伝説的スピードスケーター・岡崎朋美「明るさと積極性を忘れず、新たなことに挑戦したい」
岡崎朋美氏はスピードスケートで5大会連続の五輪出場を果たし、1998年の長野では銅メダルを獲得したレジェンドだ。
現在は競技の枠を超え、「やりたいこと」を1つずつ形にしている真っ最中。これから先について何を思い描いているのかを聞いた。
「こんにちは」
明るい挨拶と爽やかな笑顔は現役時代と変わらない。岡崎氏は2013年に現役引退してから、様々な分野で意欲的な活動を行っている。
「今は講演活動が多いです。アスリートとして過ごしてきた中での人生観みたいなことを語って欲しいようです。だから新入社員やビジネスマン向けの講演会が多いかもしれません」
岡崎氏は1994年リレハンメル、98年長野、2002年ソルトレイクシティ、06年トリノ、10年バンクーバーと合計5度の出場を果たした。これは冬季五輪における日本女子最多出場記録となる。長野では500Mで銅メダルを獲得、バンクーバーでは日本選手団の騎手も任された。
「競技を超えて多くのアスリートの方々と知り合うことができたのが財産です。そういった方々と一緒に皆さんと触れ合うイベントを行うこともできています」
~企業所属は守ってもらえるので競技に集中できる
常に穏やかで腰が低く、驕ったような部分を全く感じさせない。「高卒で富士急行へ入社して社会人選手として過ごした経験もあるのではないか」と振り返る。
「富士急行時代は企業所属のイチ社会人でした。仕事もしていましたし、当然ながら常識も求められました。高卒で社会人になり戸惑いもありましたが、大人の世界は勉強になると思っていました」
「富士急ハイランド内のスケートセンターで管理業務を任され、スケート靴の貸し出し係もやりました。社業もしっかりやって会社の戦力になることを考えていました」
「企業所属選手だったことは自分にとってプラスしかなかった」と振り返る。
「企業所属は縛りもあるように感じますが、守られている部分も多い。プロとしてフリーの立場でしっかり活動できれば良いですが、本当に難しいことです。ここは自分自身の捉え方次第だと思います」
「富士急行にいたからこそ岡崎朋美があると思えます。本当に良くしてくれて充実した時間を過ごせた。スケートもあって仕事量は少ないのに、いつも熱心に応援してくれました。感謝しかありません」
2015年の同社退職時には宣伝部次長になっていた。スケートでの知名度もあるだろうが、それ以上に前向きに業務へ取り組んでいたからだろう。
~状況が揃っていたら現役を続けていた
トップアスリートの現役引退についても聞いた。30年以上に渡り氷上を滑り続けてきた中、スケート靴を脱ぐ決断は人生を大きく左右するものだったはずだ。
「五輪出場レベルの選手になれたのは、社会人になってからです。長野五輪が27歳の時だったので、結婚や出産を考えると現役はそこまで長くないと感じていました」
北海道・釧路星園高時代はインターハイ4位が最高成績だった。高校卒業後に入社した富士急行で素質が開花、20代になって日本を代表するスケーターとなった。
「海外の選手は母親になってからも競技を継続していましたが、それは周囲のサポート環境が整っているからだと思います。当時の日本は環境がそこまで整っていなかった。結婚、出産してからは、常に時間との戦いだと思っていました」
2007年に結婚、2010年に第一子を出産後も現役を続けたが、当時の国内環境的にも第一線を退くことを考えるのは自然な流れだった。
「子育て支援等が一般的になってきたのも比較的、最近で羨ましい。トップレベルで戦うには思った以上に練習をしないといけないが、現実的に難しい時代でした。大事な家族がいて自分のことだけでは生きていけませんから」
2013年の年末におこなわれた翌14年ソチ五輪代表選考会で結果が出せず、現役引退を表明した。
~年齢ごとのカテゴリーで世界記録を出したい
第一線を退いた岡崎氏だったが、2020年3月に出場した第12回マスターズ国際スプリントゲームズ(カナダ)で快挙を成し遂げる。F45(45歳以上50歳未満)カテゴリーの500M・スプリントサマリー(4種目総合ポイント)で世界新を記録して金メダルを獲得した。
「マスターズは愛好者も多く、楽しんで競技を行う人が多い。でも私は『世界記録を出したい!!』という気持ちが強かった。現役時代に世界2位までは行ったことがあったので、チャンスがあればその先を目指したかった」
長野五輪前には当時世界2位の記録を出したこともある。その際はいわゆるノーマルのスケート靴だったが、直後に歯がカカト部分から離れて記録に直結しやすいスラップスケートが導入され世界記録への道のりも遠ざかってしまったという。
「マスターズに向け富士急行の若い選手たちについて短期集中で追い込みました。現役時代のイメージはあっても身体はついてこなかったのですが、本気で世界記録を目指しました。自分なりに本当に充実した時間を過ごせました」
カテゴリーの異なるマスターズとはいえ念願の世界記録を樹立した。「昔の気持ちを思い出しました。今後、年齢を重ねてもそれぞれのカテゴリーで世界新記録を目指したいです」と充実した表情を見せる。
~アマチュアや学生を積極的に応援したい
現役時代は海外にファンクラブも結成されるなど、知名度は絶大だ。国内でも「政治家転身」を打診されるなど、各方面から引くて数多だ。
「(政治家は)私には無理だし向いていないと思っていました。何よりスケートが好きで滑っていたかったので、お断りしたこともあります」
現在は時間的な余裕も多少でき始めたという。今後のセカンドキャリアについてどう考えているのだろうか。
「立派なことはできないと思いますけど、健康第一でスポーツと皆さんの架け橋のような存在になりたい。そのためにもメディア系での発信も続けたいです。スピードスケートが五輪の時だけでなく、少しでも良いので常に話題になっていて欲しいです」
「アマチュアや学生も積極的に応援したいです。私自身は企業に支えられ素晴らしい現役を全うできましたが、全国には素晴らしい素材、やる気がある方が多いはずです。そういった方々が現役を長く続けていけるようになって欲しいです」
最近はテレビやラジオに登場して発言する機会も少しずつ増えつつある。
「視聴者や聴取者の方が疑問に思っていることを伝えられれば良いですね。バラエティでは求められるものが異なりますので、その辺は空気を読んで対応できるようになりたい。視野を広げて、自分の思いを言葉でしっかり伝えられるようになりたいです」
先日は知人を通じて群馬県の中学校で講演活動も行った。生徒と触れ合う時間も多く、「素直な子が多くて、まだまだ捨てたもんじゃないと思った」と笑う。
「今の子供たちの考え方にもっと触れたいです。今の良さ、昔の良さの両方があるはずです。現代の子たちも迷いはたくさんあるはず。それらをミックスできれば、全てに対してプラスになるはずだと思います」
前向きで積極的な姿勢はスポーツ界のみに限らず、社会全体に好循環を及ぼすように感じる。
「『もっと色々なところに出て欲しい』と言ってくださる方がいるのは嬉しいです。『昔と変わらないね』と言ってもらえるよう、自分自身を磨いて常に前向きに生きたいです」
なかなか明るい話題が見つかりにくいご時世だからこそ、岡崎氏への需要が高まりつつあるのかもしれない。今後も様々な分野で周囲を明るく爽やかな気分にさせてくれるはずだ。
(取材/文・山岡則夫、取材協力/写真提供・岡崎朋美氏)