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「私は絶対に戻るので」語り合った復帰後のビジョンとは?ミズノ・藤田真之介さんと池江璃花子選手 復活を支えた絆のストーリー(後編)

現在、ミズノ株式会社(以下、ミズノ)のコンベンションスポーツ事業部でマーケティング部の課長を務めている藤田真之介さん。

藤田さんを語るにおいて欠かせないのが、水泳日本代表の池江璃花子選手との絆である。スター街道を走っていた池江選手を突如襲った大病。闘病中、両者は常に前を向き復帰後のビジョンを描きそれを実現させた。

後編では闘病が始まってから現在についてお送りする。

(取材協力:ミズノ株式会社、取材 / 文:白石怜平)

「私は絶対に戻るので、そのまま使ってください」吹き飛んだ迷い

19年2月の白血病公表後すぐに入院し、始まった闘病生活。池江選手本人の体調と家族・会社と話し合い、藤田さんらも直接お見舞いに行き顔を合わせる機会があった。

「全部で3回行きました。ご家族の方もいらっしゃって、もちろん僕らから会わせてくださいなんて言う事はできないですけれども、ご本人の体調と弊社と話して一度お会いしましょうと言うことでお呼びいただきました」

最初行った時は入院した直後で、普段と変わらず『本当に病気なのかな』という感じだったんですよね。私からも『大変やけどしっかり治して頑張ろう』と話して終わりました」

2回目は4月の日本選手権の開催中、水野明人社長らと一緒にお見舞いに訪れた。

ミズノの広告にも引き続き起用されており、本来ならば日本選手権が行われているあの場所でスポーツ界に明るい話題を提供していた。

池江選手が病室のベッドでTV観戦をしているという信じがたいシチュエーションに藤田さんも違和感を抱くばかりだった。

そして最後に行ったのは本格的な治療を行っている頃だった。安易に言葉では表せない壮絶な闘病生活の中、お互いに前向きな気持ちを失わずに復帰後のビジョンを描き始めていた。

「3回目は小堀の前任の地田(麻未:13年・14年に日本選手権800m自由形 を連覇した元競泳選手)と2人で行きました。その時はもう闘病が本格化している頃でしたが、復帰後を見据えた話をたくさんさせていただきました」

お見舞いには3回尋ね、復帰後の具体的な話を進めていた

その中の一つに挙がったのが広告の起用だった。上述の通り19年4月の日本選手権でも広告に起用するなど、プールから離れてもミズノの”顔”として大きな存在感を放っていた。

しかし、池江選手のことを人一倍慮っていた藤田さん。”広告にするのはプレッシャーになるのではないか”そんなことも頭によぎっていた。また、世間からも心配の声などさまざまな意見が会社に寄せられていた。

「自分がプールにいない中で水着を着た自分が広告として出ているので、彼女にとってどんな心境なのか。それは本人にしか分からないので、3回目に伺ったタイミングで『(広告は)このままでいい?』と直接確認しました」

病室で問われた池江選手は力強い言葉で即答した。

「私は絶対に戻るので、そのまま使ってください」

藤田さんもこれまで抱いていた迷いが一気に吹き飛んだ。

「よし、わかったと。世間からいろんな声がありましたけれども、本人から言葉をもらったことによって迷わず進めました」

ここで話したのは広告に関することだけではなかった。会話を重ねるほど池江選手の熱い想いが伝わってきていた。

「ミズノでは池江選手の監修した『Ri Collection』というブランドを展開しています。池江選手の個性がたくさん詰まったものを商品化しようというコンセプトなのでそれもどうするかと。

『やりたい。やっていきたいです』と言ってくれた。ただそのためには打ち合わせをする必要もあります。もちろん、こちらから安易に連絡などできないですし、対面で打ち合わせするのも難しいですよね。

なのでそこは忌憚なく『ダメな時はダメと言ってくれ。連絡したい時は、遠慮無く連絡するから』ということでやり続けました」

池江選手の想いが詰まった「Ri Collection」(提供:ミズノ株式会社)

堅い信頼関係のある両者、配慮や気遣いがあることは十分伝わっていた。その後はお互いに遠慮なく連絡し合い、打ち合わせも重ねた。

その間に商品に向けたコンセプトを詰めていき、直筆のメッセージを贈ったりなど、池江選手も協力を惜しまなかった。

「みんな池江選手のことが大好き」全員が涙した復活劇

不屈の精神で病を克服し19年12月17日に退院、以降トレーニングを重ねて20年3月にはプールに入れるまで回復した。

そして同年8月29日、東京都特別水泳大会(東京辰巳国際水泳場)の女子50メートル自由形に出場。日本学生選手権の参加標準記録(26秒86)を上回る26秒32を記録し、レース後に涙も見せた。

「一言で表すのも何なのですが、感動です。契約してるからとか関係なく、みんな池江選手のことが大好きです。退院した後もすぐビデオメッセージを贈ってくれました。おそらく出歩くのも難しい中だったとは思うのですが、弊社の展示会も『顔を出したいです』と言ってわざわざ来てくれて。

それで社員の前で話してくれたのですが、私もですが全員感動して泣いてしまいましたよ。本人も涙ぐんでいました。そんな出来事もあって、復活をしてくれた時の感慨深いものがありましたね」

復帰、そして五輪で泳いだ姿もその場で見守っていた

復帰後は順調にタイムを伸ばし、東京五輪の代表選考レースでもあった昨年4月の第97回日本選手権では4冠(女子100m自由形・バタフライ、女子50m自由型・バタフライ)を達成。

400mフリーリレーの派遣標準記録(54秒42)を突破し、「女子400mメドレーリレー」・「女子400mフリーリレー」そして「混合400mフリーリレー」の3種目で東京五輪代表の座を掴んだ。

「『私、絶対に戻ります』という言葉をいただいて、我々が『大丈夫かな…』なんて思ったら申し訳ないなと。本人はネガティブなこと考えていなかったと思います。ただただ”すごい”の一言ですよね」

笑顔と涙の五輪本番、藤田さんが触れた池江選手の人柄

そして迎えた東京五輪。藤田さんらミズノ社員も現地でその勇姿を見守っていた。その時に触れた池江選手の人柄について明かしてくれた。

「オリンピック期間中、僕らも会場に入らせていただきました。もちろん我々から選手へむやみに声をかけることはしないようにしているのですが、池江選手は自ら声をかけてくれるんです。

最終日だったかな?『藤田さーん!』とか笑顔で言ってくれてたので、その時にはほっこりしましたね。ただ、インタビュー見たら泣いておられましたので気持ちが伝わってきました」

3種目に出場し、メダルには手は届かなかった。それでも決勝まで進み、最後まで世界の舞台で善戦し泳ぎきった。競技最終日には、

「1度はあきらめかけた東京五輪だったのですが、リレーメンバーとして決勝の舞台で泳げて、すごく幸せだなと思います」

とコメント。喜びの涙を流した姿は日本中に感動と希望の光を確かに照らした。

「笑顔になってくれることが何より嬉しい」

今年に入ってからは、一度壁にぶつかってもすぐにそれを打ち破る池江選手の真骨頂を見せつけた。

3月に東京で行われた国際大会日本代表選手選考会では、100mバタフライで優勝するも派遣標準記録まで0.12秒及ばなかった。6月中旬から7月上旬にかけてハンガリー・ブタペストで行われた世界選手権には惜しくも出場はできなかった。

しかし、その約2ヶ月後に行われた第98回日本選手権ではすぐに修正した。女子50m自由形・50mバタフライ・100m自由形での大会3冠を達成。

いずれも白血病から復帰後の自己ベストを更新し、自由形とバタフライの2種目で来年に延期となった広州(中国)で行われるアジア大会の代表に選出された。18年以来4年ぶりに個人種目での代表入りとなった。

中学1年生の時からその逸材に注目し、15歳から縁が始まった。高校卒業間近で病魔に侵されながらも不屈の精神で克服し、アスリートとしているべき場所に帰ってきた。

「中学生からここまで関わらせてもらっていますが、大病になっても本当に強い気持ちで復活されたと思います。

練習も伺いましたが、(退院後)初めてプールに入った時、三軒茶屋にある日本大学のプールに入ったところを見て、彼女が泳ぎ切ったとき笑顔を見せてくれた時のことは今でも鮮明に覚えています」

今も池江選手が気になって仕方ないと語った

この間、数々のメディアで話をしてきた藤田さんも思い出す度に感慨深い気持ちになるという。今でも池江選手の表情一つ一つの感情を気にかけている。

「その後も過酷なトレーニングを積んできて、池江選手が肩で息をしていると本当に心配になります。

それでも笑顔になってくれたら安心しますし、大会後に喜んだり悲しんだり、涙を見せてのスピーチやインタビューに応じている姿も見せてくれますが、最後はやはり笑顔になってくれることが何より嬉しいです」

前述の通り、長らく担当してきた藤田さんは昨年の10月、池江選手と共に五輪で日の丸を背負った同志である小堀さんへとバトンを渡した。

池江選手とミズノの絆はこれからもさらに固い絆で結ばれていく。

(おわり)

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