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パラテコンドー&身体障害者野球 市川青空(そら)進化の軌跡「目の前が真っ暗になった身でも這い上がれる」大事故から世界で戦うファイターへ

現在、パラテコンドーと野球の2足の草鞋で競技生活を送っている市川青空選手。

テコンドーでは2028年ロサンゼルスパラリンピックでの日本代表を目指し国際大会を戦いながら、出身地の身体障害者野球チーム「ぎふ清流野球クラブ」の一員として全国大会にも出場している。

2つの競技で高みを目指している市川選手。ただ、4年前に大事故に見舞われてしまい一度はスポーツはおろか歩くことすらもできない時期もあった。

そんな状況からどう這い上がって行ったのか。その進化のストーリーを追いかけていく。

(取材 / 文:白石怜平、 以降敬称略)

大事故と復帰に向けた先生との絆

岐阜県出身の市川は、かつて実業団の軟式野球でプレーしていた。

仕事と野球に打ち込む日々を送っていた市川の人生が一変したのは20年の3月だった。塗料製造でペンキをつくる現場作業員として働いていた時の出来事だった。

「攪拌(かくはん)機の洗浄をしていた際に服が絡んで体が持っていかれてしまい、右腕がその瞬間ちぎれてしまいました」

実業団の軟式野球選手としてプレーしていた

一度の2トンのペンキがつくれる攪拌機で、1秒1000回転するため人間の力では到底抗えるものではなかった。

意識が朦朧としながらもペンキの釜へと落とされた状態から自ら登り、すぐドクターヘリで病院へと救急搬送された。目を覚ましたのは手術を終えた翌日だった。

「事故の瞬間から片腕がないことは分かっていたのですが、実際に病室で見た時には『あぁなくなったんだな』と落ち込みましたね..。

集中治療室で当時はコロナ禍が始まった頃でもあったので、面会もできなくて一人で考え込んでしまいました」

市川の負傷は腕だけではなかった、内臓の圧迫に加えさらに右足を粉砕骨折するという想像を絶するものだった。入院した5ヶ月の間で腕・足・内臓の計4度の手術を要した。

「入院時にはドクターから『車いす生活で、これまでのようなスポーツはできないです』と言われていました。野球の会社に入ってやっていたのでもうできないのかと思いましたし、競技復帰どころか歩くこともできなくなるかと考えると真っ暗になりましたね…」

当初は車いす生活を言い渡されていた

そんな市川に光を照らしたのが、入院していた岐阜大学病院で理学療法士を務める田中健太先生の存在だった。

「僕が集中治療室を出て車椅子で動き始めた当初から担当してくださった先生なのですが、いつも明るく元気に振る舞ってくださったんです。僕の右腕があるかのように毎日接してくれました。

ベッドから起き上がるところからのスタートだったのですが、リハビリメニューも僕を”スポーツ復帰させる”と感じさせてもらえる内容で、田中先生のおかげで僕も前向きになれました。今でも連絡をとっているのですが、先生がいるからこそ今の自分がいます」

リハビリが身を結び歩けるところまで回復した市川は、5ヶ月の入院を経て愛知県の病院に転院。義手をつくり、さらに約半年の訓練を重ねた。術後から1年かけて仕事復帰を果たした。

パラテコンドーとの出会いと監督の熱意

市川がパラテコンドーと出会ったのは事故から1年近くが経とうとしていた22年の4月だった。名古屋で行われた「J-STARプロジェクト」に参加したことがきっかけだった。

このプロジェクトはオリンピックやパラリンピックを目指す未来のトップアスリートを発掘する施策。市川は迷わず参加を決めた。複数の競技団体からスカウトを受けた中、選んだのがパラテコンドーだった。

「入院中からパラスポーツを調べていたので、テコンドーも知っていました。そこで初めてミット打ちをしたり、ステップも丁寧に教えていただいた時に面白さを感じられたんです。

あとやるからには世界を舞台に戦いたいと考えていました。すぐにトップ選手と戦える競技は何かも見極めて選びました」

世界で戦うことを見据えパラテコンドーを選んだ(本人提供)

恩人と上述した田中先生にも競技挑戦の報告を真っ先にしたという。

「最後の診察時にパラテコンドー挑戦の報告をしました。先生も『世界で戦う選手になってきてね』と言ってもらい、今も恩返ししたい想いでやっています」

開始当初は階段1段を登るのも疲労を感じる状態から再び体をつくっていった。その間、ある方が岐阜に何度も足を運んでくれた。

「東京パラリンピックで日本代表監督を務めていた洪君錫(ほんくんそく)さんが練習をしに来てくださったんです。本当に嬉しかったですね」

パラテコンドーの魅力に吸い込まれていった(写真中央:本人提供)

仕事復帰してからも大会出場を見据え練習を続けていた中、市川はある決断をした。高校卒業から勤めていた会社を辞めて、アスリート雇用を行っている「太平電業株式会社」に転職した。

初めて地元を離れ、神奈川で一人暮らしを始めた市川は早速国際大会へと参加を重ねていくことになる。

「瞬発力やスピードに自信がついてきたのですが、海外の選手は体格が違って圧倒されるばかりでした。厳しい世界に入ったなと思いましたね」

その後は「第16回全日本テコンドー選手権大会」に出場し、58キロ級で3位の成績をマークした。昨年はさらに国際大会への出場を増やしていった。

「去年は日本にいる時間が少なかったです(笑)。世界選手権に参加しまして、エジプトやオーストラリア、レバノンそしてメキシコと4大会も出させてもらいました」

昨年から数々の国際大会に参戦している(提供:伊藤力)

一年間世界を舞台に実戦の場を重ね、実力をつけていった。昨年末は世界ランク50位だったが、現在25位まで上げている。

「とにかく驚きでした」野球との再会

そして、市川を語る上で外せない競技がもうひとつある。それは原点とも言える野球である。

再び縁が繋がったのはパラテコンドー挑戦とほぼ時を同じくしたタイミングだった。

「パラ陸上短距離の大会に出た時期があって、そこで佐藤猛さんという義足の選手と出会いました。その時地元に身体障害者野球チームがあるという話をいただきました。そこからチームに体験へ行ったのですが、とにかく驚きでした」

再び野球ができることに大きな喜びを感じた

その驚きとは、まず野球ができる環境が近くにあったことだった。そして身体障害者野球ならではの技術に魅了されていった。

「グラブから離してその間にボールに持ち替えるというのを間近で見て鳥肌がすごく立ちました。キャプテンの渡辺一也さんが軽快に投げている姿を見て、僕もできるようになりたいと思いました」

今では自身も軽快なスローイングを行う

テコンドーとして真剣勝負に向けた体づくりに励みながら、野球での復帰も並行して目指した。

「双子の弟がノックを打ってくれたりキャッチャー役も務めてくれました。打つ方では元々左投げ右打ちだったのですが、打球がゴロしか飛ばなかったので打つのも左にしました。あと持ち替えて投げるのも半年ほどかけてマスターしました」

左打者へ転向し、本塁打も放った

世界一メンバーを擁する強豪相手に好投

その猛練習はすぐに結果へと表れた。出場を始めた大会で早くも躍動した。

「去年の全国大会でライトオーバーのランニングホームランを打ったんです。地区大会でも名古屋ビクトリーを3回1失点に抑えられたんです。その後の試合では打たれてしまったんですけどね(苦笑)」

名古屋は昨年日本が世界一に輝いた「第5回世界身体障害者野球大会」の日本代表に5人を輩出した全国屈指の強豪チーム。ここでも世界で戦える片鱗を見せた。

今年の全国大会でもマウンドに上がった

今年もテコンドーでの国際大会の合間を縫いながら、神戸での全国大会をはじめ地区大会などに駆けつけている。

6月には神戸で行われた「全国身体障害者野球大会」に参加し、2番を打つとともに投手・外野手とフル回転した。

「同じ境遇から憧れられるアスリートに」

現在は”二刀流”での生活が何より充実しているという市川。

「野球が好きな友人たちとピッチング練習もしています。僕のためにキャッチャーミットを揃えてくれて球を受けてくれるので、ありがたいですよね。楽しみながら野球も真剣にやっていきたいです」と笑顔で語ってくれた。

もちろん野球も真剣にやりたいと語った

ただ、目標はパラリンピックの出場である。最後に、アスリートとして目指す姿を語ってもらった。

「自分と同じ境遇の方たちから憧れられるアスリートになりたいです。世界中のいろんな障害のある選手と対戦する姿を見てもらい、頑張ってるんだと思ってもらえる影響力のあるアスリートになります。突然目の前が真っ暗になった身でも這い上がれるところを見せたいです」

絶望から立ち上がり、2つの競技で大舞台での活躍を見せる市川。自らが照らす希望の光はさらに輝こうとしている。

(おわり)

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