パリ五輪を目指す陸上・吉田紗弓「これがわたしの最後の挑戦」(後編)

陸上短距離の吉田紗弓選手(クレイン所属)は、昨年までとは環境を大きく変えて、競技に取り組んでいる。大好きな教員の仕事を辞めてまでも叶えたい夢「パリ五輪出場」のためだ。

現在25歳の吉田選手は、これを最後の挑戦と考えている。ここまで走り続けてきた理由は、とにかく走るのが好きだから。その集大成を2024年のパリ五輪に見据える。

これまでも「今、何をいちばんやりたいのか」と自分自身に問う場面は何度かあった。そのたびに「今しかできないことに挑戦する」という結論にたどり着く。五輪を目指す決意をしたのも「今しかできないことだから」だ。

将来、また子どもたちの前に立ったとき、身をもって体験した「挑戦することの大切さ」を伝えたい。だからパリ五輪までは陸上を精一杯やる、と決めている。

前編はこちら

反対されたことで確信した揺るぎない思い

元々は看護師になろうと思っていた吉田選手。しかし、大学進学後も陸上を続けると決意したことで、将来は看護師ではなく、体育の教員を目指すことになった。

「看護師は、年齢が上がってからでも資格を取ることができます。でも、陸上は若いうちでないと挑戦できない。そして陸上を続けながら、好きな体育で教員の資格も取ろうと決めたんです」

この決断を、父と祖父は「自分のやりたいことをやればいい」と支持してくれたという。しかし、母は大反対だった。

「陸上を続けていたら、安定した仕事に就くのが難しいのではないかと。特に長女である私には、母なりにいろいろな思いがあったようです」

それでも、自分の決意がブレることは一度もなかったという。

「母とは何度も話し合い、けんかもしました。そのおかげというのも変なのですが、思いを言葉に出すことで気持ちが整理されていったんです。自分が本当にやりたいのは、陸上を続けながら教員を目指すことだと、はっきりわかりました」

実際、立命館大学に進学後、陸上では3年と4年のときに日本選手権の1600mリレー(4×400m)で優勝。学業では中学と高校の保健体育の教諭第一種免許状を取得。陸上と学業の両方で成果を出している。

かつては大学で陸上を続けることに反対していた母も、今では良き理解者。いちばんそばにいてくれる存在なのだという。

「前はなかなか試合の応援に来てくれなくて、残念に思っていました。でも今は、試合を見に来るだけが応援なのではなく、もっといろんなところで支えて応援してくれていたんだと実感しています。面と向かうと照れくさくて言えないのですが、本当に感謝しています」

「今では母も試合を見に来てくれることがあります」と嬉しそうに話してくれた

パリ五輪が最後のチャレンジ

大学時代、日本選手権のリレーで2年連続日本一になった実績がある吉田選手。しかし、それは五輪への挑戦につながるものとは言い難かったという。

「大学時代のリレーでの日本一は、チームメートに恵まれたおかげです。個人ではパッとした成績を残せず、五輪を目指す自信はありませんでした」

東京五輪の選考会を兼ねていた2021年の日本選手権では、「私でも五輪に挑戦できるのだろうか。でもチャンスがあるならやってみたい」という、チャレンジの意味合いが大きかったそう。結果は、五輪には届かなかったものの、200mと400mで決勝まで進むことができた。

「次のパリ五輪へは『出られたらいいな』ではなく『絶対出るんだ!』の気持ちでやろうと思いました」

ただ、昨年(2022年)は腰の故障で思うような活動ができなかったそう。教員と陸上部の顧問という立場で忙しかったことも重なり、陸上が思い切りできず、悔しさだけが残った年だったという。

「五輪を目指す体力や精神力を何年も保つのは、とても難しいこと。だから自分の中でパリ五輪までは全力でやると決め、これを最後の挑戦にしようと思いました」

2023年5月の日本グランプリシリーズでは200mの自己ベストを更新した

パリ五輪への挑戦は「今」だけのためにあらず

来年に迫ったパリ五輪に向け、全力で挑戦すると決めた吉田選手。それは「今、自分がいちばん成し遂げたいこと」に違いはないが、もうひとつ、教え子たちへの思いもある。

生徒たちへの愛着は「すごくあります」と、本当に愛おしそうに答えてくれた。でも今のままでは誇れるものが何もない。自分がいちばん長く続けてきた陸上でやり切りたい、そしてその体験を子どもたちに伝えたい、と考えているのだ。

「生徒たちには『失敗を恐れず、自分がやりたいことに挑戦してほしい』と伝え続けてきました。でもそういう私自身には、やり切ったと言えることが何もないと気づいたんです。自分がやりたいことに本気で挑戦しなければ、子どもたちにも思いを伝えることはできないのではないか、と」

昨年までの仕事から離れることは、とても難しい決断だった。実際に教員になってみて、仕事も子どもたちのことも、大好きだと実感したからだ。でもそれゆえ、自分の陸上への思いが不完全燃焼のまま、子どもたちと向き合うことはできないとも感じている。

また、現在所属しているクレインは、愛知高校時代に陸上部の副顧問だった原田貴之氏との縁。原田氏が代表を務める「クレインスポーツアカデミー」は、夢を持ってスポーツに取り組む若者をサポートするべく、今年立ち上げられた団体だ。

かつての教え子で、パリ五輪という大きな夢に向かう吉田選手のサポートは、取り組みのひとつなのだそう。その理念は、子どもたちの挑戦を後押ししたい吉田選手の将来にも通ずるものがある。

パリ五輪が終わった後、具体的にどうするかはまだわからないという吉田選手。それでも「子どもたちの夢を応援し、支えになれる仕事がしたい」、ここだけははっきりしているそうだ。

今はパリ五輪に注力しているが、子どもたちへの思いも持ち続けている

足りていなかった「時間」を陸上に注ぐ現在

愛知高校の常勤職員を辞めてから、昨年までとの時間の使い方がいちばん変わったのは「朝」だという。

「朝起きて、爽やかな中で練習時間が取れるのは本当に嬉しい。教員をしていると、通勤時間や生徒の朝練などがあって、自分の時間は全く取れませんでしたので」

また、練習拠点の滋賀県へ行ける日数も増えた、大学4年の時から指導をしてもらっているコーチが滋賀県にいるため、そこまで通っているのだ。

「昨年までは多くても週に2回ほどでしたが、今は3回から4回は行けるようになりました」

一方で、母校との関わりはどうなったのか、教員としての仕事は全くしていないのか、そのあたりについても聞いてみた。

「愛知高校の教員ではなくなりましたが、同校陸上部の外部コーチとして関わらせてもらっています。自分の試合がないときはできるだけ顔を出し、生徒たちの指導をしています。また、あるご縁から声をかけていただき、三重県の鈴鹿高校で週に2回、午前中だけ教員の仕事をしています」

ただし、昨年までと大きく違うところは「陸上の指導と教員の仕事をはっきりと分けていること」だと教えてくれた。

「愛知高校では、陸上部の指導はしていても、教員としての仕事はしていません。逆に鈴鹿高校では、教員の仕事はしていても、陸上部とは関わっていないんです」

朝から放課後までずっと同じ場所にいた昨年までとは違い、時間にも立場にもメリハリをつけることで、気持ちの切り替えができるようになった。その結果、自身の陸上にかける時間も確保でき、精神的にも集中できるようになったのだという。

「日本代表として、日の丸を背負う日が来るのを楽しみしています」

高校卒業時、恩師の服部光幸氏からこんなメッセージをもらっていた。「そうなれたらいいな」と思ったが、当時は自信がなかったという。しかし今は現実味を帯びている。

「これが最後の挑戦。応援してくれる全ての人のためにも、絶対にパリ五輪への切符を手に入れる」

覚悟を決めて臨む吉田選手の姿を見届けたいと思う。

(取材/文 三葉紗代)

関連記事