土に、膝をつく。文化人が挑む、北の球団――富良野ブルーリッジ、二つの真実(前編)
ビニールハウスの中は、汗ばむほどに暖かい。土に膝をついた若者が、苗の根元に指を入れていく。色黒く日に焼け、筋骨隆々としたその体は、野球選手のものだ。午前は畑で働き、午後にグラウンドへ向かう。
北海道富良野市。人口2万を切るこの町に生まれた小さな球団に、十数人の若者が集まっている。野球をするために、本州から海を渡ってきた者たちだ。
なぜ若者は、プロへの近道とも言えぬこの町へ集まり、なぜこの小さな球団は、独立リーグとして生き残ってきたのか――。(前後編/前編)
消える球団、残る球団
富良野ブルーリッジ。北海道ベースボールリーグ(HBL)に所属する独立リーグの球団である。コロナ禍のさなかに産声を上げ、6年目を迎えた。
地方に根ざす独立リーグを取り巻く環境は、厳しい。2005年の四国での誕生以降、各地に二十を超える球団が立ち上がっては、消えていった。一、二年で姿を消した例も少なくない。HBLでも、奈井江・空知ストレーツが僅か1シーズンで歩みを止めている。その中での、6年目。決して簡単な数字ではない。
その始まりは、球団と一人の文化人との出会いからだった。

『知らなかった』から始まった
現在、球団代表を務める篠田信子と球団との関わりは、「知らなかった」から始まった。
前身のレラハンクス富良野BCは、すでにあった。だが市民も、いまの運営陣も、存在を知らなかった。新聞記者のひとこと――退団者が出て、だいぶ人がいなくなったらしい――で、篠田は初めてチームを知る。
最初は、軽い気持ちだった。富良野の名を背負った球団があるのなら、市民として応援しなければ恥ずかしい、と思ったのだ。
篠田にとって、富良野は元々縁のない土地だった。夫の転勤で移り住み、子育てを通じて定住を決め、文化活動で深く関わってきた。野球との縁は、なかった。が、催しを企画し、各所と調整することには慣れていた。
「富良野市の球場で、試合をさせてあげよう」
それが、入口だった。チームは富良野の名を冠しながら、使用料の都合で、ほとんどの試合を市外で戦っていたのだ。
関わってみて、見えたものがあった。来年はもう続かない、という現実だ。
経営と呼べるものは、なかった。その場で金を使い、開けてみれば底が見える。借金は方々に。栄養管理もサポートもない。あったのは、情熱だけだった。
「来年以降は、篠田さんたちが引き継いでくれないかね」
潰れかけた球団の選手の、ひとことだった。
野球という『文化』
簡単に引き受ける気にはなれなかった。
篠田は、野球の人ではない。劇作家・倉本聰とともに演劇専用の劇場を立ち上げ、NPOとしても、指定管理者としても全国第一号の認証を取って活動してきた文化人。文化と経営のはざまを生きてきた人間だ。
だからこそ、わかっていた。球団経営は、劇場に一つ芝居公演を呼んでくる話とは、わけが違う。若者の人生を預かるのだ。動くお金も、一桁は軽く違う。
しかし、大切にしてきた信条があった。
「生きるために必要なものは、食べることと、心を弾ませること」
野球もまた、心を弾ませる「文化」の一つだ。町に文化を残す――その仕事に、球団がなりうると思った。
引き受けるまで、仲間と会議を三十回ほど重ねた。担い手は、一人ではない。役員に顔を揃えたのは、教育を見る者、財務を見る者――その多くは野球人ではない。地域への思いと経験と人脈。前身に欠けていた「仕組み」を、彼らとともに持ちこんだ。
こうして、野球の事業としてではなく、文化の事業として、富良野ブルーリッジは再び歩み始めた。
「スポーツも、文化です」。名刺を出すたびに、なぜ文化の人が野球を、と問われ続けた篠田は、そう返しながら町を回った。

諦めるための場所ではない
想像していた通り、順風満帆とはいかなかった。
行政は、はじめ見向きもしなかった。反対ですらない、無関心。
「どうせ潰れるだろう、と思われていたんですね」
それでも、粘り強く続けた。すぐは動かなくても、いつか一緒に歩めるときがくる。劇場の指定管理で行政と向き合ってきた篠田は、間合いを知っていた。
競技の面でも、難所は多かった。本州には、よりレベルが高く、プロへの道も近い独立リーグがいくつもある。有望株は、そちらへ行く。富良野に来るのは、「まだそこへは行けないけれど、野球を諦めきれない子たち」だ。野球は上手く、体も強い。だが、どこかが足りない。個性派集団といえば聞こえはいいが、目の前にあるのは汚された寮、破られるルールだ。
その一人ひとりに、徹底的に向き合う。「立ち上げから今まで、クビにした選手は一人もいない」と篠田は言う。放り出せば、どこへ行っても同じことを繰り返す。だから預かる。深夜、本州の親に電話をかけ、「今、こういう指導をしました」と伝える。中学校か、と言われるほどの生活指導を、親と一丸になって続けた。手放さないのは、根底に一つの思いがあるからだ。
「思いっきり、富良野で野球をしなさい。そして、思いっきり諦めなさい。(そうなったら)次のステップに行くことは、しっかり応援します」
諦めることを応援だと言う球団は、珍しい。だが本気だ。野球を手放すときが来ても、それを敗北にはしない。次に活かせる心と体を持たせて、送り出す。人間性を磨き、セカンドキャリアも支える――それを、球団の柱の一つとした。

『二つの土』と向き合う
冒頭の光景に戻る。
午前中、選手は全員、働く。経済的には働く必要のない選手でも、例外はない。富良野では、その働き先のほとんどが農家だ。
農作業など、したこともない若者が、ビニールハウスで土に膝をつき、土と向き合う。
鍛えた体は、現場で頼りにされた。地域の役に立つ――その手応えが、いつしか魅力に変わった。
もう一度農業がしたい、と再び入団した選手がいる。引退後、富良野で新規就農を志す者も現れた。本来なら本州へ帰るシーズンオフを、この町で過ごす選手も、少なくない。
選手の就労先は、最初の応援団になった。小さな町にも、スポンサーが少しずつ現れる。額は大きくない。だが、産業が大きくないこの町では、スポンサーが生まれること自体が、大きな一歩だ。

拍手は、人からチームへ
その波は、行政や企業にも広がった。
富良野市と、近隣の五市町村から、協賛金が出た。地域企業の協賛は、80社まで積み上がった。人口2万に満たない町での80は、軽くはない。
最初は、チームの価値を見たわけではなかった。篠田たち役員が文化や教育で培ってきた関係性に、「あの人たちがそこまでやるなら」と資金が出た。
だが、チームが町に浸透するにつれて、支援の質が変わる。バスのラッピングに名を出す企業が現れた。人ではなく、チームへの応援に変わっている――そんな手ごたえも、感じられるようになっていた。
北の町が、湧いた日
チームが、リーグを制した。
優勝への市長報告で、市の広報担当が動いた。選手が庁舎に来る――そう全庁にお触れを出したのだ。
選手たちが、庁内を歩く。1階、2階、3階。順に巡る。行く先々で、職員たちが、みな立ち上がり、拍手が起きた。次も頑張って、と声援が飛ぶ。
「立ち上げのときには、考えられない。鳥肌が立ちました」
町内すべての家に配られた市の広報には、全選手の顔写真が載っていた。
野球を知らなかった一人の文化人が、北の小さな町に、確かに何かを残した。借金まみれの球団を引き継いで、5年。情熱から、経営へ。経営から、地域へ。担い手は移り、いまや町ぐるみで、十数人の若者を支えている。
文化は、暮らしのなかへ、自然に染みていくもの――篠田が信じてきたことが、拍手の音になって返ってきたように思えた。文化として、根を張りだしたのだ。

戻ってきた『新たな担い手』
「本当はもうここで(役員を)辞めてフェードアウトしてもいいんですけどね」
敵をつくらず、ゆるりゆるりと――役員たちの経験と人脈で、ここまで来た。赤字を出さずに回すめどは立った。だが、今はまだそこまでだ。約80社の協賛、5市町村の支援、人口2万弱の商圏――その輪郭のなかで、若い人材に給料を払い、戻ってこられる組織にしたい。IPBL(日本独立リーグ野球機構)への加入も見据えるが、いまの球団では時期尚早にも思える。組織が、もう一回り大きくならねば、その先には進めない。
「次につなげていくためにも、もう一つ、脱皮だね、と」
地方球団は、野球興行だけでは成り立たない。球場の指定管理、部活動の地域移行――新たな経営基盤を、手探りで組み上げる段階に来ていた。新たに始めた台湾への交流派遣も、その手探りの一つだ。文化的にも、育成的にも、経営的にも意味がある、と篠田は見る。
ここに来て、新たな力も現れつつある。この5年間を選手として過ごしたOBたちだ。自ら動き、経営の面からも球団を支えようとする。農業を営むもの、アナウンサーとなったもの、地元の企業を承継したもの――その顔触れは多彩だ。ただ、共通するのは「自分にとって、富良野での数年間は、本当に大きなものだった」という感謝だ。
耕してきた時間が、少しずつ、実りはじめていた。

(前編了/後編はこちら)
