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何度も何度も這い上がって、東京ドームのマウンドで輝いた篠原慎平

名門校から独立リーグへ

 
篠原慎平は、高校時代から四国では名前の通った投手だった。186cmの恵まれた体。投げおろしの速球は威力があった。
高校は名門川之江高校に進み、1年生からエースとして投げるが、不祥事に巻き込まれ2年次で私立の通信制高校に転校。
しかし野球への想い断ちがたく、2008年、高校生の身分のまま四国アイランドリーグ(当時)の愛媛マンダリンパイレーツに入団した。
 

大手術を乗り越えて

 
素質は際立っていた。1年目には早くも4勝、将来を嘱望されたが、2年目には2勝、3年目の2010年は好調で、初完封も記録するが、右肩を痛めて6月以降ほとんど投げられなくなる。
医師の診断は、関節唇断裂。
関節唇は、腕と肩をつなぐ部分をぐるっと取り巻いている繊維の組織。腕の骨を受け止めて支える役割をする。
この関節唇がはがれたのだ。登板過多の投手に多く見られる症状だが、肩からはがれた関節唇が自然に元に戻ることはない。
手術によってはがれた関節唇を縫い合わせて元に戻すのだ。
篠原も2010年の10月にこの手術を受けた。
肘の靭帯が断裂した場合には、その靭帯を復旧して結び合わせるトミー・ジョン手術を受ける。これは治療例も多い。日本ではダルビッシュ有や和田毅、田澤純一なども受けているが、手術からのリハビリ体制も完備され、高い確率で復帰することが期待できる。
しかし関節唇の修復手術は、日常生活に支障がないレベルまでの復旧はほぼ確実だが、投手がもう一度投げられるまでに回復するのは難しいとされていた。ポジションの変更を余儀なくされた選手も多い。
篠原の場合も、手術は成功したが、なかなか投げることができなかった。
2011年、2012年と公式戦の登板はなし。2012年は自由契約となって、新たに無給の練習生として契約を結びなおした。練習試合には投げることができたが、記録は残らず。
篠原は2012年のオフに愛媛マンダリンパイレーツを退団した。

 

香川マンダリンパイレーツの本拠地 松山坊っちゃんスタジアム

 

新球団でわずかなチャンスにかける

 
しかし篠原は野球をあきらめなかった。この年12月8日、9日に高知で行われたトライアウトを受けて、合格。ちなみにこの時のトライアウトは、現在中日で投げている同い年の又吉克樹、山本雅士らも合格している。
篠原は香川オリーブガイナーズに入団したが、肩の状態が万全とは言えず、当初は練習生の扱いだった。
しかし翌20013年2月に支配下登録され、公式戦で投げることができるようになる。
実に3年ぶりの公式戦登板。先発、救援で23試合に投げ3勝6敗だったが防御率は4.12、しかしオフに再び練習生となる。
チームとしては、オフの補強で有力な選手を獲得した場合、篠原は練習生のまま、できなかったときには支配下登録するという考え方だった。
篠原は低い評価に一度は現役続行を断念したが、最後のチャンスと思い直して再び挑戦することにした。
2014年シーズンが開幕しても篠原は練習生のままだったが、4月10日になって支配下登録された。
 

救援投手として開花

 
香川オリーブガイナーズの西田真二監督は、篠原を救援投手で起用するつもりだった。
立派な体格と本格的な投法から、篠原は先発投手だとみなされていた。しかし肩に古傷のある篠原は長いイニングを投げると球速が落ち、打ち込まれることが多かった。
この年の香川は、絶対的なエースの又吉克樹が前年、ドラフト2位で中日に移籍し、投手陣が手薄だった。そのこともあって、西田監督は、本来なら先発で投げる力量のある篠原を、救援投手で起用したのだ。
 
これが功を奏した。短いイニングならスタミナを気にすることなく、思い切って投げることができる。篠原は抑えの切り札となり、53試合に投げて6勝10セーブを挙げる。
これまで140km/h台だった球速は、153km/hに達した。
2014年、私は四国アイランドリーグplusの試合を数多く取材していたが、香川の試合の客席に、いつもいる家族連れが気になった。年配の夫婦と若い女性だった。
「ファンなんですか?」と尋ねると
「篠原の家族です。親と姉です」とのことだった。
家族は香川のホームゲームだけでなく、車で四国中の試合を追いかけていた。その土地土地の温泉に入ったりしながら、懸命に篠原の登板を見つめ続けていたのだ。
すでに24歳。同い年の又吉克樹、小川泰弘、西勇輝、西野勇士らはプロ野球で華々しい活躍をしている。
野球で未来に挑戦するのはこれが最後のチャンス。家族にもそんな思いがあったのだろう。

 

香川オリーブガイナーズで力投する篠原慎平

 

育成枠でついにプロ入り

 
秋には篠原にプロ球団から調査票が送られてきた。ドラフトで指名するかもしれない選手に送られる書類だ。
篠原は、10月23日のドラフト会議を、期待と不安の入り混じった気持ちで見つめた。
ヤクルトと楽天は、ドラフト1位に篠原よりも6歳も若い、同じ愛媛県の愛媛済美高校、安樂智大を指名した。安樂は抽選の結果、楽天が指名権を得た。
巨人は安樂と同い年の智辯学園の強打者、岡本和真を指名。
香川オリーブガイナーズのチームメイトだった寺田哲也はヤクルトの4位で指名された。徳島インディゴソックスの入野貴大は、楽天の5位、同じく山本雅士は中日の8位、しかし全球団が指名を終えても、篠原の名前は呼ばれなかった。
ドラフトは、育成選手の選択会議に移行した。
 
果たして、巨人は育成氏名の第1位で、篠原慎平を指名した。
この年の四国アイランドリーグplusからの指名は4人。最年長の篠原は、最も指名順位が低い育成1位。
篠原は7シーズンもの間四国アイランドリーグplusに在籍していたが、2014年以外はほとんど実績を残していなかった。たった1年の活躍で、育成枠とは言えNPBから指名を受けたのは奇跡に近かった。
篠原はこの年の11月17日に仮契約を結び、11月23日に東京ドームの「ジャイアンツ・ファンフェスタ2014」の会場で行われた入団会見に臨んだ。憧れの東京ドームのお立ち台、8人の新人の中では、篠原はドラフト3位の高木勇人に次ぐ年かさだった。

 

東京ドーム

 

育成枠から支配下へ新たな挑戦

 
育成枠の選手は支配下選手とは異なり、二軍戦には出場できるが、一軍の公式戦に出場できない。
支配下選手は一けたか二けたの背番号をつけるが、育成選手は三けたになる。
篠原は育成枠の1位ということで「001」という背番号が与えられた。
 
育成選手は、二軍戦で実績を上げて、支配下選手にならなければならない。他の選手より一段階ステップが多い。篠原と同期で育成選手として入団したのは22人(他に入団辞退1人)。この中で今年までに支配下選手になったのは今年の時点で4人だけ。
たった一つのステップだが、それを這い上がるのは並大抵のことではないのだ。
 
1年目の2015年、二軍戦で篠原に与えられた登板機会はわずか4試合、3.1回を投げて被安打1、自責点1だった。
篠原は練習試合や被公式戦でも投げた。
2016年、巨人は三軍を創設。独立リーグのBCリーグとの交流戦など三軍独自の試合も大幅に増えた。
登板機会が増えるとともに、篠原は中継ぎ投手として頭角を現す。
三軍戦では17試合に投げて1勝4敗、防御率3.18
二軍戦では16試合で2勝1セーブ、防御率1.71
二軍のレベルでは十分に通用することを証明して見せたのだ。
 

ついに東京ドームのマウンドへ、さらに上を目指す

 
3年目の2017年も篠原は好調だった。9試合に投げて0勝1セーブ、自責点0の防御率0.00。
チャンスは一気にやってきた。巨人は、4月16日に篠原を支配下選手に登録した。背番号は92に。右の救援投手の故障が相次ぐ中で、首脳陣は篠原に白羽の矢を立てたのだ。
19日の鹿児島でのヤクルト戦で一軍デビュー、3回から投げて3回を無失点、プロ入り初勝利。
篠原はデビュー戦も含め7試合に投げて1勝1敗、防御率4.00、まだ首脳陣の信頼を勝ち得たとは言えない状況だが、何度もの挫折を経て、ここまでやってきた。東京ドームの満員の観客の前で投げるチャンスを得たのだ。
 
独立リーグからプロ野球に行く選手の多くは、短期間で独立リーグを”卒業”する選手は多い。そんな中で篠原は稀な選手だと言えるだろう。
諦めず、自分を信じてやってきたことが、今の結果につながっている。篠原慎平の今後の活躍に注目しよう。

 
 
 篠原慎平のキャリアSTATS(2016年5月7日現在)
 
 

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スポチュニティコラム編集部より:
篠原選手がかつて在籍した愛媛マンダリンパイレーツは現在、応援してくださる皆様からの支援を募集しています。
支援募集ページはこちら:
優勝街道を爆進中の愛媛マンダリンパイレーツを応援するプロジェクト (四国アイランドリーグ Plus 2016後期)
https://www.spportunity.com/ehime/team/12/detail/
500円から始められる支援、共感頂けた方はぜひお願いいたします。
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広尾晃
「野球の記録で話したい」ブロガー、ライター

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