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人、野球界への恩返しを胸に大学野球の指導者へ―関西外国語大硬式野球部(前編)

 関西には5つの大学野球の連盟がある。そのうちの阪神大学野球連盟は1部6校、2部を東西の2つのリーグに分けた計12校で構成されている。そんな2部の東リーグを戦うのが関西外国語大(以下、関西外大)。2019年秋に2部に降格すると、その翌年から大阪の公立高校で30年間指導してきた西浦敏彦監督が指揮を執ってきた。就任後、1部昇格は射程圏内の戦いを見せているが、今年こそ4年ぶりとなる1部復帰を果たせるか。高校野球の激戦区・大阪で長年戦ってきた手腕を発揮する西浦監督に、学生野球の魅力、指導方針、1部昇格にかける思いなどを聞いた。

人として学べるスポーツ、それが野球の魅力

 某日。関西外大のグラウンドにて行われる社会人クラブチームとのオープン戦に臨む両チームの選手たちのアップが行われていた。その様子を監督室からどこか楽しげな顔をして見守るように視線を送る一人の人物がいた。

「誰かがミスをしてもみんなで助け合って、いいプレーが出れば喜び合える。それが野球の一番好きなところですね」

 穏やかな口調でそう語るのが2020年から指揮を執る関西外大の西浦監督だ。1962年生まれで昨年、還暦を迎えた。穏やかな風貌に反してバイタリティは衰えていない。今も大学で指導を続ける傍ら、学力支援サポーターとして小学校の現場にも立つ二刀流の指導者である。そんな西浦監督は大阪の生野工高、九州産業大を経て、社会人では鷺宮製作所でプレーした経歴の持ち主で人脈も幅広い。九州産業大では同期に母校だけでなく侍ジャパン大学日本代表の監督を務める大久保哲也氏がいた。鷺宮製作所では1つ上の先輩に履正社で監督を務め、2019年夏に全国制覇に導いた岡田龍生氏(現・東洋大姫路監督)らがいて一緒にプレーしていた。現役を引退後は高校の教員となり、母校の生野工高などで30年間指導にあたった。そして、2019年度限りで教員を退職し、現在に至っている。57歳にして大学野球の指導者という新たな挑戦を始めた。これほどまでに野球に憑りつかれ、突き動かされてきた野球について西浦監督はこう語る。

「チームのためにとしっかり陰で支える人もいれば、当然、エースやクリーンアップのようにチームの中心で責任を背負いながらプレーする人もいる。役割分担があるので、人間そのものを学べるスポーツというのが一番です。いや、子どもが好きっていうのが一番かな。」

監督室から練習の様子を眺める西浦敏彦監督

高校野球の監督生活30年目の節目が転換期に

 しかし、30年間高校で指導者を務めたのなら、そのまま高校野球を全うするという道もあったはずだ。定年間近のタイミングで大学の野球部へ転身という決断も容易ではない。

 監督就任の話を持ち掛けたのは生野工高の先輩で10年以上コーチを務めている山下哲生氏と前監督の西山明彦氏だ。西山氏は1977年春に東大のエースを務め、30年ぶりの4位浮上の立役者といわれた伝説の投手だ。ただ、関東から単身赴任という身、さらに定年も迫ったタイミングだった。そこで後任として西浦監督に白羽の矢が立った。

 だが、大学の野球部は今も上下関係が厳しい、指導者が一方的に指示、指導するなどトップダウン形式の組織が残る。そんな印象もあったため、自身の指導スタイルを考えれば、そのような野球部であれば、この話は断るつもりだったという。というのも、西浦監督は高校野球の監督の頃から一貫して、選手に考えさせ、自主性を促すという指導スタイルだった。捕手出身ならではの緻密な考え、プレーの確認、準備などを懇切丁寧に説明。全てを教えず、選手に考えさせる余地を残し、自主的に考え動かすようにしていた。西浦監督の年代だと、若手の頃は昭和の熱血指導や鉄拳制裁がまだ多く残っていた時代で、自身が指導者になったときも同じような指導をする人も多い。西浦監督はそれとは真逆の“選手に考えさせる野球”を目ざしていた。

 地元ではあまりいい評判を聞かなかった生野工高でも命令型の指導ではなく、自主性を重んじて指導。その結果、監督がいないところでもキビキビと自主的に取り組み、生野工高の印象に身構えていた練習試合の相手校の監督などはその様子とギャップに驚いたというのは「よく言われましたね」とのことだ。

 そんな西浦監督のことを山下コーチ、西山前監督も承知していたのだろう。関西外大は代々、自主性を重んじるスタイルでやってきた。きっと、西浦監督の指導方針とマッチする。西浦監督本人もそのスタイルが自分に合うと思い、監督就任の話を前向きに捉えた。あとは家族の理解を得るだけだ。当時は大学進学を控えた息子に加え、次女の娘もいる。しかし、家族は誰一人反対する者はいなかった。

「やってみたらいいんちゃう?」

 息子・謙太の鶴の一声で決心がついた。余談だが、息子の謙太は2020年に筑波大学に進学し、4年生となった今年は主将を務める。西浦監督は、こうして30年という節目で高校野球の指導者にピリオドを打ち、息子と同じタイミングで大学野球の世界に転身したのだった。

東日本大震災で被災した高校への支援

 また、これまで携わった人たち、野球界への恩返しという思いもあったそう。

「鷺宮(製作所)には本当にお世話になりましたね。高校で部活を立ち上げる時もボール50ダースぐらいくれて、バットも何十本と送ってくれたんです。卒業生も何人か採ってくれたりしてますからね」

 年間の部費が少ない公立校の野球部でこれほどの支援は言葉にできないほどの有難さだった。今も鷺宮製作所を中心に社会人野球とは繋がりがあり、社会人野球を希望する他校の選手の進路の相談にも乗ることがある。指導者生活が30年を越えた今となっては恩返しをするだけでなく、教え子などから恩返しをされる側にもなる。昨年に還暦を迎えて、最初の教え子から還暦を祝ったバットとユニフォームが贈られた。

高校時代の最初の教え子から昨年贈られてきた還暦祝いのバット。

 最後に務めた泉尾工高時代には創立90周年の式典にて、前年に東日本大震災で被災した仙台市立仙台高の監督と部員2人による講演会を実施。講演会での話を聞き、この被災した高校を励ますにはどうしたらいいかと考えた。部活を立ち上げた頃の苦労を知っているだけに東北の被災した高校が再始動するにはモノが必要だ。ささやかかもしれないが、3月11日にボールを送ることにした。後にその心遣いが響いたというお礼の手紙が送られてきた。そして、仙台高の監督の教え子である佐藤隼輔(現・西武)が高校卒業後、筑波大へと進学すると、2021年秋季リーグでは息子の謙太とバッテリーを組むことになる。この野球が結んだ縁は二人の監督を大いに驚かせたと同時に喜ばしいことだった。そして、今年も3月11日にボールを送った。

「監督として、いや野球人として命ある限りは毎年、ボールは絶対に送ります。」

  もはや、恩返しに留まらない見返りを求めぬ使命感のような西浦監督の取り組み。ただ、今は新天地へと誘ってくれたチームを1部昇格という結果で恩返しを果たしたい。しかし、阪神大学野球連盟の2部東リーグは2季連続で優勝した追手門学院大(春季リーグは西リーグで優勝)、最終節で2位に滑り込んだ桃山学院大も下級生に力のある選手が多い。仮に東リーグを勝ち抜いても西リーグには昨年秋に2部に降格し、1部返り咲きを狙う神戸国際大など、2部リーグだけでも熾烈な争いが予想される。当然、入替戦には1部リーグのチームが待っており、1部昇格の道は険しい。ここまで、西浦監督の人柄、指導方針、指導者としての野球への思いなどについて語ったが、後編では選手も交えて1部昇格へチームの強みと課題について語っていく。

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