身銭を切ってでも追い求める、野球の“楽しさ”が“過酷さ”に勝る瞬間 クラブ野球の魅力溢れる「一関市長旗」

7月19、20日、岩手県一関市で「JABA一関市長旗争奪クラブ野球大会」が開催された。日本野球連盟の公認大会として1988年に始まり、今年で36回目の開催。県内外のクラブチームが集う大会で、今年は岩手4チーム、東北(岩手を除く)5チーム、関東6チーム、北信越1チームの計16チームが参加した。複数地区から日本選手権対象のJABA大会と同数である16のクラブチームが参加する公認大会は、全国的にも例が少ない。どんな意図や思いが込められているのか。
県内外の16チームによる2日間トーナメント…開催の目的は
「この大会が終わらないことには夏は終わらない」。そう語る一関市野球協会会長の佐藤浩氏は、初年度から大会の運営に携わっている。佐藤氏によると、「一関市長旗」が始まったきっかけは二つあるという。

一つは「クラブチームの試合数を増やすため」。当時、一関を代表するクラブチームだった一関三星倶楽部(現・一関ベースボールクラブ)の選手たちに、より多くの実戦経験を積ませる目的があった。一関三星倶楽部は初代王者に輝き、1992年には全日本クラブ野球選手権大会で初優勝を果たしている。
もう一つは「野球熱のある一関の市民に、社会人になっても仕事をしながら硬球でプレーする機会があることを知ってもらうため」。県外のチームの参加枠を設けることで強豪同士のハイレベルな試合が実現。野球を愛好する社会人選手による真剣勝負が、30年以上にわたって一関市民を魅了してきた。今年は全府中野球倶楽部(東京)が決勝でエフコムBC(福島)との11回タイブレークまでもつれる接戦を制し優勝。JABA東北地区連盟の内海利彦会長が「市長旗史上、球史に残る熱戦」と称するほどの激闘だった。
初年度は参加チームが10に満たなかったが、現在は16まで増加。関東のチームから「枠を増やしてほしい」といった声が上がるほど人気の大会となっている。近年は毎年のように優勝チームが変わるほど白熱した展開が続いており、2017、21年に頂点に立ったWEEDしらおいなど北海道勢も奮闘。2023年に初優勝したハナマウイ(千葉)の川口冬弥投手(現・福岡ソフトバンクホークス)は最高殊勲選手賞に輝き、のちにNPB入りを果たした。

今大会は一関市内の4会場を使用し、2日間で16チームによるトーナメントを行う。初日に1、2回戦、2日目に準決勝、決勝を実施するため、2日間で最大4試合を戦う過密スケジュールだ。
かつては3日間開催していたが、数年前から変更。企業のバックアップを受けていないクラブチームは平日に仕事を休めない選手も多く、選手が集まりやすい土日で完結させたい狙いがある。佐藤氏は「暑い中でのダブルヘッダーは大変だし、雨でグラウンドが田んぼのようになることもある。それでも選手たちは野球をやりたいんです」と柔らかい表情で語った。
盛友クラブ4強入り「他地区のチームと交流できる良い機会」
今年は岩手のチームでは唯一、盛友クラブが4強入り。2回戦では全日本クラブ野球選手権大会に25回出場している同県の強敵・水沢駒形野球倶楽部に勝利した。全府中野球倶楽部との準決勝は2対17で大敗を喫したものの、松本直樹監督は「全府中さんには歯が立ちませんでしたが、(今大会は)他地区のチームと交流できる良い機会。選手のモチベーションも上がります」と声を弾ませた。
関東で働く選手も複数いるため全員が集まる機会はほとんどなく、練習試合は県内の社会人チームや大学と月に1回できるかどうか。準決勝で初回から救援登板し最後まで投げきった佐々木尚哉投手(25=岩手高)も「レベルの高いチーム相手に0に抑えられた回もあったので、自信になった。試合には負けましたが、めちゃくちゃ楽しかったです」と貴重な経験を振り返った。

佐々木は高校時代、制球難に陥り投手から外野手にコンバートされた。投手に未練がありながらも野球は高校までで辞めるつもりだったが、縁があって盛友クラブに入団。投手に再挑戦し、今年で8年目を迎える。
そんな佐々木が惹かれたのが、盛友クラブの売りである「楽しい野球」。大差をつけられてもベンチの雰囲気が沈むことはなく、試合終了の瞬間まで大きな声が飛び交う。一度は野球から離れようとした選手が楽しく白球を追う姿を見られるのも、クラブ野球の醍醐味だ。
元ロッテ左腕が「一番過酷」なクラブチームでプレーするワケ
「クラブチームはオーナーがいるわけではないので、選手たちは身銭を切って野球をしている。野球が好きで、野球をやりたいという気持ちがなければできない。だからこそ魅力がある」。佐藤氏にクラブ野球の良さを問うと、そんな答えが返ってきた。
今年の最高殊勲選手賞に選ばれた全府中野球倶楽部の永野将司投手(32)は「野球が好き」な選手の一人。今大会は2日連続で先発登板し、決勝は5回まで無安打投球を披露するなど6回無失点と好投して2014年以来の優勝に貢献した。
高校卒業後、九州国際大、Hondaを経て千葉ロッテマリーンズに入団。プロ4年目の2021年に戦力外通告を受け、その翌年からは会社員として働きながら、誘いを受けた全府中野球倶楽部でプレーしている。さまざまなカテゴリーの野球を経験した上で、永野は「交通費や宿泊費は自腹だし、今回のようにダブルヘッダーもあるので、クラブチームが一番過酷ですね」と口にした。

「逆に言うと…」と永野。「充実感が一番あるのもクラブです。自分は野球をしている時が一番楽しいので、野球の楽しさが過酷さに勝るというか。社会人やプロと違ってお金をもらっていないこともあって、重圧から解き放たれて純粋に野球を楽しめています」。野球が好きな気持ちがひしひしと伝わってくる。
ロッテ時代に公表した「広場恐怖症」との闘いは現在も続いている。不安障害の一種で、公共交通機関などの特定の場所で強い恐怖や不安を感じる症状。今大会も東京-岩手間を片道約6時間、自ら車を運転して移動した。より過酷を極めることは分かりきっていたが、好きな野球をするため、そして「ピッチャー陣は自分が中心となって引っ張っていかなければ」という責任感のもと、遠征への参加を決めた。
「一度トミー・ジョン手術をした左肘の靱帯がまた切れるまでは、野球を続けます」。左腕はそう言って笑った。さまざまな境遇に身を置きながら野球を愛する野球人が集う、一関の熱い夏が、来年以降も続くことを願う。
(取材・文・写真 川浪康太郎)