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山形大医学部が準硬式野球で東北の頂点に!「葛藤」と「苦悩」を乗り越えた5年生コンビが導いた初優勝

 10月8日に行われた東北地区大学準硬式野球連盟秋季リーグ戦の優勝決定戦。山形大医学部が東北学院大を7-5で下し、春夏通じて初となるリーグ戦優勝を果たした。

 今秋は山形大医学部、東北学院大がともに4勝1敗(山形大医学部の1敗は不戦敗となった福島大戦、東北学院大の1敗は山形大医学部戦)で並び、優勝決定戦までもつれる展開に。この日は山形大医学部が同点とされた直後の7回にパスボールの間の得点で勝ち越すと、9回にも2点を加え逃げ切り。東北学院大は3点を追う6回に主将・嶋田友外野手(3年=浦和学院)のソロ本塁打などで追いつき、9回にも1点を奪う意地を見せたが及ばなかった。

 東北学院大は全国制覇の経験があり、約70年の歴史を持つリーグ戦で春秋計100回以上の優勝を誇る強豪校。医学の道を突き進みつつ、準硬式野球を極めてきた山形大医学部ナインが、強敵を破り東北の頂点に立った。

高校野球で輝いた男・金原広汰は準硬式野球のスターに

 勝利の瞬間、山形大医学部の選手たちは雄叫びを上げながらマウンドに駆け寄り、歓喜の輪を作った。輪の中心にいたのは金原広汰投手(5年=仙台一)。エース兼1番打者として投打でチームを引っ張ってきた、優勝の立役者だ。この日は初回に二塁打を放ち先制のホームを踏むと、9回にも貴重な追加点を呼び込む二塁打をマーク。投げては7回からマウンドに上がり、9回に1点を失ったものの試合を締めくくった。

 高校時代は県内屈指の進学校である公立校・仙台一で1年秋からエースを務め、最速140キロ右腕として注目を集めた。高2の冬までは東京六大学野球でプレーすることを視野に入れていたが、両親が医師ということもあり、「スーツを着てサラリーマンをしている姿より、白衣を着て患者さんと話す姿の方がイメージしやすかった」と高3からは医学部志望に切り替えた。

優勝決定戦では2番手で登板し好投した金原

 山形大医学部に現役合格し、当初は硬式野球を続ける予定だったが、新歓で魅力を感じた準硬式野球部に入部した。1年次から活躍したものの、「正直、硬式野球を続けていればよかったと思うこともあった」という。メディアで取り上げられるのは、準硬式野球よりも硬式野球の方が断然多いのが現状。仙台一の1学年下のエース・鈴木健投手が東大で活躍する記事をSNSで目にすると、「俺も神宮で投げたかったな」との感情が湧いた。小中高と同学年、同地区でしのぎを削った佐藤隼輔投手(現・埼玉西武ライオンズ)が筑波大時代に「プロ注目」と形容されている記事を見ると、羨ましさが募った。

 それでも、「準硬式野球を選んだのは自分。準硬を頑張って、支えてくれた人に良い報告をしたい」と気持ちを切り替え、己を磨き続けてきた。医学部では当初、「高校までと比べて勉強のウエイトが大きく、なかなか野球の時間をつくれずしんどかった」というが、徐々にメリハリのつけ方を覚えてきた。学外実習が増え、全体練習に参加できない日が多くなった今年も、動画を見ながらの自主トレやイメージトレーニングで補填。春の左手首骨折を乗り越えてフォームも修正し、秋は140キロ近い直球を主体とした本来の投球を取り戻した。

野手ではリードオフマンとして躍動した金原

 春優勝の仙台大戦では決勝2ランを放ち、負ければ相手の優勝が決まる東北学院大戦では9回10奪三振2失点完投。優勝決定戦でも最後までチームを牽引し続けた。「今まで優勝が見えたこともなかったので嬉しい。後輩も頑張ってくれて、良いチームになってきた。準硬をやってよかったなと今は思う」。最終学年となる来年まで、準硬式野球を突き詰めるつもりだ。

「悪意のない比較」との戦い…準硬式野球で見出した自らが成長することの喜び

 優勝決定戦で先発のマウンドに上がった齋凌矢投手は、金原と仙台一時代からのチームメイトで、同じく5年生の投手兼一塁手。仙台一では主将を務めたが、本人が「9番ファーストで脇役だった」と語るように、エース金原の陰に隠れた存在だった。

 大学入学後、金原と共に準硬式野球の道へ。大学から投手にも取り組む中、2年頃までは「つらい時期」だったと振り返る。

 「入学したばかりの頃、他の部活の先輩から『仙台一からすごい子が入ったらしいけど、齋くんのこと?』と聞かれることが多かった。多分それは金原のこと」。

 「悪意のない比較」の目に苦しまされ、金原を憎いとさえ感じることもあったという。試合では四球を連発し、ピンチで金原に継投することも。「そういう自分が情けなかった」。

気迫のこもった投球を披露した齋

 「金原を越えたいと思っていた時期は差が離れるばかりだったけど、ある時から自分の成長を純粋に楽しめるようになった」。ウエイトトレーニングに重点的に取り組み、体重は入学時から約20キロ増加。120キロ前後だった球速は130キロ台中盤まで伸びた。また当初は歯が立たなかった一部リーグの打者との対戦経験を積む中で、メンタル面も成長した。

 「同じレベルで戦えるようになって、金原の凄さを改めて感じられるようになった。金原がいなければエースになれたかもしれないけど、金原がいなかったらここまでの選手にはなれなかった」。今では、そう心から思える。優勝決定戦では5回まで3安打1失点に抑える好投を見せ、6回に3失点を喫したものの試合をつくり、金原につないだ。もう、「情けない」齋の姿はどこにもない。

医学部だからこそ受け継がれる「文武両道」の伝統

 金原の背中を追いかけ山形大医学部に進んだ後輩もいる。その一人が「4番・捕手」で主将も務める尾形季洋捕手(3年=仙台二)だ。今秋はリーグトップの打率6割をマークし、攻守で貢献した。

 高校2年次、仙台一との定期戦で1学年上の金原と対戦し、その球に衝撃を受けた。「高校時代に見た中で一番良いピッチャーで、憧れもあった。医学部で野球を続けたいと考える中で、金原さんの球を受ける自分の姿がリアルに想像できた」。一浪の末入部を果たし、思い描いた通り、憧れの好投手をリードする立場になった。

先輩の2投手を好リードした尾形

 この日、金原との強い信頼関係が垣間見えたのは9回。2点差とされ、なおも二死二、三塁、一打出れば同点のピンチで好打者・嶋田を迎えた場面だった。「ここまで来たら逃げたら負け。金原さんのまっすぐで押せば大丈夫」。尾形の頭に、勝負を避ける選択肢はなかった。金原の最大の武器であるストレートを要求し、左飛に打ち取りゲームセット。ラストの場面について聞くと、帰ってきたのは「最高です」。これ以上の言葉は必要なかった。

 他にも前週の東北学院大戦でサヨナラ打を放ち、この日は遊撃で好守備を連発した篠村友哉内野手(3年=山形東)、優勝決定戦で三塁打2本を含む3安打と快音を響かせた杉田悠介外野手(1年=山形南)ら、下級生の活躍も初優勝をたぐり寄せた。杉田は「先輩たちを勝たせたいという気持ちだった。この素晴しい瞬間に立ち会えて嬉しい」と白い歯を見せた。

7回に三塁打を放ち、パスボールの間に生還した杉田

 医学部のため選手は最長6年生まで在籍することができ、現在は金原、齋ら5年生が最上級生としてチームの中心を担っている。また金原らだけでなく、実習や国家試験対策で多忙な歴代の5、6年生がプレーで引っ張り続けてきた歴史もある。大学で5年以上野球ができるのは医学部の特権で、だからこそ「文武両道」の伝統は脈々と受け継がれてきた。この秋実った果実は、これからもより円熟味を増していくこととなるだろう。

(取材・文・写真 川浪康太郎)

読売新聞記者を経て2022年春からフリーに転身。東北のアマチュア野球を中心に取材している。福岡出身仙台在住。

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