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元西武・髙木大成氏 セカンドキャリア充実が創り出す未来「野球が日本の発展に寄与する社会に」

かつて西武ライオンズの主力打者として1997年・98年の連覇に貢献した髙木大成氏。

05年に引退後は同球団の社員に転身し、今もライオンズを支えている。21年4月には著書「プロ野球チームの社員(ワニブックス刊)」を出版した。

同書には髙木の半生やライオンズとの歩み、野球界の未来への提言などが綴られている。

「レオのプリンス」と呼ばれファンに愛された男が球団の社員に転身後、どんな苦労があり、それを乗り越えてきたのか。後編では、最も苦労した業務を振り返るとともに、自身の描く未来について伺った。

(取材協力:株式会社西武ライオンズ 、文:白石怜平 ※以降敬称略)

毎日電話をかけ続けた法人営業時代

05年に球団の社員としてのキャリアをスタートさせた髙木は、約2年間のファンサービス部を経て、08年4月~11年2月までの約3年間は球団PRを担当。11年3月には法人営業に異動することになった。

球団の大きな収入源の1つには、年間指定席の企業向け販売や球場の看板やフェンスへ掲出する広告がある。ここでは、広告へ出資する企業を獲得することが髙木のミッションとなった。

以前までは、年間指定席の販売は西武グループ内の別企業に委託しており、さらに前に遡ると球場内の広告は外野中央のスコアボード周辺のみに掲出されてる程度でフェンスは”まっさら”であった。

当時ライオンズは球団独自で黒字化を継続できるよう構造改革の最中。委託していた年間指定席の販売を球団自身で行うよう見直し、かつ収益のチャンスを逃さぬためフェンスや看板の広告を積極的に導入していった。髙木はその一翼を担うことになった。

しかし、球団が独自で営業活動を行うのはほぼ初めて。現在は大企業から地元の自営業向けまで豊富なラインナップがあるが、当時は大企業に向けたもののみだった。

訪問リストもないため、通勤時に電車内外で目についた企業や使用した家電のメーカーなど手当たり次第に電話をかけた。

「ゼロからのスタートだったので、片っ端から電話営業をしていました。でも『プロ野球の球団?何?』という感じですよ。大企業になると代表番号だけで担当者につないでいただけないこともありましたし…」

法人営業が最も大変だったと語った(筆者撮影)

毎日電話をしては断られるを繰り返し苦戦を強いられる中、あることが思い浮かんだ。

「球場に来られるお客さまは、広く考えるとエンターテインメントが好き。これまでは”プロ野球が好きな人たち”と狭く見過ぎていたんです。エンタメという捉え方をして、セールスをしたら結果が出始めました」

こうして最初に獲得した新規の企業は映画配給会社だった。当時公開日が近かった映画を、球場に来られたお客さまに向けて宣伝するプランだった。

西武沿線にある映画館などを巻き込み、1試合分を使った大々的なプロモーションになった。

ただ、新規で1件獲得するまでは精神的に追い詰められる日々だったという。当時のエピソードを笑いながら振り返った。

「もう本当に辛かったんですよ。周りの営業マンが契約を獲ってきて営業部長に褒められてるわけですよ。でも私は営業先がないからデスクにいてそれを見ているんです。外に出ようにも出るところもないですから。

それに電話もデスクでやりづらいんですよ。だから球場の外周に行ったりして電話してましたね(笑)法人営業が一番辛かったです」

念願の新規契約を獲得し達成感を味わったのも束の間。この年の冬、新たなフィールドが髙木を呼んだ。

ホテル業界へコンバート、再びライオンズへ

11年12月、次はグループ企業のプリンスホテルへ移った。ただ、これは髙木にとっては”復帰”となる。

実は髙木の正式な所属先はプリンスホテルであり、球団へは出向という形で勤務していた。そのため、所属先に戻ったのだ。

プリンスホテルでの役割はホテルの”マネージャー”。トップの総支配人、支配人の配下に数人いるマネージャーのうちの一人という重要な役職だった。

そうは言えども、髙木はこれまで選手・球団の社員と”ライオンズ一筋”の道を歩んできた。形は変われど野球に携わってきただけに、ここで野球から完全に離れてホテルマンになることは想像だにしなかった。

また当時、プリンスホテルは厳しい経営環境に置かれていた。04年に西武鉄道が上場廃止となってからグループ全体が再編をしている最中で、施設の売却や閉鎖・人員の削減などを行っていた。

さらに時期は東日本大震災からまだ9ヶ月、世の中は自粛ムードが続き、パーティーや宿泊の需要も回復には至っていない状況でのアサインだった。

ホテルマン時代は”プレーイングマネージャー”として奮闘した

髙木もマネージャーという肩書きながら、実際は自らも部下の従業員とともに汗を流す日々だったという。

「マネージャーと言いながら完全に”プレーイング”マネージャーでした。でも私よりも部下の方がよく理解している。そんな中でやっていましたね。素直に部下に聞きながら1つ1つこなしていました。なにせわからないですから(笑)」

配属先は品川・高輪エリア。国内向けの宿泊企画と宣伝を担当し、インターネット向けの宿泊予約サイトの商品造成及びプロモーション、四季ごとの宿泊プランの企画を主に行った。

「ホテル業務には様々セクションがあります。宿泊・レストラン・ブライダル・営業管理系などたくさんあって、その中でもフロント担当や客室担当、調理担当もいます。私はマーケティング戦略で宿泊企画をやっていましたので、その各セクションの人たちと対等に話せないといけない。

特にマーケティング戦略の話というのは、各セクションの方にとっては通常業務にプラスαになるので負荷がかかる。さらに仕事が増えることをお願いしに行くわけですよ。そこは気を遣いながらやっていましたね」

全てが未知の領域。これまでと同様に、不明な点を周囲に聞いて解消しながら頭に叩き込んでいった。

ホテルマンを振り返った際も表情から相当な苦労が伺えた。「1日の時間は長かったですよ」と苦笑いを見せた。

「最後は各担当マネージャーとも対等に話ができるようになり、支配人クラスのミーティングとかでも企画書を提出するところまで行きました。でも、時間をかけましたね。夜0時5分の品川発に乗らないと終電に間に合わなかったので毎日のように駆け込んでました(笑)」

2017年にライオンズへ復帰し、現在に至る

ホテルマンとしては17年3月までの5年強。サラリーマンへ転身後最長のキャリアだった。

17年4月、髙木は再度出向という形でライオンズへ帰ってきた。約5年半ぶりに戻り、その変化に驚いたという。

「最初に従業員の数の多さに驚きました。私が離れた時より何倍にも増えていましたから。あと事業のスピード感がすごいなと。この頃にはある程度ライオンズ単体としての収支が強固になっていたので、球団として成熟し始めている頃でした」

復帰後はメディアライツ、いわゆる試合中継の映像を制作し各メディアへ放映権の販売及び選手や球団の肖像権を扱う担当に配属。部署名を変えながら現在もその役を担っている。

「元プロ野球選手」のプライドは持たず、何事も素直に

少年時代からプロ野球引退まで野球一筋。32歳という通常のサラリーマンとしては中堅に差し掛かろうという年齢で”新入社員”となった。

さらに9度の異動を経験し、いずれも未経験からスタート。常に壁にぶつかりながらも乗り越え、結果を出し続けてきた。その源は一体何か。答えに髙木の人間性が溢れていた。

「素直にやっていくしかないですね、カッコつけずに。どうしても私の場合は『プロ野球選手』と言うのが皆さんのイメージの中で先に来ますので、そこを感じさせないようにやっていく。余計なプライドは持たずに分からないことは”分からないです”と素直に聞いてやっています」

学生時代は、休みがないほどの猛練習で心技体を磨いてきた。アスリートの強みも今までの仕事にしっかりと盛り込まれている。謙遜しながらこう続けた。

「スポーツをやっていた経験もあると思うのですが、私は自分で壁にぶつかって体感することで理解できるタイプなんです。あとは野球の指導者も含めて、いい上司に恵まれたのが大きいです。上司じゃなくても例えば1つ上の方だったり、同僚だったりなどで参考になる方を見つけていくのは何かを習得する上では必要なことだと思います」

野球の母数拡大のために「セカンドキャリアを充実させる」

最後、髙木の今後の夢は何かを伺った。それは、日本の発展に繋がるスケールの大きい夢であった。

「想いとしてはスポーツ界の発展に貢献していきたいです。私の場合は野球ですが、アスリートのセカンドキャリアは今後も充実させるべきと考えています」

今はキャッチボールすらできない公園も増えている。野球人口が減り続けていることに危機感を抱いている。

「セカンドキャリアを充実させると、親御さんがお子さんに野球をさせてあげる可能性が増えると考えています。なぜかと言うと、選手を終えた後も仕事がある。そういった安心感を与えられるからです。

野球に限らずスポーツ選手って競技に一生懸命打ち込んできた半面、普通の会社員や仕事のことをあまり知る機会がないのかなと思います。その影響もあって途中で断念させてしまうケースもあります。引退後も安定した職業に就けることが分かれば、それがなくなると考えています」

セカンドキャリアの充実を通じ、競技人口を拡大させたいと考える

野球を断念する学生が減ることは、つまり野球人口の母数が増えることを意味する。髙木は国の発展という大きな観点から、重要性を捉えている。

「母数が増えれば、ポテンシャルのある選手が残る可能性が高まる。全体のレベルは上がっていくし、野球をやる環境を国として充実させることに繋がります。野球というスポーツがビジネスとしての日本の発展に寄与していくものだとしたら、環境をつくらざるを得ない。そう思っていただけるように貢献したいです」

謙虚さとトライ&エラーを重ねて、いかなる壁も乗り越えてきた。”西武ライオンズ・髙木大成”は今後どのフィールドへ行ってもまばゆい輝きを放つ。

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