福岡県立修猷館高校野球部OB・鴛海秀幸氏「考え続け、挑戦を止めないことを学んだ3年間」

高校時代のさまざまな経験が人生に大きな影響を与えることは多い。現在、野球レッスンやアスリートマネジメント等を行なう『株式会社shake hands』を営む鴛海秀幸氏もその1人。福岡県屈指の進学校である県立修猷館高校(以下修猷館)での日々が、その後の生き方を大きく左右したという。
「修猷館に行っていなければ東京六大学で野球をやろうとは考えなかった。スポーツの仕事に就くようなこともなかったと思います」

鴛海氏は『株式会社shake hands』を立ち上げ、野球関連のさまざまな事業を行っている。元ソフトバンク・攝津正氏、馬原孝浩氏、吉村裕基氏らとビジネスを共にし、また、若年層への野球普及活動や離島のスポーツ振興など業務は多岐に渡る。
「修猷館で野球をやったことが今に繋がっています。甲子園出場の夢は叶わなかったですが、東京六大学で野球を続けるという明確な目標が見つかった。『スポーツに関わる仕事をする』という思いが芽生えたきっかけもできたと思います」
「修猷館での日々における多くの経験や出会った人たちに刺激を得て、今に至っている」とも語る。

~私立校に勝って甲子園へ行きたい
修猷館は1784年(天明4年)に藩校として開校、毎年、名門大学へ多くの学生を送り出す進学校だ。部活動も盛んで、野球部は1895年(明治28年)創部で今年創部130年を迎えた。甲子園出場経験はないが、夢の実現へ向け現役部員たちは本気で取り組んでいる。
「大阪で生まれ小学6年で福岡県へ引っ越しました。当初は修猷館の存在は知りませんでした。小さい頃から親と一緒に、甲子園の高校野球へ足を運んでいましたので、福岡県で知っている高校は野球強豪校くらいでした」
1992年夏の甲子園では、日本ハム・新庄剛志監督の母校でもある西日本短大付属高が全国制覇。福岡県内では公立の小倉東高が春のセンバツ出場を果たしたような時期だった。
「修猷館を知ったのは、衛藤震治監督(当時)が僕の中学へ練習を見にいらっしゃったからです。中学2年の新チーム結成から主将で左腕エースだったこともあり、『修猷館へ…』と声をかけていただいたことを覚えています」
「野球に特化した私立校ではなく、勉強も含めた高校生活を大事にした上で甲子園を目指したかった」と振り返る。
「高校野球はやるつもりでしたが、『私立校で甲子園を目指す』という考えはなかった。衛藤監督が来てくれたことと自分の学力を考えた上で、修猷館への進学を決めました」

~私立校と公立校の差を夏の大会で実感
福岡県で公立校が甲子園出場するためのハードルは高かった。しかし高校2年の秋の県大会ではベスト8まで進出した。
「勢いや運も味方してベスト8に進んだが、最後は九州産業大九州高に『4-5』で敗戦。その後、同高は県大会優勝、九州大会準優勝で翌年春の甲子園に出場した。1点差での敗戦は今でも忘れられません」
秋の県大会前には、同年夏の甲子園へ出場した東福岡高を相手に練習試合で完封勝利も収めている。
「僕の世代では自分を含めて5人、高校1年秋から試合に出ていたこともあり、新チームになってもまとまりがありました。練習試合ですが東福岡高に勝った時も、驚きは大きくなかった。ちなみに、僕の高校3年間で唯一の完封勝利だったと思います(笑)」
ひと冬を超え、更なる成長の先に夏の甲子園出場を見据えていた。しかし現実は厳しく、高校3年の夏は2試合目(3回戦)で敗退する。
「私立校の成長度の大きさを実感した。当時、僕の2つ下の弟が東福岡高野球部へ入部しました。5時30分くらいに朝練のため家を出て、帰宅するのが22時30分くらい。僕は7時30分からの授業に合わせ登校、19時時30分くらいには部活を終え帰宅していた。単純ですが、練習量の違いが成長度の差になったのだなと思いました」
「(練習量の違いから)私立校と公立校の差が埋まりにくいのも理解できる」と語る。その一方で、「近年でも東筑高のように甲子園に行っている公立校もあるので、一概には言えないが…」と言葉を続ける。

~修猷館が「大学でも野球を続ける」思いを持たせてくれた
「文武両道の高校で、『勉強もやらないと置いていかれる』と感じていました。でも『甲子園に行きたい』と常に思っており、高校3年の夏で現役引退するまでは、正直なところ完全に野球へ軸足を置いていました」
高校卒業後の進路について、「東京六大学でプレーをする」という選択肢を与えてくれたのも修猷館野球部の先輩だった。
「2学年上の先輩が『慶應大へ進学して野球をやる』と聞いた。『修猷館からでもそういう道を選べるんだ』と知って、自分も『浪人してでも慶應大へ行きたい』と思うようになりました」
野球部の仲間と共に浪人、一般受験で慶應大へ合格した。浪人時代のモチベーションは『慶應大で野球をやること』であり、大学入学と同時に野球部の門を叩いた。
「慶應高からの進学組。甲子園で活躍したエリート選手らを中心とした2月組。そして、僕のような一般入試を経て入部した4月組。慶應野球部には多種多様な選手が集まっていました」
野球のみでなく、1年生に課せられた「仕事」と呼ばれる練習準備や掃除などの多くの時間を共有することで、多種多様な選手が1つにまとまることができた。
「自分の長所や短所をしっかり理解した上で練習に励みました。故障もありましたが神宮球場での登板機会にも恵まれ、充実した4年間を過ごせました」
2年春から東京六大学リーグ戦でベンチ入り。投手として9試合に登板して1勝を挙げ、2004年秋季リーグ戦(大学4年)では優勝も経験した。
「『修猷館在学中に東京六大学で野球を続ける』という思いを持てたことは、本当に大きな転期でした。そのおかげで、素晴らしい経験を積めました。後輩たちにも同様の経験をして欲しいです。野球を続けるチャンスがあるのなら、挑戦しても損や後悔はしないと思います」

~考え続けた先にある自分の思いに挑戦する
「慶応野球部時代は、面識のない修猷館OBや同校関係者の方々にまで応援してもらえました。福岡から遠く離れた場所で心強く、温かみも感じられました」
神宮球場での試合後には、多くの修猷館関係者から声をかけられた。「なぜ慶應で野球をやっているのか、を常に思い出させてもらえた」という。
「『何をすべきか?』を考え続けること。自分の思いに挑戦すること。この2つを修猷館で学びました。僕の場合は野球、スポーツと関わっていくことでした」
大学卒業後は複数の企業でキャリアを重ね、2009年から約5年間は埼玉西武ライオンズの球団職員も経験。その後はアスリートマネジメント業界も経験、2019年に『株式会社shake hands』を立ち上げた。
「『野球やスポーツに関わることをしたい』という思いを持ち続けていました。『経験と実績を重ねて独立する』という人生プランを立てて動き、現在に至っています」

「現在の自分を作り上げてくれたのは修猷館です」と感謝の気持ちを持ち続けていました。だからこそ、母校野球部が甲子園出場することも心から願っている。
「現実は厳しく簡単ではないですが、前向きに戦い続けて欲しい。福岡県内にも甲子園へ複数回出場している公立校もあります。決してできないことではないはずです。考え続けて可能性を見つけ出し、高校野球という短い期間の一瞬に自分の思いを懸けてもらいたいです」
「母校野球部にはいない、甲子園出場経験者の方々に意見やアイディアをいただくのも大事かもしれないですね」と、今後への私見も付け加えてくれた。
「昨秋は逃しましたが、21世紀枠でのチャンスなども含め、修猷館が甲子園でプレーする姿を見たい気持ちはあります。でも、最高の舞台を目指して努力を続ける姿勢こそが素晴らしいことだとも思う。何が答えかはわかりませんが、それを探し続けられるという意味でも、修猷館は本当に良い場所だったのではないでしょうか」

「高校野球は教育の一環」という大義名分が掲げられている。しかし実際は、勝利至上主義に走り、ビジネス面を重視している学校もある。そんな中で、高校野球や学校生活の3年間が人生の指針になってくれるような高校も少なくない。
修猷館が甲子園へ出場して注目されれば、日本スポーツ界の未来へ何かしらの好影響を与えられるのではないか。そんな思いすら抱かせてくれる鴛海氏の話だった。創部130年を迎えた今夏、修猷館野球部がどんな戦い方をしてくれるのか、今から楽しみになってきた。
(取材/文・山岡則夫、取材協力/写真・鴛海秀幸、修猷館高校野球部、修猷館高校野球部OB会)