる木村沙織選手や高橋みゆき選手の姿を見て、日本女子バレー人気の復活に胸を高鳴らせたことも」
このようにして、中西さん、そして『バレーボールマガジン』はバレーボールの魅力を発信してきた。
日本のバレーボール界は2024年10月から新たなリーグが誕生するなど、転換点を迎えている。現在はイタリア・ペルージャで活躍する石川祐希選手をはじめ、バレーボール日本代表の人気は根強い一方、リーグの人気は発展途上の段階にある。
「昨年から新たなSVリーグが始まりましたが、代表の人気をリーグの人気に繋げ、リーグの人気を代表強化のために繋げ、良い循環を作っていきたいです。バレーボールマガジンをはじめとするメディアがその一翼を担えれば、嬉しいです」と語る。
『バレーボールマガジン』はバレーボールブーム全盛の1980年代より前に創刊され、バレーボール人気の一翼を担ってきた。雑誌からウェブメディアに軸足を移しながらも、バレーボールのおもしろさ、選手の思いを多くの読者に届けてきた。今後もその歩みを止めることなく、バレーボールの魅力を発信していく。

