「とにかく勝負をしてみたかった」元西武・石井丈裕 学生時代の下積みから五輪でエースとなるまでの軌跡
現在、ライオンズアカデミーのコーチを務める石井丈裕氏。
92年には沢村賞に加えシーズンと日本シリーズの両方でMVPを獲得し、正力松太郎賞も受賞するなど、西武ライオンズ黄金期に主力として活躍した名投手である。
石井氏の野球人生、一度は球界の頂点に立ったが、ここまで来るには日の目を見ずに苦労し続けた日々もあった。
本編から2編に亘り石井氏の野球人生にフォーカスしていく。ここでは、アマチュア時代の苦労から日の丸を背負うまでのお話をお送りする。
(取材協力:西武ライオンズ、写真 / 文:白石怜平、以降敬称略)
早実時代、荒木大輔とともにプレーも怪我との闘いに
石井は1980年4月に早稲田実業高校に入学。同級生には荒木大輔(元ヤクルト・横浜)がいた。
ここから、石井の野球人生は長きに亘り下積み生活を送る。荒木は1年生から頭角を表し、エースとして春夏で計5回甲子園へと導いた。
荒木は甲子園での大活躍はさる事ながら、その爽やかなルックスも相まって女性ファンから絶大なる人気を集めた。”大ちゃんフィーバー”として社会現象にもなり、連日多くのファンが一目見ようと試合や練習へ詰めかけた。
一方で石井は、怪我もあり満足に走ることすらできない日々が続いた。
「当時体重が62、3kgほどしかなく、怪我ばかりしていたんですよ。野球の練習は普通にやっていても、今でいうシンスプリント(※)になって、走ることすらままならない時もありました」
(※)脛骨(けいこつ)の周りにある骨膜が炎症を起こすスポーツ障害。脛骨過労性骨膜炎とも呼ばれる。
怪我を乗り越え、投げられる試合で懸命にアピールを重ねた。全国区のスターという大きな壁を隣で感じながらも、着実に実力を磨いていき3年夏にはついに憧れの甲子園のマウンドに立つことができた。
1回戦の宇治戦(京都)で荒木の後を継いで初登板を果たし、準々決勝では、水野雄仁(元巨人)・畠山準(元横浜ほか)ら擁する池田高校(徳島)と対戦。ここでも石井は荒木をリリーフしマウンドへと上がった。
しかし、水野に満塁本塁打を浴びるなど強力”やまびこ打線”を抑えることができず、悔しい結果となり高校野球生活を終えた。だからこそ、石井はここで終わることなどできなかった。
「自分の体ができていないことがわかっていたので、とにかく勝負をしてみたかったんです」
怪我が治ればもっと実力を発揮できる、もっと高いレベルでもやれる可能性がある。家族も石井の想いを後押ししてくれた。
「高校で終わっていたら、怪我ばかりだったと今でも未練が残っていたと思います。今でも親はすごいなと思うのですが、自分が納得行くまでやらせてくれました。縁あって私はプロへの道が開けましたが、目一杯やれたら違う職業に行ったとしてもすぐ切り替えられたと思います。本当に親には感謝しています」
そして、石井の次のフィールドは六大学の舞台へと移っていく。
大学時代、3年生で初の神宮のマウンドに
卒業後は法政大学へと進学。ただ、神宮球場での華やかな舞台とは遠く、ここでも日が当たるわずかな可能性のために汗を流し続けていた。
「なので、最初1年間毎日バッティングピッチャーとして投げさせてもらっていました。1時間ぐらい投げ続けて終わったらもう2時間ぐらいバッティングキャッチャーでマスクを被る日々でした」
ただ、高校時代を含めこれまでの苦労は確実に開花のための礎となっていた。ここでも3年生で初めて神宮のマウンドに立つことができた。
「2年生になったら監督が少し目をつけてくれていたんです。練習試合で徐々に投げさせていただく機会が増えました。明大の優勝が決まっていたので、3年秋の最終戦で登板できました。そこで結果を出せたので、4年生でも投げさせてもらえましたね」
4年時に頭角を現し、86年の春季リーグ戦では3勝を挙げてベストナインに選ばれた。同年の日米大学野球選手権大会・第29回アマチュア野球世界選手権では日の丸を背負うなど、大きな飛躍を遂げた。
高校時代も3年生で初の甲子園でのマウンド、大学でも同じく3年生で初めて神宮のマウンドに立った。5年近くに亘り、腐らず地道に積み重ねてきた苦労がここから報われ、以降下地となって活躍を支えていく。
社会人でも活躍し、ソウル五輪代表に選出
大学卒業後、社会人野球へ進む決断をした。ドラフト候補に上がり、プロへの可能性もあった中での選択だったという。
「大学野球が終わった時にプロの話もあったそうなのですが、肩を壊していたんですね。この状態でプロに入って悪化させたらすぐ野球人生は終わってしまうと思ったんです。
あとは、大学4年の時にジャパンに選ばれて世界大会に行って、その時に海外のチームと勝負する楽しさを覚えたんです。それなら社会人で挑戦したいなと。プリンスホテルの方たちから熱心に誘っていただいたのもあって決めましたね」
ここでも石井は、期待に違わぬ活躍を見せた。87年の日本選手権では、2勝を挙げ準決勝進出に導き優秀選手に選ばれる。88年の都市対抗でも先発を務めるなど、主力投手として活躍した。
そして、かねてから目標に置いていたソウル五輪代表の座を勝ち取った。その代表メンバーは錚々たる選手たちであった。
投手では野茂英雄や後に西武でチームメイトとなる鈴木哲・渡辺智男・潮崎哲也、捕手では古田敦也、野手も野村謙二郎・笘篠賢治、そして同じプリンスホテルからも中島輝士・小川博文と後にプロで活躍する選手たちが名を連ねていた。
日の丸の誇りを胸に、準決勝そして決勝で先発
五輪で石井は背番号「18」を背負い、野茂・潮崎と共にローテーションの柱としてフル回転した。
代表コーチを務めた山中正竹(元法大監督ほか)は、当初渡辺とともに主戦を任せる構想を抱いていた。しかし、渡辺が五輪前に行われた世界大会で故障してしまう。ここで石井の役割はさらに重要なものとなっていった。
石井はここでも期待に応える投球を見せる。予選リーグ初戦のプエルトリコ戦で先発すると、1失点に抑え完投勝利。続く対台湾戦では同点で迎えた9回表から5イニングを4安打無失点に抑え、サヨナラ勝利を引き寄せた。
さらに準決勝の韓国戦、決勝のアメリカ戦と負けられない大一番、続けて先発の大役を担った。韓国戦では開催国でもあり”完全アウェー”。その中でも闘志を全面に出した投球で7回途中5安打1失点と堂々たるピッチングで勝利へと導いた。
そして金メダル連覇をかけて迎えた決勝、後にメジャー通算87勝を挙げる”伝説の隻腕投手”ジム・アボット(元ヤンキースほか)と投げ合った。
しかし、2回に1点を先制した4回、四番で後にメジャー通算339本塁打をマークしたティノ・マルティネス(元ヤンキースほか)に逆転2ラン本塁打を浴びてしまう。打線もアボットを打ち崩すことはできず、3−5で惜しくも敗れ銀メダルとなった。
石井は大会でチーム最多の23.2イニングを投げ、防御率1.14の成績
をマーク。2大会連続メダル獲得の原動力となった。
「最後は悔しい思いもしましたが、やり切りました。最初の状況もありましたから、メダルを獲れたのは本当に嬉しかったです。試合前に君が代が流れた時、それは鳥肌がたちましたし、日本を代表するという誇りがありました。プレッシャーよりもやりがいを持ってマウンドに上がっていましたね」
そして、ついにプロへの扉が開かれていった。
(つづく)