野球における「二刀流」とは?
広尾晃のBaseball Diversity
「二刀流」とは日本古来の武道、剣術の用語だ。両手に長刀と短刀(脇差)を持って戦うスタイル。江戸時代初期の剣豪宮本武蔵で有名になった。現在も一部の剣道の大会で二刀流が認められている。
大谷翔平から始まる
この言葉が野球界で使われるようになったのは、2013年に大谷翔平が日本ハムに入団して以降だ。花巻東高の大谷は、高校屈指の投手であるとともに強打者としても知られていた。当初から大谷はMLBへの挑戦を口にしていたが、彼を一位指名した日本ハムの栗山英樹監督やスタッフは「投手、打者の『二刀流』に挑戦してはどうか?」と大谷を説得し、入団させた。

かつては二刀流は当たり前
草創期の野球では、投手も打者の一人として打席に立つのが当たり前だった。そもそも1881年までの投手は下投げで、打者が要求するコースに投げることが求められた。1882年に横投げ(サイドスロー)が認められ、84年に上投げ(オーバースロー)が認められ、87年に打者が投手にコースを要求できないルールとなって、投手は「専門性」が高まり、打者、他の野手とは異なるトレーニングが必要になった。
以降、投手は打席には立つが、次第に打順は下位を打つようになり、打者としては期待されなくなる。MLBがアメリカン、ナショナルの2大リーグになったのは1901年のことだが、この年、防御率1.62でナ・リーグのタイトルを取ったボストンのサイ・ヤングは登板した43試合すべて「9番投手」だった。ただ、2試合代打で出場しており、打者としても多少期待されていた。しかし、以後、MLBでは打者と投手の分業は進んだ。
ルースの場合
ベーブ・ルースは1914年レッドソックスの左腕投手としてメジャーデビュー、16年には23勝を挙げ防御率1.75でア・リーグ1位、17年には24勝を挙げたが、打撃もよく登板のない日には代打で出場していた。レッドソックス首脳陣はルースの打撃を生かすために1918年には投手として20試合に登板したほか、外野手としても59試合に出場。この年は投手として13勝を挙げるとともに11本塁打で本塁打王になった。翌年には29本塁打、113打点の二冠を獲得、投手としては17試合に投げて9勝を挙げた。ルースが投打両方で活躍したのは18、19年の2年だけだ。翌年ヤンキースに移籍してからは打者に専念した。ルースは規定打席、規定投球回数を共に満たした年はなかった。
そしてルース以降「同じシーズンに投打で活躍した」メジャーリーガーは登場しなかった。

エースで4番
日本には野球は1872年にもたらされたが、草創期から日本野球は「エースが投げ勝つ野球」が主流だった。チームで最も能力が高い選手が投手=エースとなったが、多くのエースは打者としても能力が高く「エースで4番」が、日本野球のスタイルとなった。
1915年に今の高校野球の前身である中等学校野球大会の全国大会が始まると、野球が全国に普及したが、多くの学校が「エースで4番」のスタイルで甲子園に勝ち進んだ。
1936年に今のプロ野球につながる「職業野球」ができた。レベルが高くなると、投手と打者の掛け持ちは難しくなるが、戦前の職業野球では、エースとしてマウンドに立ちながら打者としても中軸を打つ選手が、まだたくさんいた。
掛け持ちが減っていく
その代表格が大阪タイガース(今の阪神)の景浦將と藤村富美男だ。景浦はまだ2シーズン制だった1937年春に47打点で打点王をとるとともに投手として0.93で防御率2位になっている。また藤村は1936年秋に2本塁打で本塁打王、投手として1.93で防御率6位になっている。
戦前の職業野球では「規定打席(規定打数の時代もあった)」「規定投球回数」を同時に満たす選手はそれほど珍しくなかった。試合数が少ないうえに、選手数も少なく投打を掛け持ちする選手が多かったのだ。
戦後になっても、阪急の野口二郎(投手と内外野手)、中部日本の服部受弘(投手と捕手)のように規定打席、規定投球回数を同時に満たす例が散見された。
しかし、選手数が増え、チームの体制も整うとともに、投手、打者(野手)の専門性が高まり、投打を掛け持ちする事例は次第に見られなくなった。

指名打者制の導入
MLBでは1930年代には、投手と野手は全く別のメニューでトレーニングをするようになった。また先発投手のローテーションが組まれるようになった。先発投手は次の登板日に向けて登板翌日から計画的な練習をするようになる。また救援投手も試合日はブルペンで準備をするようになる。こういう形で、投手と野手とは練習日程も中身も全く別物になっていった。
1つのチームに2種類の競技者がいるような状態になったのだ。
それでも投手は長い期間、打席に立っていたが、1973年、MLBのアメリカン・リーグが「DH=指名打者制」を導入。これは当時、観客動員減に悩んでいたア・リーグが打撃戦を増やそうと導入したもの。NPBのパシフィック・リーグも75年から導入した。
こういう形で投手が打席に立たない「投打の完全な分業」が、野球の世界に普及した。

大谷の選択
ただアマチュアレベルでは「投手で4番」という選手は存在した。特に日本の高校野球では数多く見られた。花巻東高の大谷翔平もその一人だった。
多くの選手は大学、プロに進むうちに「投打」いずれかに専念するのだが、大谷は日本ハム球団の提案もあって「投打二刀流」を選択。
2015年には最多勝、防御率1位、2016年には10勝を挙げるとともに22本塁打67打点、打率.322でMVPを受賞している。ただしNPB時代の大谷は規定投球回数は2度クリアしたが規定打席に到達したことはなかった。

TWPの誕生
2018年、エンゼルスに移籍後も大谷は投手、打者での出場を続け、この年は打者として22本塁打、61打点、打率.285、投手として10試合4勝2敗、新人王を獲得している。
翌2019年は右ひじのトミー・ジョン手術を受け全休、20年は投打ともに不振だったが21年、打者として46本塁打100打点、打率.257、投手としても9勝2敗で初めてMVPを獲得、翌2022年には、120年を超すMLBの歴史で初めて「規定打席」「規定投球回数」を同時にクリアした。2024年にはドジャースに移籍したが、23年から25年まで3年連続でMVPを受賞。
MLB機構は、大谷翔平の活躍を受けて「TWP(Two Way Player=二刀流選手)」の新たな登録枠を導入。「投手としてシーズン20イニング以上に登板」「打者でシーズン20試合以上に出場、または60打席以上」のの両方を満たした選手がいるチームは、13人の登録枠に「TWP」の選手一人を加えることができる。また2022年には「先発投手兼DHの場合、投手で降板後もDHとして打席に立てる」とルールを変更した。
これらは「大谷ルール」と言われるが、MLBとしては「大谷翔平だけのために設けたルール」ではない。
100年前にベーブ・ルースがさく越えのホームランを連発し、ホームランブームが巻き起こった時には、同時代にルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスなど本塁打を量産する強打者が多数出現した。
同様に、今回も大活躍する大谷翔平の後から、二刀流=TWPになる選手が続々誕生するという期待感があったのだが、数年たった今も大谷翔平だけが「TWP」だ。
これは大谷翔平という野球選手がいかに「破格」で、他に類を見ないかを物語っているといえよう。
