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元セ・リーグ新人王投手・長冨浩志、移籍や職安通いという多彩な経験を投手コーチへ活かす

広島、日本ハム、ダイエー等で活躍した長冨浩志は、指導者として奮闘中だ。

クラブチーム・ハナマウイ投手コーチとして、都市対抗野球本戦出場と全国クラブ野球選手権優勝を目指す日々。自身の経験を活かしつつ時代や環境の変化へ柔軟に対応することを大事にする。

様々な経験を活かし、時代に即した形での指導を心掛ける。

~中途半端な知識や精神論は話さない

「今の選手は多くの専門知識を持っています。ネットや動画サイトを通じて多くのことを学んでいますから。投手コーチとしての仕事や接し方は変わってきている。時代に即した形を模索しています」

広島、日本ハム、ダイエーでのプロ通算16年間で464試合登板、77勝77敗10セーブ、防御率3.84。1986年にはセ・リーグ新人王にも輝いた実績を持つ長冨氏は、選手との距離感を考え慎重に接することを大事にする。

「中途半端な知識や精神論を振りかざしても溝が生まれる。必要なことがあれば自然と聞いてきますから経験を短めに話す。参考になることがあれば本人が判断して取り入れるはずです」

~中日との乱闘は長冨がきっかけ

「昭和の野球人」というイメージがある。今でも珍プレー集で放送される広島と中日の大乱闘時にマウンド上にいた。闘将・星野仙一監督率いる中日主力打者に立て続けに死球を与えても平気な顔でいる姿が印象的だ。

「生意気でした。何があっても自分が悪いとは思わず、『死球は避けない方が悪い』くらいの感じ。帽子をとっての謝罪などしなかった。今だったら大炎上で大変な騒ぎになっているでしょうね」

「先日、チームメイトだった高橋慶彦さんから電話が来た。YouTube内で同・長嶋清幸さんと乱闘の話になった。『自分たちは暴れたけど、きっかけは完全に長冨』という話で盛り上がったらしい」

周囲など気にせずマイペースの野球人生を歩んできたように見える。指導者になってからも同様のスタンスが残っていても不思議ではないが、現在の姿は別人のようだ。

アマ、プロと数多くの投手たちを見続けてきた眼力は正確だ。

~ドラフト拒否男と呼ばれる

「トンガっていました。投球に自信があったし気持ちで引いたら打たれると思っていた。でもプロが長くなると投球スタイルの変更を余儀なくされました。理不尽な扱いを受けたこともあります。そういうことの積み重ねで、多少は謙虚になったかもしれない」

プロ1年目から主力として投げ続けた華々しい印象が強い。しかしアマチュア時代から紆余曲折の多いローラーコースターのような野球人生だったことは、あまり知られていない。

「国士舘大時代は2部リーグでの登板が多かった。無双状態で打たれる気はしなかったです。でも1部に上がっても最下位で、入れ替え戦で投げていた記憶が強い。ワールドカップ日本代表に選ばれましたが、プロは全く頭になかった」

「社会人・電電関東(現NTT東日本)へ行くことが決まっていた。いきなりロッテからドラフト3位指名を受けましたけど、行くつもりは全くない。知り合いの記者からは『ドラフト拒否男と呼ばれるぞ』とまで言われました」

最高峰のプロ野球に入れるなら断る理由はない。しかし当時から自らを客観視していたと語る。社会人でレベルアップを果たし、2年後の1985年ドラフト1位で広島入団を果たす。

「球威、制球、変化球の全てが足りないのはわかっていた。大学で活躍してもほとんどが2部。日本代表とはいえ当時の国際大会は格式が高いものでもなかった。プロ入りするにしてもレベルアップが必須でした」

中途半端な知識や自分の考えを無理強いしないことを大事にする。

~生き残るために腹を括った

8年間在籍した広島時代の晩年には衰えも感じ始めた。球速が全盛期のように出なくなり、決め球のスライダーを活かせない。先発から中継ぎに回され、大事な場面での登板も激減した。

「ずっと先発だったので中継ぎはイヤだった。今でこそセットアッパーという重要な役割もできたが、当時は敗戦処理と同じような感じもあった。自ら『(トレードに)出してください』と言いました」

1994年オフに木村拓也との交換で日本ハム移籍。先発への思いを断ち切り、移籍1年目から44試合に登板するなど中継ぎとして重要な存在となった。交換要員の木村もユーティリティ選手として広島で活躍するなど、お互いに大成功のトレードだった。

「ベテランの域に入りつつあったので、生き残るためにピースの1つになろうと腹を括った。球速は以前のようには上がらないので、上手投げを横手投げにした。また投手はストライクが入ってこそ変化球も活きることに気づいた。スライダーが得意でしたがストライクが取れないと簡単に見逃される。この頃の経験が今の指導にも生きています」

~王監督が拾ってくれて大切なことを教えてくれた

日本ハム時代には新たな自分を見つけ出せた。しかし若手優先というチーム方針から、1997年オフに戦力外通告を受ける。拾ってくれたのは巨人監督時代に対戦経験があった王貞治監督(現ソフトバンク会長)率いるダイエーだった。

「66試合に投げたオフ、いきなり戦力外通告をされた。信じられませんでした。でも王監督がフロントに掛け合い獲得してくれた。巨人時代に僕に抑えられたイメージが残っていたそうです」

「春季キャンプでキャッチボールしていた時、『こんなに(球が)遅かったっけ?上手投げに戻せよ』と王監督に直接言われた。150キロ近い真っ直ぐを投げていた昔の印象があったのでしょう。球威は戻らなくても制球力は上がっていたので結果が出ました」

王監督の鶴の一声で上手投げに戻したことで更なる進化を果たす。移籍1年目の1998年は33試合登板、防御率1.29の好成績。3年目の2000年も33試合登板、防御率2.00の結果を残しダイエーのリーグ2連覇に大きく貢献した。

「王監督には人間性の大事さも教わりました。遠征先の宿舎では選手が風呂に入っていると、自身も入ってきて世間話をする。天井人のような凄い人が自ら我々に寄り添ってくれる。人間的に少しでも近づけるようになりたいと痛感しました」

実際に投球を受けるなど、自分自身から歩み寄ることも忘れない。

~コーチ、監督、そして職安での職探し

2002年限りで現役引退、翌年からはダイエー・ソフトバンク二軍投手コーチを務める。その後は独立リーグ・石川の投手コーチ、長崎セインツと三重スリーアローズで監督を経験。ゴルフ場管理やスポーツ店勤務を経て、ハナマウイ投手コーチとなった。

「指導者としての勉強期間でした。経験って言葉は簡単に言えるけど、本当に大事。特に監督、コーチの仕事は情熱だけではダメで人間関係がとても重要なことを教わった。選手としっかりコミュニケーションが取れていれば、信じてついてきてくれます」

「ハナマウイに入団する前は、職安で仕事探しをしてゴルフ場で働きました。野球に関わりたかったので最初は抵抗があったけど、生活という現実もある。広島から日本ハムへ移籍した時の気持ちを思い出しました。自分が生き残るために何でも試す気持ちは同じです」

スポーツ店勤務時代、お客として買い物に来たハナマウイ社長・森賢司氏に声をかけられた。野球に携わりたい気持ちが強くなっていた時期だったこともあり、コーチ就任を快諾した。

「スポーツ店時代には野球教室もやりました。『残りの人生は野球に関わりたい』と痛感した。その時期に偶然の出会いでハナマウイに入団することになった。自分の経験が少しでも活かせるなら、何でもやろう、還元したいと思っています」

本西厚博監督を支え、強力投手陣を作り上げる。

~投手コーチとして現役時代以上に大きな責任がのしかかる

ハナマウイはクラブ創部2年目の2020年に都市対抗野球本戦出場、大きな話題になった。同時に他チームからのマークは厳しくなり、その後の各大会ではあと一歩で勝ち切れない試合も目立つ。

「結果を出したチームがマークされるのは当然のこと。経験豊富な本西厚博監督の野球を継続していればチャンスは必ずある。それを掴めるかどうかです。勝ち切れないことも経験として積み重なっているのは間違いない。諦めないで上を目指し続けるだけです」

「コーチ就任1年目で選手の技術、個性を把握するのに時間を要した部分もありました。来季は新戦力も入るが今季の主力がまずはベースです。コーチ2年目なので結果に直結する指導をしないといけない。現役時代以上に自分の役割がチームの勝敗を左右すると思っています」

チームが東京ドームの晴れ舞台で戦ってから3年が経過、次の結果を出さないとズルズル行ってしまう危険性もある。現状を打破するため、投手陣を整備する役割が求められている。

「良い素材の投手は揃っています。技術、精神面を含め、ほんの少しのことでカベをぶち破れるはず。そのためにできることを全力でやります」

ここまでの野球人生で多くのことを経験した。職安通いをしたプロ野球OBで現場にいる人も多くはいない。百戦錬磨の投手コーチがハナマウイを一段上のレベルのチームに引き上げてくれそうだ。

(取材/文/写真・山岡則夫、取材協力/写真・ハナマウイ・ベースボールクラブ)

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