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「このチームと出会えたから30歳まで本気の野球ができた」ハナマウイ元主将・梅澤孝弥

ハナマウイ・ベースボールクラブ創設メンバーで主将も務めた梅澤孝弥。今季限りでチームを退団、一線から退くことを決めた男は波乱万丈の野球人生を歩んできた。

波瀾万丈の野球人生だったが、すべてが良い経験で素晴らしい思い出となった。

~卒業単位のためにクビ同様で退部となり大学も辞めることに

「退学した時に『やっぱり野球がしたい』と強く感じて、今に至っています」

梅澤は福島・東日本国際大3年終了時に野球部を実質「クビ」となり学校も退学した。4年進学を前に卒業に必要とされる単位取得の見込みが厳しかったため、当時の監督とコーチから退部勧告された。

「1つ上の先輩が同じような状況で4年時もプレーして留年した。学業面をもう少し厳しくしよう、という大学側の意向があったそうです。『4年で野球をやっている場合ではないだろう』と言われました」

直近の南東北大学野球連盟秋季リーグ戦では、二塁手でベストナインとなる活躍もしていた矢先だった。

「一番は僕自身が甘かった。4年でもプレーしながら勉強と両立する選択肢もあったけど、当時はそういう考えにならなかった。特待生だったこともあり、野球部だけでなく学校も辞めることにしました」

退部、退学後には今まで以上に野球への思いが強まった。アルバイトをしながらクラブチーム・郡山イーストジャパンクラブ(福島)でのプレーを選択した。

「入団年に都市対抗野球(以下都市対抗)の二次予選に進出しましたが日本製紙石巻(宮城)に惨敗。次を見つけるために独立・BCリーグのトライアウトを11月と2月に受けた。2月時に足を運ばれていたハナマウイ・本西厚博監督(当時)の目に留まった感じです」

BCリーグのチームからは声がかからなかったが、本西監督との出会いがあってハナマウイ入団を決意した。

東日本国際大3年秋には二塁手でベストナインに選出された名手だ。

~本西監督との野球と都市対抗出場

「初めての練習で本西監督と話をしました。すごい人とは知っていましたが、野球に関係ない話もしてくれて優しそうな印象を持った。野球好きの父は年代的にもよく知っていて、『本西のチームか』と喜んでいました」

ハナマウイは2017年に女子部が創設され、2019年の男子部立ち上げへ向けて本西監督自らスカウティングに動いていた。梅澤ら一期生が入団した当初は部員も10人強しかおらず、目標設定も難しかったほどだ。

「都市対抗に出るなんて頭になかった。『公式戦へ参加する2020年はどうなるのかな?』と漠然と感じていた。『本西監督の元で野球を勉強して企業チームへ移籍するのだろう』と思っていたほどです」

ところが、創部2年目の2020年に都市対抗二次予選の南関東大会を勝ち抜き、第91回都市対抗野球(東京ドーム)出場を果たした。不思議な自信と連帯感に溢れたチームが起こした快進撃だった。

「元気で怖いもの知らずのまま勢いに乗れた。相手の強烈な打球が野手の正面を突くなど運もあった。その中でハナマウイが理想とするゲーム運びに持っていくことができた。自分たちも信じられないほど、全部が噛み合った結果でした」

「奇跡的だった」と本西監督も語る戦いぶりで本大会出場を決めた。四国銀行(高知)に「0-1」で破れはしたものの、アマチュア球界で注目される存在となった。

創部2年で都市対抗野球(東京ドーム)出場を果たしたハナマウイの中心選手だった。

~主将とマネージャーでは野球生活が一変

都市対抗後のチームには転期が訪れた。当時の主将が一身上の都合で退部することとなり同職が回ってきた。

「社長と取締役に呼ばれ、主将をやってくれ、と言われました。都市対抗は怪我で出場できなかったので、『東京ドームへまた来る』と強く思っていた時期でした。自分の気持ち、モチベーションを高めてくれました」

「都市対抗を終えて、『簡単に勝てるほど甘くないが、展開次第ではやれる』と思えた。チーム全体が強気、前向きになれていた時期でした」

梅澤が主将就任して以降のチームは右肩上がりで勢いに乗れた。オープン戦では企業チーム相手に互角以上の戦いを見せることもあった。

「主将1年目が終わりチームに手応えを感じていました。勝ちパターンも見え始め、オフ期間も同様な気持ちで活動していました。ところが、新シーズン直前になってマネージャー転身を命じられました」

「前年のマネージャーが2人とも退部したため苦肉の策。本西監督からは『今まで通りチームをまとめてくれ』と言われましたが主将に気を遣ってしまう。細かい事務業務にも忙殺され、自分の野球にも多大な影響がありました」

マネージャーは3年間務めたが、その間に都市対抗を共に経験したメンバーも次第にいなくなった。世代交代が進みチームカラーも大きく変わった。

「初期メンバーが減り雰囲気は変わりました。普段の明るさはあっても、試合中に逆境になった際に口数が少なくなり動揺したりする。また、実力あっても野球への向き合い方が浅く感じる選手もいました」

チーム内の変化は結果にも現れるようになり、オープン戦で学生に敗れることも増えた。「全国大会へ再び出場できるのか?」と気持ちも揺らぐようになった。

主将、マネージャーと役職を変えながらもチームが好転するために全力を尽くした。

~チームと自身の未来を冷静に考えた末の退団

クラブチームには大目標が2つある。1つは都市対抗、もう1つは全日本クラブ野球選手権(以下全日本クラブ)で優勝しての社会人野球日本選手権(京セラドーム)だ。

「今年のチームには自信があって、全日本クラブ優勝は可能と思っていましたが、大和高田(奈良)に完敗。自分の中で答えが出たような感じでした」

都市対抗南関東大会での敗退後、「京セラドームを目指す一連の大会をもって本西監督が退任する」旨もチーム内では発表されていた。

「(本西監督退任を)聞いた時はショックでしたが、監督交代は野球には付きものなので普段通りで大会に挑んだ。『今年のチームで勝てないなら先はない』と覚悟持って挑んだ大会での敗退だった。そこが退団を決めた瞬間だったかもしれません」

全日本クラブ終了後、今後についても自問自答を繰り返した。チーム練習やオープン戦にも参加したが、情熱が冷めていることを実感した。

「ベンチ内に本西監督がいないことにも違和感を感じた。当たり前にいた人がいない風景は寂しかった。『僕の野球人生におけるハナマウイの章が終わったんだな』と思いました」

11月をもってハナマウイ野球部を退部、社員選手だったため会社も退職する道を選んだ。

都市対抗以来となる全国の舞台を目指したが夢は叶わなかった。

~ハナマウイは生き方にも大きな影響を与えてくれた

小学生でマリーンズ・ジュニア選出など、プロ野球選手を夢見る少年だった。千葉・東海大望洋高では他選手との体格差に圧倒されるも、「社会人野球のレジェンドを目指そう」と将来が定まった。大学中退など多くのことに直面しつつもハナマウイで自身の野球人生を全うした。

「ハナマウイでの野球は楽しかった。仕事の部分でも介護業に携わるきっかけになった。僕は人と接して喜んでもらうのが好きなのがわかった。公私両方で大きな影響を与えてくれた濃密な時間、僕にとっての青春でした」

「立ち上げすぐのチームが都市対抗に行けた。ハナマウイ出身でソフトバンク育成6位指名された川口冬弥のような選手もいる。クラブチームの環境は過酷だけど、やり方次第で可能性はゼロではない。今後のハナマウイに期待しています」

介護関係機材を扱う会社への転職が決まった。仕事がひと段落ついたら何らかの形で白球を追い続けたい思いも持っている。

「できれば硬式でプレーしたい。今までは黒子に徹してきたので、自分のやりたいように少しわがままにプレーしたい。好機では進塁打ではなく試合を決める打撃を考える。オーバーフェンスの本塁打も狙いたい(笑)」

「勝ち負け」を競う世界からは去るが、今後も何らかの形で野球とは携わっていくつもりだ。

野球を始めてからさまざまなことがあったが、中でもハナマウイの5年間は濃厚なものだった。時に思うこともあったが、「今となってはすべてがプラスになった」と語る。

「勝った?負けた?」を追いかけるために背負っていたものは下ろした。紆余曲折の野球人生、ここから先は別の意味で楽しい選手生活が待っているはず。梅澤孝弥、これからの野球人生に幸あれだ。

(取材/文/写真・山岡則夫、取材協力/写真・ハナマウイ・ベースボールクラブ)

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