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「地元の野球、スポーツ界の活性化に」元甲子園球児・小暮涼 スクールからつなげる次世代への野球と日の丸の挑戦

かつて埼玉県の強豪・春日部共栄高校で甲子園に出場し、現在は野球スクール「Link BASEBALL ACADEMY」を運営する小暮涼さん。

子どもたちに野球を教える指導者でありながら、アーバン(都市型)スポーツ「Baseball5」の日本代表候補に挙がるプレイヤーでもある。

小暮さんの野球人生を振り返りながら、現在挑戦している2つの今を追いかける。

(取材 / 文:白石怜平、以降敬称略)

名門校進学のきっかけは「寮生活がしたい」

野球との出会いは3歳の時。2人の兄が野球をやっており、当時通っていた野球スクールに一緒に行っていた。その時にコーチたちとボール遊びをしたのがルーツだった。

小学3年生で本格的に硬式野球を始め、高校は埼玉県の名門・春日部共栄高校に入学した。選んだ理由にはある考えがあった。

「元々、親元を離れて寮生活をしたい気持ちがありました」

野球そしてBaseball5でも活躍している小暮(筆者撮影)

きっかけは小学生時代に出場した全国大会での出来事だった。

「遠征先で滞在したホテルに広陵高校と中京大中京高校が泊まっていました。そこで広陵の主将の方が僕たちのところに来て話をしてくれたんです。

広陵について調べたら寮生活で、全国からいろんな選手が来ていることを知った時に驚きました。その時から寮生活をしていろいろな選手が集まる高校で野球をやりたいと考えるようになりました」

3年夏、甲子園の舞台に立つ

寮生活を始めた春日部共栄高校では入学時に140人、同級生だけでも60人いる大所帯でとにかく驚いたという。

そんな中でも小暮は1年秋にベンチ入りを果たし、2年生の秋には二塁のレギュラーを奪取。チームを牽引する存在として3年夏(2014年)は埼玉県大会を制覇し、甲子園出場を勝ち獲った。

野球人なら誰もが憧れる舞台。当時の心境は意外にも「思ったより楽しめました(笑)。埼玉県大会の方が緊張しましたね」と語った。

楽しめたと語った甲子園の舞台(本人提供)

この時はチーム事情で二塁手は併用制ながらも確かに甲子園のグラウンドに立ってプレーした。今子どもたちの指導に勤しんでいる身として、その経験は財産になっている。

「甲子園は子どもたちも憧れる場所なので、『(甲子園に)行ったんだよ』っていうと目を輝かせてくれます」

卒業後のステップについては既に「高校の先生をやりながら指導者をやりたいと考えていました」と頭に描いていた。

教育実習で感じたある疑問とは

卒業後は教員免許取得と野球を続けることを考えて八戸学院大学へと進学した。

同大学OBには秋山翔吾(広島)がおり、小暮の同級生には髙橋優貴(巨人)がいるなど野球のレベルも高い大学。

ただ、生まれも育ちも埼玉だった小暮にとって八戸は初めて足を踏み入れた地だった。

「共栄から行くのも初めてで知っている先輩もいなかったですし、しかも進学を決めるまで八戸には行ったことすらなかったです(笑)。それでも、中学卒業から寮生活も始めてどこでもやっていけるという自負はあったので、すぐ決めました」

小暮は大学でも野球を続ける一方で、在学中に当初からの目標だった教員免許も取得。描いたストーリーに沿って順調に進んでいた。

大学でも野球を続けた(本人提供)

しかし、その実習の際にある疑問を抱くようになった。

「一番は指導者になることが目標でした。ただ、実習を通じて教師と指導者の両立は難しいなと感じたんです。学校の仕事も大変ですし、重きを置いている野球の指導者として成長できるのかなと思って…」

悩んだ小暮は大学の監督に相談すると「指導者になりたいのであれば大学でやるのはどうだ」という助言をもらった。

卒業後は職員として残り、大学で働きながらコーチを務めた。コーチとして指導者としてのキャリアを歩み出した小暮には、また新たな志ができていた。

それは野球スクールの運営だった。野球と出会った原点の場所であり、24時間大好きな野球と向き合いたい。そんな想いから構想を練り始めた。

ここで小暮は一つ大きな決断を下した。

「3年勤めた大学を辞めてアメリカへ行きました。指導者の勉強をしてから開講しようと思い、知り合いの伝手をたどって行きました」

1ヶ月間、選手としてアメリカに

1年間は準備期間として資金を集め、単身アメリカへ渡った。ただ、それは自身の想定と異なる形での”留学”だった。

「アメリカの独立リーグを経験してる方々から話を聞くと、『プレイヤーとして肌で感じながらアメリカの野球を知った方が勉強になる』と。僕はケガで野球を引退したわけではないですし、まだ体が動くのでそれなら挑戦しようと決めました」

小暮が参加したのは、カリフォルニアで開催されたウインターリーグ。将来MLBでのプレーを目指す約200人が参加し、世界中から夢を追いかけて来た選手たちとともに1ヶ月間共にした。

選手として単身アメリカへと渡った(本人提供)

この間結成された即席のチームでは米独立リーグの監督やコーチが指揮を執り、目に留まった選手はその場で契約が決まるシステムだった。

小暮もブランクを感じさせないプレーで、興味を持ったチームもあったが契約までには至らず。

「元々は指導者の勉強のために行きましたし、1ヶ月やり切ったので帰国しました」と、いよいよ開講に向けて本格的に着手した。

念願のスクールは”つながり”を生む場に

スクールの開講にあたり、小暮は「地元(埼玉県深谷市)でやりたいと思っていました」と、明確な考えを持っていた。

「県北の野球の力が落ちてきていると感じています。地元で育った選手が甲子園やその先のレベルでプレーしたり、地元の学校が強くなることで(地域の)活性化につなげていきたいと考えていました」

使用しない倉庫をリフォームし、昨年11月についに開業した。スクール名は”つながり”を意味する「Link BASEBALL ACADEMY」とした。

昨年、スクールを開講し秋山からもお祝いが届いた(本人提供)

「自分一人でここまで来れたわけではなく、いろんな人とつながりがあったからこそと思っています。恩返しと、ここからたくさんの縁が広がる場所にしたいと思ってスタートしました」

今は深谷市や近隣の熊谷市の小中学生が門を叩いている。運営方針で大切にしていることを明かしてくれた。

「一番は少人数制というのを大切にしています。来てくれた生徒により身になってほしいので最大3人程度にした方が量も質も担保できると考えました。

数をこなしてとにかくたくさん経験をする。失敗もそうですし、成功体験もそうです。それが次につながって質を高められると思うので」

具体的に教えている内容は、打撃と守備に加えて体幹や柔軟性を高めるトレーニングの3種類。野球に役立つ体の使い方とともに、技術向上に向けて自らの経験を惜しみなく伝えている。

少人数で一人ひとりとしっかり向き合っている(本人提供)

ただ、自身の教えを絶対だとして押し付けたりは決してしない。

「子どもたちには何色にも染まってほしくないという想いがあります。自分が教えている立場で何ですが、”疑い”を持ってほしいなと。自分の教えをやってみて、いいと思ったら続ける。

そうでなければ別の方法を試してみればいいですから。子どもたちに選択肢を与えることを大切にしています」

今の仕事のやりがいについてこのように語った。

「子どもたちが結果を出してくれることが一番嬉しいです。ある生徒はチームで主に6年生・5年生含めて20人以上いた中で、ただ一人4年生で選ばれたと言ってもらった時は鳥肌が立つほど嬉しかったです」

昨年もうひとつの挑戦になった「Baseball5」 

昨年は小暮にとって大きな動きが続いた年だった。スクールの開講に加えて、新たな競技に取り組み始めた。

それは野球型のアーバンスポーツ「Baseball5」への挑戦である。

世界約80カ国・地域で普及し、26年のダカールユース五輪で正式種目に採用されるなど注目を集めている競技。

小暮は昨春に日本初のBaseball5チームである「5STARs」に入団すると早くも頭角を表し、今年の2月には日本代表選考会にも選出された。

Baseball5「5STARs」の主将を務めている(筆者撮影)

その実力と姿勢が評価され、今春には入団約1年ながらチームの主将に任命された。

現在は毎週の練習に加え、東京と埼玉で毎月開催されているリーグ戦「B5.LEAGUE KANTO 2024」にチームとして参加し、再びプレイヤーとして己を高めている。

「選手としては日本代表になることはもちろんのこと、それをより多くの機会で経験したいですし、チームとしてもリーグそして日本選手権優勝を目標にしていますので『やってやるぞ』という想いです」

チームとして自身も日本を代表する位置へ上がろうとしている(筆者撮影)

「天職だと思っています」今後の展望

スクールとBaseball5をスタートして約1年半、着々と前進している。今後の展望について明かしてくれた。

「埼玉県内で複数の拠点をつくりたい考えがあります。野球に関わる子を増やし、たくさんの縁をつないでいきたいです。野球の内野サイズの室内練習場を持ちたいです。それがあればBaseball5のイベントもできるので、いずれはリンクさせたいです」

将来はBaseball5もリンクした場所へと広がっていく(本人提供)

そして、最後に共に未来をつくっている子どもたちに向けての願いを語り、インタビューを締めた。

「結果的にプロ野球選手になってくれたら嬉しいですね。ただ、どんな結果になっても野球を好きでい続けてくれるのが一番です。僕としては、地元の野球そしてスポーツ界の活性化に貢献できたら嬉しいです」

今の仕事を「天職だと思っています」と語っていた小暮。自らも日の丸を目指すとともに、子どもたちの成長と日々向き合っている。

(おわり)

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