巽豊(アサヒ飲料クラブチャレンジャーズ)、「キャプテンと教員」の二刀流で走り抜けた日々
突然の現役引退だった。
「台風の目になりたい」と昨年12月27日の神戸新聞にはキャプテンとしてのコメントが掲載されていた。今季からX1SUPER(1部)で戦うチームにとって、巽豊(たつみゆたか)は欠かせない男と思われていた。
~チームのX1SUPER昇格と引退の決断
「開幕前にはシーズン全勝を目標に掲げ、できなければ現役引退を考えていました。来年があると思ったら取り組みが甘くなると思っていました」
昨年10月24日、チームは最終節を待たずX1SUPER昇格を決めた。シーズン無傷の5連勝だった。しかし続く最終節11月21日のアサヒビールシルバースター戦に「28-38」と完敗、全勝はならなかった。同試合はグループ企業チーム同士の直接対決、日本アメフトの聖地と言われる富士通スタジアム川崎で開催されたビッグゲームだった。
「最終戦は甘さが出ました。心のどこかで『勝てるだろう』という慢心があったんだと思います。浮き足だったミスが多かったところにそれが現れています。ゲームへのチームの持っていき方という点で完全に自分の責任です。ただ視点を変えると、X1SUPERで勝つために自分たちに足りない部分が見えた試合でした」
昨年の個人成績は5試合出場で35回のラン、175ヤード獲得、1タッチダウン。前年20年が3試合出場で36回のラン、216ヤード獲得、2タッチダウン。決して悪い成績ではないのだが巽本人は納得しなかった。
「20代後半になってからは『いかに次の世代につなげるか?』ということも考えていました。実際、若手選手も伸びてきており自分が身を引くならこのタイミングだと感じました。RBは1人しかフィールドに立てないポジションです。成長するには試合での経験が特に必要。『貴重な1プレーを自分ではなく若手選手が経験しそれを糧に成長して欲しい』と考えました」
~大学から始めたアメフトに魅了された日々
大阪堺市出身、府立鳳高校時代はサッカー選手だった。夏のインターハイ予選敗退で部活を引退、受験勉強に勤しんだ。教員を志し大阪教育大へ進学、新しいことをやろうと思いアメフトを始めた。
「普通の高校だったのでサッカーは一区切りついた感じでした。アメフトを始めた時には先のことまで考えませんでした。チームが関西2部で当時は目先の試合に勝つことだけを考えていました。教員になるつもりだったので、こんなに長く選手をやるとは思わなかったです」
大学卒業後に入団したチャレンジャーズは90年代後半から00年代にかけてが黄金期だった。98,99年と2年連続ウエストディビジョン全勝優勝、00年ライスボウル制覇(日本一)、01年も社会人制覇するなど強豪として知られていた。しかしその後は低迷期に突入、巽が加わった14年はチームが苦しんでいた時期だった。
「社会人になっても続けたのはアメフトが好きだったからです。大学は強豪校ではなかったので、もう少し自分の力を試してみたい気持ちもありました。あとは教員だけの人生だと自分の世界が狭くなる心配もありました。クラブに入ることで色々な人と出会えて人間としての幅も広がると思いました」
「チャレンジャーズには大学時代にアメフトエリートだった選手も多くいます。そんな中に国立大学の2部チームから入りましたが不安などありませんでした。教員という仕事もある中でケガの心配もありますが、若かったから怖いもの知らずだったかもしれません。試合に出るためかなり追い込んだし手応えもありました」
18年にリーグ再編が行われチャレンジャーズはX1AREA(2部)へ振り分けられた。19年はレギュラーシーズン全勝優勝するも優勝決定戦で敗退、昇格戦に進めない屈辱を味わった。コロナ禍も重なり難しい時期だったが我慢を重ねた戦いの末、昨シーズンのX1SUPER昇格を果たした。
「昇格が決まり素直に嬉しいと感じている自分がいました。何よりも才能あるこれからの選手たちに、強豪チームとの戦いを経験させられることが決まったのが嬉しかったです。自分にとって『最低限の仕事はできたのかな』と感じました」
~日本アメフト界の変化を体験した
巽の在籍時は日本アメフト界の大きな転換期と重なった。外国人選手獲得など積極的チーム強化を行うチームが増えチーム間での実力差が出始めた。その後日本経済が低迷するとアメフトのサポートから撤退する企業も目立つようになった。勢力図は大きく変化、チャレンジャーズはその渦中にいた。
「日本アメフト界は変化したと思います。クラブに入った時は外国人選手がいるチームも珍しかった。実力ある選手がどんどん入ってきて別の競技のように感じた時もありました。昨今は大学時代までに培ったもので勝負できるものではなくなっています」
激動の時代にチームに加わった。現役最後はキャプテンとしてチームの昇格に全力を注いだ。フィールドを離れると、時には児童の人生を左右する教員の仕事が待っている。『二刀流』『二足のわらじ』と言葉では簡単だが、物理的、精神的な負担は想像できないほど大きかったはずだ。
「教員の仕事とアメフト選手をバランス良くやれていたとは思います。平日は業務の効率化を図りトレーニング時間を作りました。週末のアメフトが楽しみだったので教員の仕事に集中できたのもあります」
「それでもシーズン中、特にゲームがある時はどうしても気持ちが高まっていました。その辺の気持ちが今年はどういう気持ちになるのかは今は想像がつきません」
「チームに指示をする時などは、その瞬間に自分が思っていることを自分の言葉で伝えることを心掛けました。要点だけは大まかに絞っておきますが、その上で実際に見て感じたことを話しました。小学校で子供たちに話をする時も同じです。もちろん言い方や口調は小学校よりチームの方が激しくなります。選手のテンションを上げないといけないですから」
~X1SUPERでの戦いと本拠地・尼崎市
平日は教員、土日はアメフトという生活も8年が経過した。昇格という最大ミッションを達成したが今後はアメフト選手という肩書きが外れる。フィールド外から初めて見ることになるシーズン、前キャプテンはチームをどう見ているのだろうか。また本拠地化を進めている兵庫県尼崎市との関係をどう考えているのだろうか。
「今季のチームはできれば競合チームの一角を崩してX1SUPERの均衡を崩して欲しいです。現時点ではトップ4に残るような強豪チームとのレベル差はあります。でもトーナメントは何があるかわからないから可能性はゼロではない。チーム、個人の取り組み方次第です」
「尼崎市とは少しずつ距離を縮めたいです。やはり関西といえば(野球)阪神が有名です。僕自身も子供の頃からスポーツといえば阪神だと思っていました。それでも関西地方はアメフトに対する興味はゼロではない。意外と人気があると感じることも多いです。盛り上がる可能性は秘めています」
「時間はかかりますが認知してもらうしかない。チーム側ももっと本拠地だと感じて大事にしないといけない。クラブチームなので『どこまで本拠地に寄るか?』という問題もあります。でも1人のアスリートとして大事にするのは当然です。尼崎にプライオリティを置かないといけない」
チームの現在位置、本拠地・尼崎市との未来図などを冷静かつ客観的に捉えている。チャレンジャーズが1つになり同じ方向へ進むにあたり巽の存在が大きかったのが伝わってくる。X1SUPER昇格という結果が何より証明している。
「チャレンジャーズは名前の通り、自分が成長できる挑戦できる場所でした。自分の中で大きなものでした。アメフトは自分の成長を測るため、実感するための手段、側面でした。冷めた言い方に聞こえるかもしれないですが僕はそうでした。自己表現、自己実現の場所でもありました」
「チャレンジャーズ、アメフトとは?」
現役引退した今だからこそ振り返ってもらった。
巽の選手人生には一区切りがついた。しかしチームは日本アメフト界のトップを目指す戦いに挑み続ける。そして、いつの日か教員として接した子たちの中からチャレンジャーズ選手が生まれるかもしれない。
キャプテンのスピリットはチームと共に生き続ける。21年シーズンの記憶は決して色褪せない。
(取材/文・山岡則夫、取材/写真協力・アサヒ飲料クラブチャレンジャーズ)