勝利至上主義、過熱…―「春夏の甲子園大会」が日本野球にもたらした「功と罪」―後編
広尾晃のBaseball Diversity:22
1945年の終戦によって、日本はアメリカ軍を中心とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理下に置かれた。
「甲子園」での再スタート
GHQは、日本を再興させるにあたって、戦前から人気があった「野球」を利用することを考えた。
終戦の翌年、1946年には職業野球(プロ野球)が再開される。また、中等学校野球大会もこの年に再開、甲子園はGHQに接収されていたためこの年は西宮球場で行われたが、翌年から甲子園の使用が許される。
甲子園を使用できるように働きかけたのは、選抜大会を主催する毎日新聞の本田親男大阪本社編集局長(のち社長)だったが、本田はGHQに「なぜ、全国大会が1年に2つもあるのだ?1回でいいじゃないか」と質問される。本田は「春の大会は、野球の強さだけでなく生徒の勉学や品行なども参考にして出場校を選抜している。夏とは主旨が違う」と説得し、了承された。これによって戦後の「春の大会」も「予選を持たない大会」となり「野球以外の徳目も重視する大会」という性格付けが明確になった。春の甲子園が「21世紀枠」を設けているのも、こうした経緯による。
また、戦前は甲子園大会の主催者は毎日新聞、朝日新聞と言う新聞社だったが、戦後、中等学校野球を統括するために、全国中等学校野球連盟が設立され学制改革とともに日本高等学校野球連盟(日本高野連)となる。また各都道府県にも高野連が設立される。戦後の高校野球は、日本高野連と各都道府県の高野連によって推進されることとなった。
「高校野球」の誕生
1947年から日本は「戦後の学制改革」が行われた。これまで甲子園大会は5年制の旧制中等学校、商工業学校、師範学校の生徒が出場する大会だったが、新学制により3年制の高等学校の生徒による大会になった。
戦前は、最大で春夏合わせて9回、甲子園に出場することが可能だったが、新学制以降は、春夏合わせて最大5回しか出場できなくなった。
新制高等学校が発足してから、高校の進学率は急上昇する。戦前の中等学校進学率は25%程度だったが、学制改革後の1950年には高校進学率は40%を超え、1960年には55%になる。これに伴い、高校野球を行う学校も急増した。
旧制中学校の大会だった1946年夏の甲子園は、地方大会出場校は745校、全国大会代表は19校だったが、1950年にはそれぞれ1365校、23代表となり、1960年には1864校、29代表と急速に拡大した。
戦前の中等学校野球は、あくまで「エリートのための大会」であり、一般庶民にはあまり縁のないものだったが、戦後は、高校進学率の高まりとともに「高校野球」は、日本国民がこぞって観戦する注目度の高い大会になった。
春夏の甲子園大会を主催する毎日新聞、朝日新聞は、甲子園大会を新聞部数拡大に大いに利用した。また、地方で行われる大会も各地の新聞社が主催、後援をした。
さらに新聞社の系列のテレビ、ラジオも甲子園大会について、連日放映し、高い視聴率を得るようになる。
アメリカのメディアは「ハイスクールの全国大会がこんなに人気があるなんて信じられない」と驚くが、1960年代には高校野球はプロ野球と並び、最も人気があるスポーツ大会となった。
高校球児のスター化と、過熱するスカウト
人気の高まりとともに、甲子園で活躍した選手の中には、プロ野球選手並みの人気を博する選手も出てくる。1957年春の甲子園の優勝投手となった早稲田実業の王貞治(のち巨人)、1958年夏の甲子園で奪三振の新記録を作った徳島商業の板東英二(のち中日)などが、初期のスター選手だった。
1969年夏の甲子園は北奥羽・青森県代表の三沢高と北四国・愛媛代表の松山商業の決勝となり、延長18回引き分け再試合を経て松山商が優勝したが、三沢のエースとして大会を一人で投げ抜いた太田幸司は、懸命の投球と甘いマスクで人気を博した。
太田はドラフト1位で近鉄バファローズに入団したが、キャンプ地にファンが押しかけ、1年目からオールスターファン投票で1位になるなど、アイドル的な人気者になった。
「甲子園で活躍した選手」が、プロ野球のスター選手並みの人気者になるようになったのだ。
一方で、高校野球の有望選手には早くからプロ野球のスカウトが注目した。1953年夏の甲子園で優勝した松山商業のエース、空谷泰(のちの児玉泰)は、在校中から複数の球団のスカウトが接近し、具体的な金額を提示するなど露骨なスカウト合戦が行われた。空谷は中日に入団したが日本高野連に報告がなかったとして、松山商業は1年間の出場停止処分となる。
こうしたプロ野球側の強引なアプローチがあった挙句に「プロアマ規定」が定められ、プロ野球側は高校球児に接近することが禁じられる。
そして1965年には「ドラフト制度」ができ、高校生などアマチュア選手のプロ野球入りに一定のルールができるようになった。
私学の台頭と金属バットの使用
戦後、高校野球が始まった当初は、地方の公立学校、特に商業高校、工業高校が強かったが、次第に私学が甲子園に出場するようになっていく。
私学は都道府県内だけでなく、全国から有望な中学球児を入学させ、全寮制で「24時間野球漬け」と言う環境の中、厳しい競争で選手を鍛え抜いた。部員数が3学年で100人を超えることも珍しくなくなった。
こうした「私学」の頂点が大阪のPL学園だ。1956年に初めて大阪の選手権大会に出場したPLは、1962年春に初めて甲子園に出場、1970年代には強豪ひしめく大阪でも圧倒的な存在となる。
1983年には桑田真澄(のち巨人)、清原和博(のち西武、巨人、オリックス)の「KKコンビ」が入学。83年と85年夏に全国制覇、2人が卒業後の1987年には春夏連覇を果たすなど、驚異的な強さを誇った。
PL学園の台頭と時を同じくして日本の高校野球では1974年から金属バットの使用が認められるようになる。試合や練習でしばしば折れる木製バットに代わって、コスト削減を目的として導入されたが、金属バットは、木製バットに比べてスイートスポット(安打になりやすい部分)が大きいうえに反発係数が高い。
これまで高校野球は「つなぐ野球=走者をバントなどで送って返す野球」が主流だったが、金属バットの導入で「バットを振り回す野球」の時代に入った。甲子園通算13本塁打の記録を持つPL学園の清原和博は「金属バットの申し子」でもあった。
「球数制限」「飛びすぎる金属バット」「酷暑問題」様々な問題が噴出
甲子園を頂点とする高校野球は、日本で最も人気のあるスポーツイベントとなった。
しかし近年、いろいろな問題点が明らかになっている。
まず「有望選手の酷使」の問題。一戦必勝のトーナメントの甲子園大会では、常にベストメンバーを組むことになる。とりわけ投手は短い登板間隔で多くの球数を投げることになる。1991年夏の甲子園では、沖縄水産の大野倫が一人で決勝までの6試合773球を投げ抜いたが、大会後、右ひじの疲労骨折が明らかになる。
この事故がきっかけとなって、春夏の大会では事前に整形外科医のメディカルチェックが科せられることになったが「投手の投げすぎによる肩ひじの障害」は以後も続出したため、2020年春の甲子園から「1週間500球以内」という「球数制限」が導入されるようになった。
また金属バットは近年「飛びすぎ」が問題視されるようになった。高校球児は大学、社会人、プロ、独立リーグでは木製バットを使用する。このために高校までとのギャップで上のレベルに適応できない選手が続出したため、2024年度から、設計を見直した「低反発の金属バット」が導入されるようになった。
さらに地球温暖化が進行する中、35度を超す炎天下での試合で、足がつるなど、熱中症の初期症状を訴える選手も続出。日本高野連は2023年夏の大会から「5回終了時に10分間のクーリングタイムをとる」ことを決めたが、元ヤンキース、巨人の松井秀喜氏から「二部制での開催」の提案があるなど、日程、会場の見直しの議論も起こりつつある。
日本高野連の公式サイトによると、高校の男子硬式野球部員は、2012年の170,312人をピークとして減少の一途をたどり、2023年には128,357人と25%近くも減少した。
スポーツ界が大きな変革を遂げつつある中、高校野球も時代に即応した形での変革が求められるところだ。