福井優也(福島レッドホープス)「プロ投手として意地を貫いた野球人生」
「早稲田三羽烏」最後の1人、福井優也(福島レッドホープス)が現役引退した。
甲子園優勝、早稲田大での活躍、ドラフト1での広島入団から楽天を経て、最後は独立リーガーとなった。紆余曲折の野球人生を終えた右腕が率直な気持ちを話してくれた。
「思わず泣きそうになりました」と打ち明けてくれた。
ルートインBCリーグ(以下BC)も今季終盤に入った8月22日、ホームでの神奈川戦(しらさわグリーンパーク)だった。独立リーグ独自のサービスである試合後の「ファンお見送り」時、カープ時代のユニホームを着たファンから花束を受け取った。
「本当にありがとうしかないです。広島や楽天時代はもちろん、高校や大学時代からのファンの方が今でも足を運んでくれる。調子が良い時も悪い時も、態度が悪い時も(苦笑)、変わらず応援してくれました」
8月6日の引退会見前には、「引退試合でも泣かないですよ」と笑って語っていたのとは別人のようだった。
「マジでやばい、(引退試合では)泣いちゃうかもしれない。花束だけでこんなに感情が湧き出すなんて思ってなかった」
~グラウンド外のさまざまなことが野球での転機となった
愛媛・済美高2年時の2004年春の選抜で優勝を果たすと、同年夏も準優勝を飾るなど甲子園には3度出場。一浪で入学した早稲田大での活躍後、2010年ドラフト1位で広島入団。2019年に楽天移籍、2023年からはBC・福島でプレーした。
「引退を決意してから、いろいろ考えました。特にプロ入り後は野球以外にも多くのことがあった。家族の死(2011年に兄・龍一さん、2013年に父・俊治さん)、結婚、移籍…。全てが忘れられないし転機になったと思います」
「妻にも本当にお世話になった。2人目の子供ができたばかりなのに、NPB復帰のための福島入団を後押ししてくれた。良い結果を出した時には、僕以上に喜んでくれたのも力になった」
広島、楽天で12年間プレーした後の2022年オフに戦力外となると、12球団合同トライアウトを受けた。しかし、獲得に手を挙げる球団はなく福島入団を決断した。
「正直、NPB復帰は厳しいかな、という気持ちもあった。でも自分にハマる役割がどこかの球団にあるのでは、と思ってかけたのですが甘くはなかったです」
~「独立リーグはプロへの通過点」の意味
「プロ野球選手としてのキャリアは12年間で、福島での2年間は入れませんでした」と語る。NPBと独立の両方を知るからこそ思うこともあったからだ。
「独立はプロ野球(=NPB)へ行く、戻るための通過点です。だから独立での2年間はプロのキャリアに入れないようにしていました。そこを入れて自分自身が満足してしまうのも嫌だったからです」
先発を任された昨年は17試合登板、10勝5敗、防御率2.28、110.1回を投げ91奪三振を奪った。今季はリリーフ登板も増え、23試合登板、4勝5敗、防御率6.00、51回を投げ44奪三振に終わった。
「投げようと思えば来季も投げられる。でも NPB復帰への思いが小さくなっているのを感じた。その時点で独立でプレーを続ける意義を見出せなくなりました。中途半端にやるのは嫌だったので引退することにしました」
「プロ野球(=NPB)へ行く、戻ることが難しい」と感じたから福島での現役引退を決意した。
~「一番プロ向きなのは福井」と言う應武篤良監督の評価に応えられた
現役引退する現在だからこそ聞きたかった。早稲田大時代から比較され続けた斎藤佑樹(元日本ハム)、大石達也(西武フォーム投手総合コーチ)のことだ。
「2人には絶対に負けない、という思いはずっと持っていました」
同学年のライバルとして切磋琢磨、大学4年時には秋季リーグと明治神宮大会で優勝を果たした。同年ドラフト1位で斎藤は日本ハム、大石は西武へ入団、同一大学から3投手がドラ1指名という快挙だった。
「斎藤は勝負強さがすごい。1年時から優勝決定試合で投げて勝つなんて普通なら無理。結果を出し続けたから大舞台でも起用されたと思う。大石のポテンシャルはすごかった。球威、変化球のキレなど、絶対にプロで活躍すると思った」
大石は2019年(実働9年)、そして斎藤は2021年(同11年)をもって現役引退。独立を入れれば2024年まで現役を続けた福井は3人の中で最も長く野球を続けたことになる。
「早稲田大・應武篤良監督(当時)が『一番プロ向きなのは福井』と言ってくれた。長く現役を続けられたという意味では、監督の評価と期待に応えられたのかなと思う」
「2人に負けないということの答えが何なのかは、今でもわからない。最後まで現役で投げていたのは僕ですが、それで勝ったということではない。まあベタな言い方ですが、永遠のライバルのような関係性かな(笑)」
~尖ったままでいられた方が良かったのかも
「プロ生活の最後まで尖ったままでいられたら、もっと生き残れたかもしれないですね」と振り返る。
「プロ入り当時は尖りまくっていた、と言われます。振り返ると怖いもの知らずというか、『誰にも負けない投手になる』という思いだけだった。でも年齢と共にさまざまな経験を積んで、少しずつ丸くなり臆病にもなった」
広島後半から楽天時代にかけては一軍と二軍を行き来するのが日常だった。「あの頃のプレッシャーは今振り返ってもキツイ」と語る。
「突然、二軍から一軍へ上げられて結果を求められる重圧。ダメなら1日で落とされる虚しさ。一軍登録時には選手とスタッフ全員に挨拶に回り、下へ落とされる時も挨拶して撤収する。雨天中止になって投げる機会がないまま同様のことをした時もあった」
「夜、マネージャーから電話が鳴るとドキドキする。一軍で打たれて再抹消されるのも嫌だし、上がれないのはもっと嫌です。いろいろな感情が渦巻いていて、毎日が合格発表みたいな気持ち」
若手時代は、自分が結果を出すことのみ考えれば良かったが、経験も増え多くのことを気にするようになった。「尖ったままでいたかった部分もあるかな…」と呟く。
「いろいろあって自分では長く感じる野球人生。その中でノーヒッターだけは忘れられない思い出です」
紆余曲折のプロ野球人生で最も印象に残っているのは、2023年8月25日、新潟アルビレックスBC戦でのノーヒッター達成(しらさわ、スコア「1-0」)。
「野球人生の中で初めての経験。カテゴリーがどこであれ完全試合やノーヒッターは難しい。福島時代は悩むことばかりだったけど、最高の思い出ができた。野球の神様が僕を満足させるため、ノーヒッターをさせてくれたのかもしれない」
8月31日の栃木ゴールデンブレーブス戦(しらさわ)が引退試合となった。先発で3回を投げ2安打1失点にまとめ、「試合を壊さなくて良かった」とコメントした。
「今はまだ現役を辞める実感がない。でも試合に向けた準備を行うのが日に日にシンドクなっていた。その時点でプロ選手としては終わりだと思う」
年齢を重ねるにつれ身体の各所に不具合が生じるのは不可避。準備やケアを入念に行うことでパフォーマンスを維持することが必要となる。
「準備をするのさえ惰性になっていた。最近はサッカーの三浦カズさん(知良・JFL鈴鹿)の凄さが身に沁みてわかる。『サッカーが好き』というだけで60歳手前(現57歳)までプレーされている。何を見据えているのか、お会いする機会があれば聞いてみたいですね」
甲子園優勝、早稲田大での日本一、ドラフト1位指名、NPB通算154試合登板32勝といった多くの経験と実績を重ねた。「今後は何も決まっていない」と語るが、必要とする人は少なくないだろう。
「これからの人生が長い。家族も守らないといけない。野球以外のことも勉強して視野をもっと広げて進んでいきたいです」
引退試合で福井の目に涙はなかった。笑顔で手を振り続けるその先には、明るい第二の人生が見えているはずだ。
(取材/文/写真・山岡則夫、取材協力/写真・福島レッドホープス)