東日本大震災から10年 楽天イーグルス ”がんばろう東北”日本一への軌跡(前編)「絶対に被災地のみなさんに勇気を届けるんだ」
2011年3月11日、東北地方を中心に甚大な被害をもたらした東日本大震災。今年、この震災から10年を迎える。
今回東北に本拠地を置くチームに協力いただき連載企画としてお送りする。第1回は宮城県仙台市に本拠地を構える東北楽天ゴールデンイーグルス。
2013年に球団初の日本一に輝き、東北のみならず日本全体に勇気を与えた。この優勝は最も感動を与えた出来事として今も語り継がれている。
震災が発生してから日本一を勝ちとるまでの軌跡を、当時の主力メンバーの一人である聖澤諒・楽天イーグルスアカデミーコーチ、当時チームスタッフとして選手たちと連携を図っていた楽天野球団 地域連携部・松野秀三氏に話を伺った。
(取材協力 / 写真提供:楽天野球団 ※以降敬称略)
震災時、球場が47箇所の損壊
3月11日の14時46分頃、宮城県牡鹿半島沖を震源とする大地震が発生。
本拠地であるKスタ宮城(現:楽天生命パーク宮城)は照明灯をはじめ47箇所が損壊し、大きな被害を受けた。クラブハウス内でもキャビネットが倒れ、亀裂や損傷が入るなど尋常ではなかった。
1軍は兵庫県明石市でオープン戦、2軍は埼玉県戸田市で教育リーグで遠征に行っており、一部の選手が仙台に残っていた。
当時、チーム運営企画・管理担当だった松野は発生時をこう振り返る。
「最初は『何が起こったのか』というぐらいの揺れを感じ、現実を把握するのに時間がかかりました。まずは身の安全の確保をして、避難しました。そこから被害がだんだん見えてきて、ようやくニュースを見れる環境になったときにちょうど津波の映像が入ってきた感じです」
その後、球場にいたスタッフはイベントで使用するテントを使い仮の避難スペースを設置。チーム関係者やその家族、近隣住民に向けた避難所や充電場所として解放した。
通信環境が復旧した段階で、遠征中の選手たちとオンライン上で互いの安全を確認。松野はその後関西へ向かい、練習試合や場所の確保といった調整へと移った。
「私は、練習試合やシーズン開幕を関西で迎える準備を行うため、現地に行きました。仙台組は避難所の支援や本拠地開幕の4月29日に向けてみなさまをお迎えできる体制を整えられるよう連携を図りました」
1軍は混乱の中、関西に滞在
一方、遠征中の1軍メンバーは地震発生当時、ロッテとのオープン戦真っ最中だった。8回途中に突然審判団が集まり、中止がコールされた。
まだ地震や津波の情報など選手たちには一切入っていない状況だったため、両軍ともに「なぜ?」という戸惑いから始まった。
球団スタッフからは家族の安否を確認するよう指示があり、チームバスで宿舎に向かった。
当時試合に出場していた聖澤を始め、選手たちは車中のテレビに映し出された光景を見た時に初めて状況が分かったという。
「関西では何も起きていなかったので、最初は安否確認といっても実感がわきませんでした。ですが、バスのテレビで仙台空港での津波の様子が流れたのを見た時に『大変なことが起こった』と初めて分かりました」
その後、球団からは待機するよう指示があったが、東北地方はライフライン復旧もままならない状況。通話やメールは繋がらない状況が続いた。
また、当時就任1年目のシーズンを迎えようとしていた星野仙一監督は、『仙台に帰ることは許さん』と指示を一貫した。
聖澤ら選手はスタッフを通じて聞いたという。
「みなさん表面上では見せなかったですけれども、『心配だから仙台に帰りたい』と言う選手もいれば、(余震などで)危ないし、交通手段が整っていないというところからさまざまな意見がありました」
さまざまな動揺が錯綜し意見がある中、指揮官の毅然とした対応がチームをまとめたのだった。
震災から約1ヶ月、ナインは仙台に
3月17日、パ・リーグは開幕を4月12日に延期することが決まった。(セ・リーグも2度の延期を経て同日開幕)
チームは関西で練習試合を行うなど調整を続けた。ユニホームを脱げばスタッフとともに街に出て募金活動も行った。
そして仙台に戻れたのは震災から1ヶ月近く経った4月7日。聖澤は被災した仙台の惨状を見て言葉を失った。
「車を走らせても道路が陥没していたり、電信柱が曲がってたりしていました。道の様子を見て『すぐそばまで津波が来ていた』ことも実感しましたね。実際、少し中心地から離れた場所まで津波が来ていましたし」
翌8日から、チームは被災地訪問を開始。聖澤は岩隈久志・鉄平らとともに車で約3時間かけ女川町を訪れた。
沿岸部に位置する同町は津波の影響を大きく受けた地域の1つである。その被害は仙台市内よりも深刻だった。
「山に車がつき刺さったような状況でしたり、あとは震災の”におい”です。海が道路まで来たその異臭と言いますか、映像などでは知ることができないようなにおいを感じました」
選手らは一人一人と会話し、子どもたちと外でキャッチボールをするなど避難所の方々との交流を深めた。
「イーグルスの選手が来てくれたことをすごく喜んでいただきました。応援してくれることをより強く感じましたし、結果を出してたくさんの人に勇気を与えていきたいなと奮い立ちましたね」
4月2日、東日本大震災 復興支援試合として行われた札幌ドームでの日本ハム戦。試合前、嶋基宏選手会長(現:東京ヤクルト)が全国の野球ファンに向けてあのフレーズを述べた。
「見せましょう。野球の底力を」
嶋のスピーチは、ファンのみならず国民の感動を呼んだ。10年経つ今もその記憶に刻まれている。
2011年、忘れられない ”3つの開幕”
迎えた4月12日、QVCマリンフィールド(現:ZOZOマリンスタジアム)でロッテとの開幕戦。
”被災地のために戦う”
今もつけられている「がんばろう東北」。このワッペンをユニホームの袖につけ特別なシーズンへと臨んだ。ワッペンをつけようと動いていた一人が松野だった。
試合はエース岩隈が力投し、嶋の3ランで援護するなど6−4で勝利を飾った。聖澤は2番・中堅でスタメン出場し、6回に同点の犠飛を決めるなど勝利に貢献した。
ホーム開幕はKスタ宮城(現:楽天生命パーク宮城)の修復中のため甲子園で迎えた。4月15日のオリックス戦。松井稼頭央(現:西武二軍監督)の先頭打者本塁打、田中将大の2失点完投でこちらも3-2で勝利した。
そして4月29日。いよいよ本拠地仙台での試合を迎えた。ファンの前で再び嶋選手会長が挨拶。
「東北の皆さん、絶対に乗り越えましょうこの時を。絶対に勝ち抜きましょうこの時を」
涙と熱い想いが交錯すると同時に、イーグルスと東北の結束がさらに強まった。この試合も田中が1失点完投し3-1。節目の3試合を全て勝利で決めた。
聖澤もこの試合2打点を挙げ、この日も勝利に貢献した。
松野はこの3勝が今でも忘れられないという。当時の熱い気持ちが蘇ってきたように語った。
「様々な想いで開幕を迎えたのですが、象徴的な3つの開幕でした。『絶対に被災地のみなさんに勇気を届けるんだ』この気持ちもあり、3試合全てを勝利で飾れることができた。当時の想いが今でも残っています」
しかし勝負事である以上、相手も全力である。2011年は終盤までクライマックスシリーズ争いを繰り広げるが力尽き5位、翌12年も勝率5割ながらも4位に終わった。
ただ、聖澤は11年は全試合に出場し、チームトップの打率.288。盗塁は前年の倍以上となる52盗塁を記録。12年は54盗塁で盗塁王のタイトルを獲得した。
キャリア最高の成績を残し、東北の方々を勇気づける活躍を見せた。
「日頃過ごすにおいても常に『やってやるぞ』と熱い想いを持ち続けていました。ただ、実際ゲームになると気持ちが入りすぎてしまうところはありましたので、気持ちを落ちつかせて心身ともに仕上がってきた点が良かったのかなと振り返って思います」
そして、13年歓喜の日本一へと繋がっていく。
(取材 / 文:白石怜平)