【吉沢祐輔】電動車椅子サッカー元日本代表―できることを探す―

22歳から32歳の10年間(2007年から2017年)、電動車椅子サッカー日本代表として活躍し続けた吉沢祐輔さん。1歳の時に進行性筋ジストロフィーを患い、小5で歩行が難しくなり、小6で車椅子生活に。2018年に現役を引退し、現在34歳になる。選手時代や現在のコロナ禍における暮らし、これからの夢について話を聞いた。

監督がいなかったので、自分たちで考えた

――電動車椅子サッカーについて詳しく知らない方もいらっしゃると思います。どんなスポーツなのか教えてください。

▲「車椅子、フットガード、1.5倍の大きさサッカーボール」を使ってプレーする
2013年頃の吉沢さん(吉沢さん提供)

体育館のバスケットボールコートで、電動車椅子に鉄製のフットガードを取り付けてサッカーをします。

プレー時間は前後半20分で合計40分、プレー人数は1チーム4名で合計8名でプレーします。「車椅子、ボールを蹴るフットガード1.5倍の大きさのサッカーボール」の3つの道具を使ってプレーします。そして、1つの大会での試合数は大会ごとに違いますが、おおよそ都大会では1日3〜4試合、日本選手権では2日間で最大4試合、国際大会では4〜5日間で最大7試合実施するため、体力をかなり使います。

――吉沢さんはいつ頃から電動車椅子サッカーを始めたのでしょうか?

▲小学校入学当時の吉沢さん(吉沢さん提供)

小学5年生の終わり(3学期)から電動車椅子サッカーを始めました。始めたキッカケは、車椅子でできるスポーツを他に知らなかったということと、最初にこの競技を知ったからです。通っていた病院で自分と同じ病気の友達が始めようと誘ってくれました。

そして、現役時代の競技スタイルは、周りの選手が一番パフォーマンスを発揮できるようにポートするプレースタイルでした。

――サポートするようなプレースタイルだったということですが、楽しさを感じる瞬間などはありましたか?

▲2013年頃の日本代表としてプレー中の吉沢さん(吉沢さん提供)

楽しかったことは、ライバルができたことです。今度は勝ちたいと、仲間と頑張る過程が楽しかったです。当時のクラブには監督がいなかったので、自分たちでどうすれば良いか考えました。具体的には、ライバルに勝って大会で優勝するために、どんな戦術が必要なのか、何をどれくらいどのように練習する必要があるのか、またチームメイトとどんなコミュニケーションを取っていけばいいのか、どういう姿勢で競技と向き合うべきなのか、練習の量と質は適切なのか、そういったことを考えてやっていました。

――ライバルやチームメイトなど、最も影響を受けた人は誰ですか?

2005年に亡くなりましたが、電動車椅子サッカーの同じチームで活動していた、チームのキャプテンです。電動車椅子サッカーの選手は、試合時には親が付き添って試合会場まで行く人が多いのですが、「もう一人で来なよ」と言って、電車で試合会場に向かう際に付き添ってくれたりしました。その人自身も車椅子ユーザーだったので、車椅子での電車の乗り方を教えてくれたりもしました。また、声かけもたくさんしてくれ、チームのムードメーカー的な存在でした。障がいを言い訳にせず「やりたいことをやろう!言いたいことは伝えよう!」と言葉と行動で伝えてくれる選手で、私の心に刻まれています。

コロナ禍ではオンラインで活動

――電動車椅子サッカーは試合だけではなく、試合に臨むまでの準備も大変だと思います。電動車椅子サッカーならではの課題や難しさは、どういうものがありますか?

大きく3点あります。

1点目にして、最大の課題は・・・・お金がかかることです!!電動車椅子が100万円、それを個人向けにカスタマイズ改造するのに更に50万円、ボールを蹴るバンパーが5万円ほど必要になります。更に、試合時には介護の付き添いの人の交通費や宿泊費、介護費も必要になります。これは日本代表海外遠征になると、更に多額になります。

2点目は、病気の進行です。選手はみんな障がいや病気を持っているので、そもそも食事が取れなくなる等、できることとできないことが刻々と変化していきます。

3点目は、移動です。全国大会では地方に移動する必要がありますが、その移動が大変です。対策として、1日前に移動して、体力を回復させて試合に臨むようにしていました。また、日本代表では海外で試合があるので、更に大変でした。フランスで試合がある場合は10時間飛行機に乗りますが、車椅子で搭乗する場合は1席でずっと座っていることは無理なので、3席分を使って横になったりしながら向かいました。

――電動車椅子サッカーの日本代表になり、2018年に引退されていますが、その引退の背景、今後の夢や目標は何ですか?

物事の優先順位が変わったため、2018年に選手を引退することにしました。電動車椅子サッカーをするためには、遠征費などでお金が必要となりますが、他にやりたいことができたことが大きいです。結婚もしましたし、パソコンの勉強もしたい。また、20年ほど選手でプレーしてきたので、もう選手は満足という気持ちもありました。

今後は、電動車椅子サッカーの指導者がしたいと思っています。ゆくゆくはスポーツだけではなく、アドラー心理学に基づいて障がい者向けに現場や社会を変えられるように個人を支援するコーチングがしたいと考えています。まずはアドラー式コーチングを学習する予定です。

――コロナによって、吉沢さんにはどのような影響がありましたか?

個人的な影響としては、ほとんど外出しなくなったことと、ヘルパーさんの一部休業です。2月から6月時点で、外出したのは1回のみです。ヘルパーさんは、元々24時間、週に20人くらい色んな人が出入りしていましたが、休業補償が出る間は一時的に一部休業してもらっています。

電動車椅子サッカー界への影響としては、9月の選手権が中止になりました。また、市営体育館が使えないので、練習もできなくなったクラブがたくさんあるそうです。でも、その間、仲間が主催するオンライン交流会に参加したり、インスタグラムライブのトークショーにゲスト出演するなどオンラインを活用しています。

今後の活動として、本当は4月から選手を集めて新たなチームを立ち上げ活動するつもりだったのですが、まだできていません。

自分は指導者として参加する予定なので、選手を5名集める必要があります。今は、初めて電動車椅子サッカーをやる人に Webでルールとか教えたりしています。

チャンスを待ちながら、できるとこからやりたいと思っています。

「できることを探す」ということ

――障がいを持っていらっしゃる方々に伝えたいことはありますか?

「諦めずにできることを探すこと」を一番伝えたいです。サッカーでの工夫を日常生活に生かしてほしい。自分で考えられる力を身につけて欲しいです。

重度障がいを持っていると、できないことに目が向きます。電動車椅子サッカーでも、左に動くのが苦手とか。でも、車椅子のレバーを工夫することで、その左に動くことをできるようにする工夫はできます。そういった工夫をしていかないと、勝てない。

これは日常生活でも一緒です。呼吸も、食事も、ヘルパーさんがいていろんなことができるようになります。

――これまでも様々な困難があったと思いますが、常に前向きにそれを乗り越えようとする吉沢さんの姿に勇気づけられる人も多いと思います。何か座右の銘などはあるのでしょうか。

「人間万事塞翁が馬」です。意味は「人生における幸不幸は予測しがたいということ。幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからないのだから、安易に喜んだり悲しんだりするべきではないというたとえ」です(故事ことわざ辞典より)。悪いことがあったら、良いことがあるという意味です。これは自分にぴったりの内容で、「悪いことも良いことも、同じことはずっとは起こらない」と考えると、気持ちが楽になります。これは、サッカー日本代表監督の岡田武史さんの本に書かれていて知った言葉です。

――本日はありがとうございました。

吉沢さんの「できることを探す」が印象的だ。「何か”これ”をしたい」という情熱があり、実際に実施してみて、うまくいかなければどうすればいいか考え試行錯誤する。そして、できることがどんどんと増えていく。障がいがあろうとなかろうと、吉沢さんの工夫や改善に向かう姿勢から学ぶべき点は多い。

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