ベガルタ仙台強化部 担当部長スカウト 平瀬智行―憧れの場となるクラブハウスを―
多くのサッカークラブの敷地の中には、クラブハウスという建物がある。基本的には選手が使う建物であるが、チームによってその形態はさまざまである。そしてこのクラブハウスは、選手たちの体のケアの場所でもあり、選手同士のコミュニケーションの場となることもある。そのため、このクラブハウスを通して、ゲームでは見えない、そのクラブやチームの特徴が見える場合も少なくない。
今回の記事では、現役時代は鹿島アントラーズや横浜F・マリノスで活躍し、現在はべガルタ仙台で強化部でスカウトを務める平瀬智行氏に、クラブハウスに関する現役時代の思い出や、その役割について話を聞いた。
アントラーズのクラブハウスで生まれたモチベーション
プロになった最初のチームである鹿島アントラーズのクラブハウスがどのような様子だったか憶えていますか。
平瀬智行氏(以下、敬称略)「だいぶ前の話になってしまうのですが、私がアントラーズに所属していた頃のクラブハウスには、シャワーはあってもバスタブがない時代でした。また、選手個人のロッカーが大きくて立派なものだったことも、よく憶えています。
でも、当時その立派なロッカーを使うことができるのは、試合に常時出場する選手たちだけでした。そのころの僕のような試合に常時出るわけではない選手には、クラブハウス内の別の場所にロッカーがあって、そこはベンチシートの上にあるフックに自分たちの洋服を掛けるような非常に簡素なロッカールームだったんです。
そうしたものを日々見ているうちに、自分の意識の中で『早くいつでも試合に出られるようになって、あの立派なロッカーを使える選手になろう』というモチベーションが生まれました。
私はアントラーズからレンタル移籍の形でブラジルのチームで1年間プレーし、その後アントラーズに戻ったときには、常時試合に出られるような選手になりました。そして、とうとうあの大きなロッカーを私も使うことになった時は本当に嬉しすぎて、しばらくニヤニヤが止まりませんでしたね。
また、アントラーズはクラブハウスの中にたくさんのクラブスタッフが働いていましたし、グッズショップもクラブハウスと同じ敷地内にあったんです。家族や友人たちのために次の試合のチケットが欲しい選手は、自分たちでチケット担当のところに行っていました。鹿島の社員の方たちも本当に気軽に練習の様子を見に来られていましたし、クラブハウスはアントラーズに関わる人みんなにとって身近な場所だったんです。
よく、アントラーズに関わる人はアントラーズファミリーと呼ばれます。実際にその名の通りで、選手とスタッフが本当に密接に関わることができるクラブハウスだったな、と思います。」
来年、ベガルタ仙台は新しくクラブハウスを作ることになりました。クラブハウスの予定地の近くには、空いている施設もあるようなので、クラブの運営機能がクラブハウスの近くに集まる可能性もあるかもしれませんね。
平瀬「私のアントラーズ時代の経験から考えると、クラブハウス、つまり選手がいるところとクラブの運営部門は同じ場所である方が、いろいろな意味で利便性が良いだろうと思います。」
ブラジルにレンタル移籍されていたと先ほどお話がありましたが、そのブラジルのチームの施設はどのような感じだったのですか。
平瀬「ジーコ1のチームだったので、他のクラブと比べても環境は恵まれていました。グラウンドは3面ありましたし、ビーチサッカーをプレーできる場所もありました。
選手たちのためのクラブハウスは清潔でしたが施設自体は簡素で、それ以外は快適とは言えませんでしたね。ブラジルのビッククラブだったらクラブハウスは大きくて立派なものなのでしょうが、私がいたところはそうではなかったので、本当に必要最小限のものがあるだけのクラブハウスでした。」
横浜F・マリノス時代に使っていたクラブハウスの様子はどうでしたか。
平瀬「私がF・マリノスにいたころは、東戸塚にクラブハウスがありました。おそらくかつての横浜フリューゲルス2のクラブハウスを、そのままマリノスも使っていたのだと思います。建物は内部がかなり広くて、練習場の目の前にありました。
クラブハウスの建物に関して言うと、広さは居心地の良さを左右する重要な要因になるように思います。選手たちがそれぞれのスペースを確保することでリラックスできますし、マッサージの部屋も空間が広い方がリラックスしやすいんです。
その意味では、F・マリノスの東戸塚のクラブハウスは、広くてリラックスしやすい空間でしたね。」
今のベガルタ仙台のクラブハウスは、あまり広いとは言えませんよね。
平瀬「練習生がクラブに来ると、ロッカーの数が足りなくなりますね。また、クラブハウスの建物には窓がついていますが、ロッカーでふさがれているため、やはり太陽の光が入るクラブハウスの方が良いですね。」
ヴィッセル神戸のクラブハウスはどのような感じでしたか。
平瀬「ヴィッセル神戸に入った直後に私が使っていたクラブハウスは、プレハブのような本当に簡素な建物でした。でも、その年から本格的にクラブハウスの建設が始まり、翌年には新しいクラブハウスを使うことができました。おしゃれであると同時に大変くつろげる場所で、大きな木のロッカーはもちろん、浴槽もありました。筋トレルームの充実ぶりは、特にすごかったですね。」
クラブハウスの美味しいご飯がチームの武器に
現役時代、平瀬さんはクラブハウスではどのようなことをしていたのですか。
平瀬「現役時代の私は練習直前にクラブハウスに来て、必要なことをした後はすぐに帰るタイプだったので、クラブハウスでの滞在時間は短い選手でした。でも、マッサージを受ける時は広いスペースでリラックスしながら、のんびりしたいと思っていました。」
クラブハウスにおいて、選手のパーソナルスペースが確保できるということは、非常に大事になってくるようですね。
平瀬「そうしたパーソナルスペースには、選手個人の性格が出ますよね。例えば、チームの中にはきれい好きな選手も、そうでもない選手も、両方存在します。私個人としては、選手本人が落ち着くなら、多少は雑然としていてもよいだろうと思いますが、同じような考えのチームメイトばかりではないですよね。
スペースがない場所で、きれい好きな選手とそうではない選手の間の距離が近すぎる状況では、双方ともストレスを抱えてしまいます。そうしたストレスを避ける意味でも、広いスペースのあるクラブハウスは必要だと思います。」
現役を引退され、現在コーディネーターとして強化部で働いている平瀬さんにとって、クラブハウスとはどのようであると理想的だと考えていますか。
平瀬「やはり、スペースが広くて明るいクラブハウスの方が良いですね。現在私はクラブハウスの中で仕事をしている時間も長くて、良い選手を探すためにいろいろな動画やサッカーの試合をクラブハウスの中で見ることも多いので、スペースは広い方が仕事がはかどります。
また、実は今のベガルタの選手はクラブハウスにある食堂でご飯を食べることを、とても楽しみにしているんです。私が選手としてベガルタにいた頃とは異なり、今はクラブハウスの中でご飯を食べることができて、それがとても美味しいと選手たちにも大好評なんですね。
今の私の仕事のひとつは、スカウト等を通じてよい選手をべガルタに引っ張って来ることです。その交渉の際、クラブハウス内に美味しいご飯があるよ、というのは強力なアピールポイントとなります。美味しいご飯が食べられる場所がクラブハウス内にあれば選手の健康管理にも役立つでしょうし、選手同士のコミュニケーションも生まれやすくなります。美味しい食堂があることも、理想的なクラブハウスの条件の一つと言えるのかもしれませんね。」
選手をスカウトするとき、良いクラブハウスがあることは大きなアピールポイントとなるのでしょうか。
平瀬「なります。クラブハウスはそのクラブの顔というべき場所です。顔というからには、例えば外部の人がクラブハウスを訪れたときに『立派なクラブハウスだなぁ』『こんなすごいトレーニング施設が中にあるんだ』『食堂のご飯が美味しいなぁ』、そして『トップの選手の使う場所はすごいな』と感動してもらう場所がクラブハウスであるべきだと、私は思います。
そうした場所にクラブのエンブレムを堂々と掲げることで、多くの人の目標や憧れになることが、プロのサッカークラブの役割の一つであると思うんです。
クラブハウスをはじめとする環境をよりよく整えることで、ベガルタ仙台でプレーしたいと考える選手たちがきっと増えることでしょう。そうした意味で、クラブハウスはスカウトの時の大きな武器になると言えますね。」
さまざまなチームでプレーしていた平瀬氏は、多くのチームのクラブハウスを使用している。その経験から生まれた言葉が、クラブハウスはクラブの顔という一言であろう。
憧れの場所となることが、次の世代を育てることにつながる。
べガルタ仙台の未来への種まきは、すでに始まっている。
- 本名はアルトゥール・アントゥネス・コインブラ 。ジーコは愛称。ブラジルのCRフラミンゴやイタリアのウディネーゼでプレーした後、1991年から1994年まで鹿島アントラーズでプレー。2002年から2006年までは日本代表チームの監督に就任。2018年から2021年まで鹿島アントラーズのテクニカル・ディレクターに就任。
- 1964年創立の全日空横浜サッカークラブが前身となり、1993年に横浜フリューゲルスとしてJリーグに参入。横浜マリノスと合併する形で消滅するも、1991年の元旦に開催された天皇杯決勝で清水エスパルスを下し優勝した。
(文 對馬由佳理)(インタビュー・写真提供 ベガルタ仙台)
注釈 この記事は、ベガルタ仙台オフィシャルウェブマガジン SOCIO MAGAZINEによるインタビュー記事を再編集したものです。