「わたし、パリで走りたいんです!」陸上・吉田紗弓の葛藤と決意(前編)

来年2024年はパリ五輪の年。陸上短距離の吉田紗弓選手(クレイン所属)は、パリで走ることを目標にしているアスリートのひとりだ。東京五輪への出場は叶わなかったが、次のパリ五輪には「絶対出る!」との強い思いがある。

大きな夢を叶えるために、今年度からは教員の仕事を辞めて競技に注力。それは「今しかできないものに挑戦することの大切さを、いつか子どもたちにも伝えるため」でもある。

五輪本番まであと1年。新しい環境で陸上に取り組む吉田選手に話を聞いた。

安定した仕事を手放しての挑戦

吉田選手は立命館大学を卒業後、2020年に母校・愛知高校で非常勤職員として教員の職に就いた。

この年の日本選手権では、初めて個人種目の100mと200mに出場し、200mは決勝で5位。翌年、東京五輪の選考会も兼ねた2021年は、100m、200m、400mの3種目に出場。200mと400mで決勝に進出している。

「どちらも決勝では8位で、五輪には届きませんでしたが、3種目に挑戦し、走りきったことが自信になりました。通常、同じ大会で3種目に出ることはほとんどなく、周りからも『どんだけ出るんですか?』と冷やかされてしまって。でもこの挑戦を経て、次のパリ五輪には絶対出たいという気持ちが高まりました」

そんな中、社会人3年目となる昨年(2022年)は同校の常勤職員となり、陸上部の顧問にも就任。教員としての責任がいっそう増した。

「周りの先生にもたくさん助けていただき、本当に感謝しています。実質、昨年が教員としての1年目だったといえるかもしれません。顧問も含め、教員としての仕事が大変になった分、自分に割く時間は少なくなりました」

教員として、子どもたちと関わる時間は大事にしたいと思っていた。しかしそれは、パリ五輪出場という大きな目標を掲げた自分自身の首を絞めることになってしまった。教員と顧問の仕事を終えた後に、五輪を目指すアスリートとしての練習時間を確保するのは、体力的にも精神的にも厳しいことを痛感したという。

「周りから『もっと人に頼って、うまく立ち回ればいいのに』と言われるのですが、どうしても自分で抱え込んでしまう。力の抜きどころがわからなくて、一生懸命やってしまう。そんな不器用さを棚に上げ、陸上が思い切りできないことを環境のせいにしてしまっている自分も嫌でした」

昨年は腰のけがで、治療に専念していた期間もあり、陸上競技に費やせる時間が本当に少なかった。そして五輪を目指すために自分にいちばん足りないのは「時間」だと気づいたのだそう。

時間を作るにはどうしたらいいのか、悩み抜いた末の決断が「愛知高校の常勤職員を辞める」だった。

安定していたはずの仕事を辞めてまでも叶えたい夢「パリ五輪出場」。そこまで陸上をやり切りたいと思うに至った経緯とは、どのようなものだったのか。原点は「ただただ走るのが好き」だった少女時代に遡る。

 忙しくても「コミュニケーションを取る時間は大事にしたい」と思っている

やんちゃな少女時代に培った体の使い方

吉田選手は、かけっこが大好きな子どもだった。男子からよく戦いを挑まれていたそうなので、小さいころから足は速かったのだろう。小学生の時に通っていた体操教室では、跳び箱、鉄棒、サッカーなどで、体を動かすことを思い切り楽しんだ。

そんな娘を見た両親は、何かスポーツをやらせてあげたいとの思いから、スポーツクラブなどを探してくれたという。

「強いクラブチームへも見学に行ったのですが、強くなることを目的としたところは、自分には合わないと思いました。最終的に選んだのは一宮市の陸上教室で、小学校6年生のときから週一で通っていたんです。ハードルや高跳び、長距離走など、陸上のさまざまな競技を体験し、体のいろいろな部分の使い方を学びました」

ただ、中学に入ると部活動などで忙しくなり、教室へ通う頻度は減っていった。それでも、指導者の先生は高校の試合を見に来てくれたり、今でもときどきメッセージをくれたりしているのだそう。

「指導の口調はとてもはっきりとしていましたが、雰囲気はすごくやさしい先生で、楽しく通っていました。ここで培われた体の動かし方が、現在にもつながっていると思います。中学では陸上をやっていなかった私が、後の恩師の目に留まることになったのも、このとき教えてもらったおかげなのだろうな、と」

走り続けてこられたのは、とにかく「走ることが好き」だから

恩師との運命的な出会い

吉田選手が陸上を本格的に始めたのは高校からだった。そのきっかけとなったのが、中学3年のときに出場した愛知県中学校総合体育大会。陸上の100mに出場し、準決勝まで進んだ。その走りを見て「伸びしろがある。うちに来て陸上をやらないか」と声をかけてくれたのが、愛知高校で陸上部の顧問を務める服部光幸氏だった。

「中学時代の部活はソフトテニスだったので、陸上で声をかけていただいたのにはとても驚きました。でも走ることは好きでしたし、やってみたいという気持ちになったんです」

始めたばかりの陸上でも「誰にも負けたくない」との思いで練習に励み、高校2年のインターハイでは、リレーの2種目で決勝進出。3年になると一気に記録が伸び、インターハイの個人400mで決勝まで進んでいる。

「服部先生から『ここまで速くなるとは思わなかった』と驚かれたのですが、私自身も、ここまで来られるとは思っていませんでした。そして有り難いことに大学からも声をかけていただき、その先も陸上を続ける道が開けたんです」

高校卒業後、立命館大学へ進んだ吉田選手は、陸上を続けながら教員の免許を取得。母校・愛知高校の教員となったことで、恩師の服部氏とは同僚にもなった。

「愛知高校の教員を辞めると決めたとき、服部先生に自分の思いを打ち明けました。今の私があるのは、本当に先生のおかげですので。先生としても、立場的にいろいろ難しいところがあったと思います。それでも、最終的には私の決断を後押ししてくださいました」

服部光幸氏に見初められ、五輪を目指すまでの選手になった

陸上を続けることで変わった将来像

今年、吉田選手はパリ五輪を目指すために、大好きな教員の仕事を手放した。ただ、大学で陸上を続ける決意をするまでは、全く別の道に進むつもりだった。

「元々は看護師になりたいと思っていて、高校卒業後は看護科へ行くつもりでした。母が看護師をしていて、誰かのために働いている姿を、かっこいいなあと思ったんです」

看護科のある大学のオープンキャンパスにも参加していたほど、看護師への道は具体性を帯びていた。家族も友人もその将来を疑わず、本人でさえ「他の道は考えていなかった」という。高校3年の夏、陸上の記録が飛躍的に伸びるまでは。

「将来は看護師になるのだとずっと思ってきました。でも、インターハイの結果を受け、大学からも声をかけていただいて。もっと陸上を続けてもいいのかも、と思うようになりました」

看護師に魅力を感じたのは「コミュケーションを大事にしながら、自分が人の役に立っていると思える仕事だったから」。看護師として働く母を見て、そう思ったのだというが、これはそのまま教員にも当てはまる。

「ここまで記録を伸ばせたのだから、もう少し陸上を続けて、自分の可能性を試したいと思いました。そして大学で資格を取って、将来は体育の教員になりたいと考えるようになったんです」

教員という職業は、吉田選手の中で決して唐突に出てきたものではない。子どものころは「先生になりたい」と思っていた時期もあったという。しかし、周りの人たち、特に家族にとっては寝耳に水だったようで、母からは猛反対された。

なんとか理解してもらおうと説得を続けたが、つい感情的になることもあったそう。しかし、話し合いを続けるうちに気持ちを冷静に整理でき、自分の決意が揺るぎないものであることを確信したのだった。

後編へ続く

(取材/文 三葉紗代)

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