横浜FCを“J1で戦える”クラブに変えた10年──佐藤謙介が見た「J1基準」のつくり方

「お前、それでいいのか?」
その一言が、クラブも選手も自分も変える分岐点になった。
Jリーグ開幕から30余年。60以上のクラブがJ1という頂を狙う時代となった。しかし、新しいクラブにとって、昇格よりも難しいのが“残留”だ。J2からJ1に昇格したクラブのおよそ3分の1、初昇格組に至っては約半数が1年でJ2に逆戻りする。
“J1で戦い続ける”ためには、何が必要なのか。
今季J1を戦う横浜FCは、2007年の初昇格以降、昇降格を繰り返しながらも、着実にその力を磨いてきた。6月のルヴァンカップ プレーオフ(PO)ラウンドでは、3点差をひっくり返す劇的な逆転勝利を挙げ、「やはり、今年は前回昇格時とは違う」とサポーターを沸かせた。
“J1で戦えるクラブ”へと歩みを進めてきたこの18年。その多くをともに過ごし、時には主将としてクラブの変革を担ったのが佐藤謙介だ。現在は舞台をレノファ山口FCに移し、“J1基準”の再現に挑んでいる。
本稿〈全2回/前編〉では、佐藤謙介の視点から、横浜FCが築いた“J1基準”のつくり方を追っていく。

J1昇格・定着を狙うクラブの「空気感」とは?
佐藤が横浜FCに加入したのは2011年。当時のクラブはJ2の中位。J1経験者や若手も揃っていたが、上を目指すクラブの“空気”ではなかった。
「正直、J2の真ん中位(が定位置)。J1を経験したことはあるけれど、上に行くのか行かないのか、どうなんだ?という雰囲気が漂っていました」
ピッチの中でも、外でも、選手が「勝つこと」にどこまで本気で向き合えているのか。クラブに漂う“諦めの慣習”に、自分自身も少なからず染まっていたかもしれない。
主力流出、監督交代、連敗。上を目指すには、何かが足りなかった。
転機は2012年、山口素弘の監督就任だった。
プロの視点が変えた「わずかな差」への執着
「本気で、上に行きたいと思え」——。
年度頭のミーティングで放たれた言葉。代表レベルの視点を持つ新指揮官は、練習ひとつを取っても“数十センチ”へのこだわりを貫いた。
佐藤が「うまくいった」と感じたパスに、山口は静かに言った。
「あと数十センチ、右だったらもっとテンポが出る」
「代われ」。
実際に監督が蹴って見せたそのパスに、佐藤は圧倒された。見えている景色の違い。こだわりの深さ。それが本物のプロの視点だった。
「成功しても満足するな。もっと良くできる」
その感覚は、チームの体質を少しずつ変えていくことになる。
もっとも、当初は納得できなかった部分もあった。トップレベルを求める監督の指摘は厳しく、最初は腹が立ったというのが本音だった。
「悪くなかったはずなのに、なんでそんな細かいところまで言われるんだ、と。でも、今振り返ると、あれは本当に大事なことだったと思います」
そう語る佐藤にとって、その経験が“プロとしての在り方”を見つめ直すきっかけになった。

背中で伝えるプロの基準──複数の“正解”が生んだ空気
意識改革をさらに促したのが、三浦知良(カズ)ら、経験豊富な選手たちの存在だった。
「10回やってください」と言われれば、11回やる。常に“1回多く”取り組む姿勢を貫く。そして、やる理由を自分の中で考え抜き、その1回のテーマを位置づける。それを誰に見せるでもなく、自分の価値を高めるためだけに積み重ねていた。
「自分の価値を上げるために必要なことを考え抜き、誰かに見られていなくてもやる。それを1年間積み重ねれば、365回の差になる」
佐藤は、その背中に圧倒された。
ただ、そうした姿勢を見せる選手が一人だけでは、クラブ全体の空気は変わらない。
横浜FCには、他にも代表クラスの選手たちが複数在籍しており、それぞれが異なる角度でプロフェッショナリズムを表現していた。毎日のように、ピッチの中で、ピッチの外で、さまざまな「正解」の行動を間近で見ることができる。その蓄積が、若手や周囲の選手たちの「当たり前」を更新していった。
「この人がこれだけやるんだから、俺もやらないと」
そう思える存在が一人ではなく複数いたことで、練習場の温度は確実に変わっていった。
選手一人ひとりが、ピッチ内外でプロフェッショナルとして振る舞う。その姿勢が、少しずつ周囲にも波及していった。
クラブの支柱になった一つの“問い”
ある試合。佐藤は疲労からパフォーマンスを落とした。
「今日はダメでした。ちょっと疲れてて…」
その言葉に、当時のチームを象徴するベテラン選手が静かに言葉を返した。
「お前、それでいいのか?今日、この1試合しか見に来られない人に、価値あるプレーを見せられたのか?」
Jリーグ創設時からピッチに立ち続けた先駆者の言葉は重かった。
「(試合前の)練習でもいい。お前のシュート練習やパスの練習を見て、見に来た人は何かを感じてくれたと思うか?ちゃんと感じ取ってくれていたと思うか?その位、意識してやれているのか?」
「お前は、誰かにとって価値ある人間になっているか?」
プロにとっては42分の1の試合でも、観客にとっては“たった一度の観戦”かもしれない。価値を届けられなかったら、それはプロ失格だ。
「誰かにとって価値ある人間であれ」
それは佐藤の根底を揺るがした言葉だった。
文化が根付くまでにかかった10年
“基準”はすぐに根付かない。
だが、変化は着実に起きていった。選手たちの意識が変わると、クラブスタッフの動きも変わった。「この選手たちにもっと良い環境を」と考え始め、クラブの対応も変化していった。
クラブは選手に設備や待遇面で応えるようになり、選手もピッチ内外で行動で返す。スポンサーや地域住民への挨拶、イベントへの積極参加。結果としてスポンサーからの信頼も高まり、支援も広がった。
「選手たちがプロ意識を持っている」「選手たちが、ここまでやってくれるなら」——そうした声が実際に届くようになった。
例えば、2011年時点で約2億4000万円だった横浜FCの営業収入は、2019年には約11億円に達している(Jリーグ公式資料(2019)より)。スポンサー収入もおよそ2倍に増えた。クラブの本気が、数字としても現れてきたのだ。
若手選手も育った。斉藤光毅、松尾佑介、瀬古樹…。彼らはクラブの空気を感じながら、上のステージへ羽ばたいていった。

「クラブ全体」が変わったという実感
佐藤はこう語る。
「加入当初は、正直、街は「横浜?マリノスでしょ」という雰囲気だった。でも、クラブとして積み上げてきたものがあって、だんだん“横浜FCがある”って、地域の中で認識されていくのを感じました」
選手が変わり、クラブが変わる。そして、サポーターや地域の認識も変わっていく。
10年はかかった。でも、その過程で確かなことがあった。
「上に行きたい」「上に行くために必要なことは何か」というのを理解して行動する組織としての文化。『現状に満足せず、己に矢を向け、必要なことを理解し、行動する』こと。
「選手が変わっても、やるべきことは変わらなかった。変わらなくなった。」
いつしか、若手選手のインタビューからも、同じ言葉が漏れ聞こえてくるようになった。
プロ意識、地域との関係、クラブの矜持。それらが“文化”として根付き、クラブの芯になった。
J1昇格、そして“残る”ために
2019年、横浜FCは13年ぶりにJ1昇格を果たす。翌2020年はコロナ禍により降格制度が停止された特別なシーズンではあったもののが、横浜FCは15位で残留圏を維持し、クラブにとって初めてとなる“J1での1年完走”をやり遂げた。
「J1に行く」だけでなく、「J1に残る」ための基盤。それは、10年かけて築かれた“目に見えない資産”だった。
佐藤謙介はその渦中でキャプテンを務め、クラブの“基準”を体現してきた。
そして、佐藤はこの年を限りに、活躍の場を移す。新しい挑戦の舞台は、初めてのJ1昇格を目指すクラブ、レノファ山口FCだった。(後編へ続く)

(取材・文/沖サトシ)