生徒の目線に立って指導~箱根駅伝優勝メンバー中川拓郎さんの地元・下呂市への恩返し
三大名泉の一つ下呂温泉で知られる岐阜県下呂市。その南部に位置する市立金山中学校で教諭を務める中川拓郎さん。往年の箱根駅伝ファンの中にはその名前が記憶に残っている人もいるだろう。順天堂大の選手として3年連続箱根駅伝出場、4年時の2003年、2区区間4位ながら圧巻の15人抜き。当時の「ごぼう抜き」記録を更新した選手だ。2年時は3区を走り2年振りの総合優勝のメンバー、3年時は8区で区間賞。順天堂大卒業後は実業団のスズキ(現スズキアスリートクラブ)で活躍。その後中学校の教諭として指導者の道を歩んでいる。
箱根駅伝や実業団を経験した教員は珍しくない。全国高校駅伝の出場校にも実業団出身の指導者が多くいる。強豪・学法石川高(福島)の松田和宏監督(中央大→ダイエー→佐川急便)、秋田工業高の高橋正仁監督(駒澤大→コニカミノルタ)など、箱根駅伝優勝経験者も名を連ねるが、中学校となると珍しい。中川さんはなぜ中学校の教員を目指したのだろうか。
中学1年で中学校教員を目指す ~順天堂大進学も体育教師になるため~
中川さんは旧下呂町で生まれ育ち、下呂中学校に入学。入学と同時に陸上競技を始めた。1年時に中学校の教員になりたいと思ったという。
「中学の時は本当にいい思いができました。1年生の時から全国中学駅伝が始まり、強い先輩たちのおかげで1、2年生の時に出場できました。顧問の先生の元で陸上をやれて楽しかった。だから自分も中学校の教員になって生徒にそんな思いをさせたいと思いました。教員になる人ってそういう人が多いですよ。『高校時代が一番良かった』と思う人は高校の教員になっています」。
3年時は3000mで東海大会優勝。全日中や都道府県対抗駅伝にも出場した。当時は下呂市や高山市など飛騨地区の中学生が実績を残すと、他地区の強豪校に進学することが多かった。高山市出身の元1500m日本記録保持者・小林史和さんも中京商高(現中京・瑞浪市)に進学している。しかし中川さんは先輩たちと同じ地元の高校を選択。順天堂大出身の塚中一成先生が赴任し力を付けていた益田南高(現益田清風高)に進学した。
高校入学後は1年時こそ順調だったが、以降は故障などもあり伸び悩んだ。3年生となり、進路選択の時期を迎えたが、中学の教員になりたいという思いは変わらなかった。
「順天堂大に進学したのも教員になりたかったからです。他の大学から声がかかっていましたが、体育の教員免許が取れる順天堂大を希望しました」
インターハイに出られなかったこともあり、順天堂大からは声はかからなかった。そこで澤木啓祐監督(当時)が卒業生の結婚式で隣の中津川市に訪れた時に自分を売り込みに行ったという。
その後、力を発揮し始め全国高校選手権(8月)の10000mで入賞。その実績で順天堂大進学が決まった。1月の都道府県対抗男子駅伝では1区(当時5.0km)を区間5位で走り、全国区の走りを見せた。
一番苦しかった経験 箱根駅伝 優勝候補の重圧
大学入学後、2年時に3区を走って優勝メンバーとなった箱根駅伝。意外にもその時が競技人生で最も苦しかったという。その理由は偉業達成の重圧だった。
「出雲と全日本で優勝して、それまで一度しか達成されていない大学駅伝3冠がかかっていました。関東インカレ、日本インカレでも総合優勝しており、『大学5冠』がかかっていて、部内でも頻繁にその話題が出ていました。あんなに走りたいと思った箱根でしたが、走りたくないと思うほどの重圧でした」。
当時、出雲選抜大学駅伝と全日本大学駅伝、そして箱根の3冠を達成していたのは1990年の大東文化大、その1度だけだ。同じ岐阜県出身の実井謙二郎さん(中京商)が活躍した時代。もちろん関東インカレ・日本インカレも合わせた5冠を達成した大学はなかった。
当時クインテットと呼ばれた主力選手とは記録、実績とも大きな差があった。
「みんな故障して自分が残っただけ。10番目の選手だった」という立ち位置が重圧を大きくし、「10番目の自分が足を引っ張って優勝できなかったら人生が終わる」と考えてしまったという。
その悩みは陸上競技部内で話すことはできない。それを乗り越えるきっかけを作ったのは友人からのメールだったという。
「大学1年時は陸上競技部員以外の学生もいる寮に入っていました。その時できたサッカー部の友人からの前日に受け取ったメールがきっかけでした」。
箱根駅伝は毎年1月2日、3日に行われるが開催日を勘違いしたのか「どうせ箱根は走れなかったんだろう。そんなことは関係ないから、また遊ぼう」というメールをくれたという。
このメールで「箱根で失敗しても人生が終わることはない。陸上人生は終わるかもしれないけれど、これまで通りに接してくれる人がいる」と気持ちが楽になったという。
そうして迎えた箱根駅伝では3区区間6位。3位でタスキを受け取り、順位を2つ落としたが、先行していた駒澤大に一時は追い付く積極的なレースを展開。その走りは後続の選手を奮い立たせただろう。
メールを送ったのは昌平高サッカー部監督の藤島崇之さん。2020年はプロに進む選手を4人輩出し、高校サッカーの強豪として知られている。かつてピンチを救った友人も指導者としての道を歩んでいる。
実業団を経て、中学校の教員に
大学3年時にさらに力を付けたことで、実業団で力を試したいという思いが生まれ、スズキで競技を続けた。ニューイヤー駅伝(全日本実業団駅伝)に1年目から出場、当時のエース区間だった2区(22.0㎞)を任される選手だった。しかし教員になりたいという思いは変わらず、「最初から競技を終えたら教員になることを考えていた」という。「今考えると中途半端だった」とも。「お世話になった地元に帰って恩返しをしたい」という思いも強くなっていた。
実業団時代には選手として「地元への恩返し」ができた。ニューイヤー駅伝の予選となる中部実業団駅伝が下呂市で行われており、在籍5年のうち、3回優勝。2004年はアンカーを担当、優勝のゴールテープを切った。スズキの鈴木修会長(現相談役)は下呂市出身。中川さんの活躍は多くの関係者を喜ばせただろう。
教員1・2年目の苦労 ~箱根の経験があったから乗り越えられた~
中学校の教諭となった2009年、岐阜県北部に位置する飛騨市の古川中学校が最初の赴任地となった。人口3万人前後の市の市立中学校ながら、前年まで県中学駅伝7連覇の強豪だった。
生徒は学区内在住者に限られ、積雪も多い。その環境で7連覇は奇跡的だ。しかし箱根駅伝・実業団の経験者の赴任で8連覇への周囲の期待は高まった。偉業を期待される状況は大学2年時の箱根駅伝と同じだが、今度は偉業を達成できず、その翌年も大きな壁にぶつかった。
「7月に中体連の大会が終わり、8月から陸上部以外の生徒も集めて駅伝部を立ち上げました。しかし2週間も経たないうちに一人の生徒から『指導に付いていけない』という手紙を渡されました。この時は本当に悩み、練習に行きたくないと思いました」。
箱根駅伝の時と違ったのは他の教員に相談できたことだ。「そこまで無理してやらなくてもいいよ」と言ってくれた先生もいた。しかし箱根駅伝の苦しい経験を思い出し「ここを乗り越えて成長したい」と考えた。そして「この経験がなければ今の自分はありません」と言い切る。
「その後も生徒と衝突はありましたが、県駅伝で女子が優勝しました。前評判が圧倒的に高いチームに先行して逃げ切ったのですが、まさか勝てるとは思っていなかったです。全日本中学駅伝でも12位。その時の生徒は今でも同窓会を開いてくれます」。
文字に残る手紙で指導を否定されたのは堪えただろう。しかし中川さんは生徒のせいにすることなく、自分の問題だと受け止めた。陸上が好きで教員になったのだから、生徒にも陸上を楽しいと思ってもらいたい。そんな中川さんに生徒が意見を言えたから衝突も起きたのだろう。
「生徒の目線に合わせる」ことでうまく回り始めた
最初は苦しんだ中学生の指導。何を変えたのだろうか。
一番大切にしていることは「生徒の目線に合わせること」だという。
「指導に苦しんでいた時は『ああしろ、こうしろ』と正論を並べ立てていたと思います。でも自分で言ったことでも、自分ができないことに気付きました」。
「生徒も同じ人間。生徒の目線に立って指導し始めたことで、陸上競技だけでなく学級の指導もうまく回り始めました」。それは簡単なことではない。企業でも「部下や後輩の目線に立て」と言われるが、持っている知識や経験が違い簡単には同じ目線に立てない。箱根駅伝や実業団を経験した教員と中学生であればなおさらだ。
中川さんはこう続けた。
「生徒と同じことをしています。練習の前にグラウンドの掃除をしていますが、それも一緒にします。やってみると難しいことはたくさんありますし、生徒も『先生がやるから自分もできる』と言ってくれます。朝練習で一緒に走ることもありますが、疲れているときは辛い。長距離は辛い競技。体調が悪い日もあります。やってみると『なぜ朝練習に来ないのか』と簡単には言えなくなります」。
その取り組みは金山中でも男子の全国中学駅伝出場という形で実を結んだ。今年は長尾優汰選手(3年)が1500mで全日中に出場。自己記録を更新し、10000m27分台の記録を持つ浅岡満憲選手(古川中出身・日立物流)が持つ飛騨中学記録を塗り替えた。前任の竹原中で指導した東洋大3年の熊崎貴哉選手(高山西)も力をつけている。今期は全日本大学駅伝選考会に出場。全日本大学駅伝、箱根駅伝出場の可能性も十分ある。
しかし、中川さんはこう言う。「同じ努力をしても結果は人によって違う。卒業する生徒に『3年間続けてよかった』『仲間と一緒にがんばれてよかった』と言ってもらえるのが一番嬉しい」。
そんな中川さんの人柄で地元の人たちが助けてくれる。高校の先輩が普段の練習をサポートしてくれる。教員を目指すきっかけとなった中学時代の恩師は学校の枠を超えて一緒に指導する。
指導者として歩んだ時間は、選手として走り続けた時間を超えた。これからも指導者としての歩みは続く。そして生徒の中から指導者の道を歩む人も出てくるだろうか。地元・下呂市への恩返しはこれからも続く。