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「苦しいところから日のあたるところまで経験できた」元西武・石井丈裕 黄金期に上げた”でっかい花火”と今後の夢

現在、ライオンズアカデミーのコーチを務める石井丈裕氏。

高校から大学3年までの長い下積みを経て、4年生からその才能をようやく開花させた。社会人時代にはソウル五輪に出場し、日本のエースとして世界を舞台に戦った。

そして、ついに踏み入れたプロの世界。ここでさらに大きな”花火”を上げたのだった。

(取材協力:西武ライオンズ、文:白石怜平、以降敬称略)

黄金時代真っ只中の西武ライオンズへ入団

石井は社会人そしてソウル五輪での活躍を評価され、88年のドラフトで西武から2位指名を受けた。五輪で共に戦い、1位指名を受けた渡辺智男とともにライオンズのユニフォームを着ることになった。

当時のライオンズは森祗晶監督の下、黄金時代を迎えている最中。

渡辺久信・工藤公康・郭泰源ら球界を代表する投手陣に加え、野手でも石毛宏典・辻発彦・秋山幸二・清原和博など入る隙のないメンバーが揃っていた。(※「辻」は一点しんにょう)

「指名いただいたからには戦力になるために1軍へ上がることで必死でしたね。こう言っては何ですが、他球団の選手を意識する前に自チームの投手を意識してやっていました」

まず開幕1軍をクリアした石井は、先発とリリーフで投げるもここでプロの壁にぶつかった。33試合に登板するも4勝4敗、防御率は4.33の成績でルーキーイヤーを終えた。

2年目、新球習得が飛躍のきっかけに

2年目の90年、この後の活躍に向けた転機が訪れる。この年から2年間投手コーチを務めた小山正明から1つの球種を教わった。それが石井の投球を支える武器になっていく。

「小山さんがコーチで来てくれた時に、パームボールを教えていただきました。元々スライダーの球が速くて(ストレートと)スピード差がなかったので緩急をつけられませんでした。パームボールを教わってから緩急ができて結果が伴ってきました」

その言葉通り先発ローテーションに定着し、7月までに6勝を挙げる活躍で初のオールスターにも選出された。後半は少し失速したものの、シーズンでは8勝と前年から2倍の勝ち星を記録し、2年ぶりの優勝に貢献した。

新球習得が飛躍のきっかけの1つになった

翌91年シーズンは、故障がありながらも7勝をマーク。チームは再びリーグを連覇し、広島との日本シリーズを戦った。ここでようやく石井は日本シリーズ初登板を果たす。第6戦では途中からマウンドに上がり4回を無失点と好投。シリーズ初勝利も挙げた。

新たな武器を備え、日本シリーズの舞台でも勝利を挙げた。そして、最も輝きを放つ92年を迎えることになる。

15勝と防御率1.94でMVPそして沢村賞に

92年プロ4年目のシーズン、当初は順調なスタートとは言えなかった。

「開幕当初はリリーフでした。ただ、ある時扁桃腺が腫れて熱が出てしまい離脱してしまったんです。少し休んで、また結果を出せたので1軍には定着していました。GWの頃までは連戦が少ないので、6連戦になるまではリリーフで投げていましたが、途中から先発に移った形でしたね」

このシーズン初先発は4月25日。ここから石井の大躍進が始まった。先発の柱として勝ち星を重ね続け、優勝が決まる時期の9月には4勝で初の月間MVPを受賞。15勝3敗3S、防御率1.94の成績でリーグ3連覇の原動力となった。

最高勝率に加えシーズンMVP、そして沢村賞という投手として最高の栄誉を得ることができた。

ただ、石井の92年はここで終わらない。次の日本シリーズでもドラマが待っていた。

92年は最高の栄誉を得たシーズンだった

荒木大輔と最高峰の舞台で”再会”

迎えた92年の日本シリーズ。このシリーズは翌年含めて30年経った今でも、エピソードが各所で多く語られるほど伝説となった名勝負である。

この年、常勝軍団のエースとして臨む石井にとっても特別なシリーズとなった。これには理由があった。早実の同級生である荒木大輔の復活である。

荒木は早実から82年ドラフト1位でヤクルトに入団。87年に10勝を挙げエースとしての階段を登っていた矢先、88年途中に右肘側副靭帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受けた。

復帰に向けた途中で再手術を受けるとともに椎間板ヘルニアと計3度の手術を受け、長いリハビリの日々を送っていた。

約4年にも亘る長いリハビリ生活を乗り越え、92年9月24日に感動の復帰登板を果たした。

石井も荒木に電話で激励するなど2人は絆で結ばれており、

「意識はすごくしました。当然です。ただ一緒の試合で投げ合わなくて良かったです」と当時を語った。

このシリーズでは石井が第3戦と第7戦、荒木は第2戦と第6戦に先発した。

森監督が「タケと心中」した日本シリーズ

1勝1敗で迎えた第3戦に石井は完投勝利を挙げ、その後3勝3敗で迎えた第7戦、前回149球の熱投から中4日で敵地神宮での先発を託された。

対するスワローズはこのシリーズ3試合目の先発となる岡林洋一。第1戦、第4戦で完投しておりこちらもわずか中3日での登板となった。

同年の日本シリーズでも球史に残る戦いを演じた

お互いに満身創痍の中、一歩も譲らぬ投手戦。そんな中4回、バント処理の際に自身の悪送球となってしまい先制を許してしまう。

その後両者は無失点に抑え、迎えた7回に再び試合が動いた。2死2塁の場面で8番の伊東勤は敬遠。ライオンズベンチは代打を送らず、石井をそのまま打席に送り出した。

森監督は当時投手コーチだった森繁和と雑誌での対談企画で、”タケと心中だった”と語っている。

「ピンチになるとタケは抜群のピッチングをするんだよ。だから僕は腹をくくったね」

チームリーダーの石毛宏典もベンチからメガホンで鼓舞する中、6球目のカーブを振り抜いた打球は右中間へ。センターを守る飯田哲也のグラブに触れるも抜けて2塁打となり、自らのバットで振り出しへと戻した。

しかしその裏の守り、1死満塁のピンチを迎える。野村克也監督が告げた代打は初戦にサヨナラ満塁本塁打を放った杉浦亨。ここで日本シリーズ史に残るシーンが起きた。

外野フライすらも許されない場面。「低い球で内野ゴロを打たせよう」と伊東のミット目掛けて投げ込んだ。杉浦のバットを折りながら打たせた打球は二塁・辻発彦の元へと飛んだ。

辻は追いつくと身体を回転させながら本塁へ。そして伊東がジャンプしながら、3塁走者の広沢克己をタッチ。間一髪でアウトにし、その後のピンチも切り抜けた。

その後も互いに譲らずこのシリーズ4度目の延長戦に突入。10回表、秋山幸二の犠牲フライで勝ち越すと裏のマウンドに石井は上がる。そして三者凡退に打ち取りゲームセット。胴上げ投手となりチームを日本一3連覇へと導いた。

「日本一を目標にやってきましたし、ピンチの時に森監督がわざわざマウンドまで来てくれて、『ここはお前に任せた』と言われた時は目頭が熱くなりましたよ。その言葉でやっぱりやる気が湧きますよね。『よっしゃ、やったろう!』ってなりますから。さらにそこで結果を出せたのが何よりの恩返しだったと思っています」

92年、球界の頂点へと登った

この活躍が評価されて日本シリーズMVPにも輝いた。そして、その年の日本のプロ野球の発展に大きく貢献した者を対象として贈られる「正力松太郎賞」も受賞し、シーズンMVPと沢村賞も含め、プロ野球界の栄誉を総ナメにした。

プロ野球界最高の賞を受賞し、まさに石井丈裕のシーズンとなった年であった。改めて振り返り、「でっかい花火が上がりました」と充実したシーズンをこう表現した。

故障の影響を受けた晩年と台湾への挑戦

その後も2度の2桁勝利をマークするなど活躍したが、96年に右膝の手術を受けた。以降、石井の感覚に狂いが生じていった。

「半月板の手術をしたんです。以降は体重をかけた時に力が抜けるようになってしまいました。そこから制御できなくなって、自分の思う球が投げられなくなってしまいましたね…」

97年オフにトレードで日本ハムへ移籍するも、「結果を出したくて焦っていた」と語り、思うような結果を残せず99年に退団した。

まだ現役への灯が消えていない石井は00年、戦いの場を台湾へと移した。台北太陽(タイベイ タイヤン ※)に選手兼任コーチとして入団した。

(※)太陽と高屏雷公が合併し、第一金剛→La Newベアーズを経て現在は楽天モンキーズに

ここで、16勝5敗・防御率1.74の成績をマークし、チームのリーグ優勝に貢献。最多勝、最優秀防御率に加えシーズンMVPと92年を彷彿とさせる投球だった。

「台湾の野球はとても楽しめました。チームのみんなに良くしてもらって、本当に楽しい野球をやらせてもらえました」

台湾球界での経験も野球人生にとって大きなものになっている

しかし、必ず訪れる引退の時。石井にもついにこのタイミングが来た。翌01年は9勝を挙げるも、ここで現役生活にピリオドを打った。

「本心としてはまだ続けたかったです。ただ、選手としての需要がありませんでした。なので、指導者として自分の経験を少しでも伝えることで、次の世代の選手のヒントになればと考えましたね」

「野球を好きでい続ける手助けに」

石井の野球人生、高校時代から苦労を長く重ねていた。早実時代は荒木大輔の控え投手。不完全燃焼から、「まだ勝負したい」という想いから大学に進学し、ここでもリーグ戦初登板が3年生と長い下積み生活を経験した。

ただ、4年に頭角を表し日本代表に選ばれると、社会人の名門・プリンスホテルに入社し、ソウル五輪でも主戦を張った。そして常勝西武でシーズンと日本シリーズの両方でMVP、正力賞とプロ野球界最高の栄誉も手にした。

自身の現役生活をこう振り返った。

「苦しいところから日のあたるところまで行かせてもらいました。そのおかげで今でも子どもたちに教えることができる。そういった場を持つことができて幸せな野球人生ですよ」

今はアカデミーコーチとして子どもたちを指導している

引退後は太陽の監督に就任、韓国ロッテのコーチを経て04年にはライオンズの投手コーチとして7年ぶりに復帰した。

その後は編成と現場双方を経験し、12年には当時新たに発足したライオンズアカデミーのコーチに就任。1軍投手コーチを務めた14年を除き、現在も未来を担う子どもたちの指導を行っている。

インタビューの最後、野球人・石井丈裕としてこれからどんな道を歩むのかを訊ねてみた。

「今は1人でも多く野球に興味を持ってもらい、ファンになってもらう。野球を好きでい続ける手助けをしていきたいです。野球を好きになった子が大人になって、また次の世代にも同じように手助けをしてくれたら嬉しいです」

これまで、選手・コーチ・そしてアカデミーと様々な角度からライオンズを支えてきた。石井が伝えて来た”勝者の奥義”はこれからも受け継がれていく。

(おわり)

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