大学駅伝区間賞6回・揖斐祐治監督が地元・岐阜で模索する強化と教育の両立

出雲駅伝(10月10日 出雲大社~出雲ドーム)、全日本大学駅伝(11月6日 熱田神宮~伊勢神宮)は駒澤大が圧勝、箱根駅伝で学生駅伝三冠を目指す。

駒澤大が学生駅伝の強豪に成長したきっかけは1995年、現在監督を務める大八木弘明氏のコーチ就任。2年後の1997年に出雲駅伝で初優勝すると、翌年に全日本大学駅伝、そしてその翌シーズンの2000年に箱根駅伝で制し、誰もが強豪校と認める存在になった。

この成長期に活躍した選手の複数が指導者となっている。全日本大学駅伝ではその中の2人が監督として選手の走りを見守った。一人は2位國學院大学の前田康弘監督。もう一人はオープン参加した東海学連選抜チームの揖斐祐治監督。岐阜協立大学で指導する揖斐監督はなぜ大学の指導者を志したのだろか。その背景と想いに迫る。

揖斐監督(右側から2番目)は大八木コーチ(当時・写真中央)の就任で強豪になった駒澤大学出身

恩師・平澤先生との出会いをきっかけに成長

可児中部中に入学すると同時に陸上競技を始めた。きっかけの一つが小学6年生時、1991年の東京世界陸上。マラソンで谷口浩美さんが金メダルを獲得、世界を舞台に活躍する姿が少年の心を動かした。

3年時には県トップクラスの選手に成長。全日本中学選手権にも出場し、県内の強豪校から勧誘があった。その中でも中京商高(現中京)が圧倒的な存在感を持っていた。県高校駅伝21年連覇、全国高校駅伝2連覇の実績を持ち、五輪代表や日本記録保持者を輩出した名門。しかし、揖斐監督は当時力をつけ始めていた土岐商高を選んだ。

きっかけは中学校の行事として行われた高校見学。土岐商高を訪問した際に当時の顧問・平澤元章氏の話を聞いた。「今では当たり前ですが、血液検査の結果から体調を把握するなど科学的な手法を取り入れていました」という。その話がきっかけで「平澤先生の元でやりたい」と決断した。

揖斐監督は中学生のとき陸上を始め、県トップクラスの選手に成長した

土岐商高入学後、平澤氏の指導の下で急成長。メンタルトレーニングも導入し、1年時の秋、国体少年B3000m(中3・高1が出場)で4位。世代トップクラスに仲間入りした。

2年時も成長を続けた。10000mで29分台に突入。揖斐監督以外にも走力のある選手を揃え、県高校駅伝では中京商高の23連覇を阻止、全国高校駅伝初出場を決めた。全国高校駅伝ではエース区間の1区(10km)で日本人トップ、区間2位の快走だった。その時のチームの様子を揖斐監督はこう振り返る。

「平澤先生が関東の強豪校に行ってスプリントドリル(短距離走の選手が行う動き作りのトレーニング)を学んできて、そのドリルを長距離選手用にアレンジし取り入れました。その結果、効率の良い無駄が無いランニングフォームが身につきその年の夏合宿では故障者が出なかった。私自身も走り方をストライド走法からピッチ走法に変えて、浜松の記録会で10000m29分台が出せました。チーム全体で『いける』という雰囲気になりました」

3年時にはさらなる進化を見せる。当時はまだ珍しかった5000m13分台に突入。10000mでは現在も岐阜県高校記録として残る29分08秒2。全国高校駅伝では2年連続1区日本人トップの区間2位。チームは3位入賞し、出場2回目の公立高校が快挙を達成した。

覚悟を持って駒澤大学へ進学、三大駅伝区間賞獲得率5割の活躍

超高校級の活躍をした揖斐監督には様々な選択肢があった。実業団も考えたが、指導者になりたいという思いもあり、大学進学を志望。最終的に駒澤大学を選んだ。

「平澤先生に相談する中で『今、駒澤大学は勢いがある』と勧められました。練習も生活も厳しいことはわかっていましたが、その方が私には合っていると思って決めました。平澤先生は大八木さんと接点がなかったはずですが、私に合う大学を見つけるために、いろいろなところを調べてくださったのだと思います」と振り返る。

全日本大学駅伝で力走する揖斐監督

駒澤大学に入学した1998年、1年時から選手となった。三大駅伝全て4年連続出場、6回区間賞を獲得した。箱根駅伝は順天堂大との優勝争いで優勝2回。両校のユニフォームの色から「紫紺対決」と言われた時代だ。

揖斐監督は4年間三大駅伝全て出場し区間賞6回、優勝回6回の成績を収めた

実業団に進むも故障で競技を引退、大学の指導者に

卒業後はエスビー食品で競技を続けた。入社後にチームはマラソンなどの個人競技強化に方針転換。駅伝で活躍する姿を見る機会は減ったが、クロスカントリーで日本代表に選出されるなど活躍した。しかしマラソンに挑戦することはなかった。

「もちろんマラソンを走りたかったのですが、最後は故障が原因で引退しました。左足の付け根に力が入らなくなる症状です。病院を回ったり、同じ症状が出ている選手にも聞いたりしましたが、最後まで原因がわかりませんでした」

揖斐監督(右から二番目)は多くの五輪代表を輩出したヱスビー食品に所属した

引退時に大学の指導者になることを決めていた。「左足の症状は大学の時から出ていました。体のケアにも気を付けても練習量を増やすと症状が出ました。私自身が故障に苦しんだし、故障が原因で退部した同期もいた。そういった苦しむ選手を減らしたいと思い、大学の指導者になりました」と語る。自分自身や仲間の辛い経験が指導者になる原動力となった。

高校時代に師事した平澤氏に引退の挨拶をし、今後のことを伝えると「最初は私のところで勉強してみないか」と温かい声をかけられた。平澤氏が監督を務める麗澤大学で指導者としてのキャリアをスタートさせた。

大学院へ進学、そして女子の指導者を経て地元に戻る

揖斐監督は現場での指導の傍ら、大学院で運動生理学やバイオメカニクスからランニングフォームの分析などを学んだ。「自分の経験ではなく、理論に基づいた指導をしたい」と考えていたからだ。もちろん平澤氏の影響は大きかっただろう。その平澤氏に勧められた東亜大学大学院に進学。それが縁で東亜大学の女子を指導、3年連続で全日本大学女子駅伝に出場した。

地元の岐阜県に戻ってきたのは2012年。岐阜経済大学(現岐阜協立大学)が駅伝強化に乗り出し、揖斐監督に声がかかった。

「話をいただいたときには東亜大学で指導していたので迷いましたが、最後は岐阜県で指導したいと思い決めました。平澤先生はもちろんですが、都道府県駅伝や国体を通じて岐阜県の先生方に育てていただいたので」と振り返る。

「5000m14分台の高校生の9割が(箱根駅伝出場資格を持つ)関東の大学に進学します。関東に行かないなら関西」。そして就任当時の岐阜県は「15分台だと進学の選択肢が少なく競技を続けたくてもその場所が無かった」と言う。揖斐監督は「持ちタイムは無くてもセンスの良い高校生が多く熱心な指導者から基礎をしっかり教えられていたので、地元で競技を続けられないか」と考えた。

初年度から勧誘の際には「実績がなくても練習や生活の態度が良い真面目な選手」に声をかけているという。だが実績がない真面目な選手を勧誘するのは簡単ではない。中途半端な環境で成長できずに終わるくらいなら高校で競技を終えた方が良いと考える指導者、選手も多い。『ここなら伸びる』と信頼されることが必要だ。

だが、それをやってのける。強化2年目、最初に勧誘した選手が1年生の2013年、いきなり全日本大学駅伝出場を果たした。選考会は6月。入学後の取り組みだけではこの結果は残せない。高校最後の大会が終わってから入学するまで練習を継続してきたのだろう。揖斐監督を信頼し『真面目な選手』が来てくれた何よりの証だ。

全員が「主役」 ~競技も教育も重視し、ジュニア育成を融合した取り組みも

揖斐監督は「競技50%、教育50%」と言う。そして、こう続けた。

「選手を勧誘するときにも競技100%ではないと伝えています。学業や部の運営の仕事もしっかりやってもらいます。就任したときは『経済大学』と名がつく大学でした。大学の建学の精神にある『地域に有為の人材を養成することを目的とする』の通り、社会に出たら職場で社会人として即戦力になってもらいたいと考えていました。部の仕事は自分がやって終わりではない。上級生には『後輩に教えて、それができたことを確認するところまでが自分の責任』と伝えています」と言う。強化だけ考えると選手は競技に専念し、運営に専念する部員が支えるのが良いのかもしれない。だが、揖斐監督は意思を持ってそうしていない。

きっかけは部員からの申し出だった。「創部当初は、部員から(運営に専任する)主務を選出する方向で考えていましたが、「部員達からは選手として部員全員が「主役」でありたいと強い申し出がありました」と振り返った。

「考え方は様々ですが」と前置きした上で、「部員数に限りがある現状をみると、部員全員が『主役』と言うのも一つの方法ではないかと思いました。主務の仕事を分担し各個人に役割を持たせ部員である事を自覚してもらい責任感を持ってもらった方が、人間性の成長を促し、社会人として通用する人間を目指せるのではないか」と思いを語る。

大学グラウンドで選手の走りを確認する揖斐監督

また大学生だけでなくジュニアの育成にも貢献したいという思いから、週1回アスリート育成クラブという活動も行っている。岐阜県の西濃地区を中心とした小中学生向けのスクールだ。

「走るだけでなく、スプリントドリルと電子ホイッスル音を組み合わせて体を動かすなど遊びの要素を入れた様々なトレーニングを取り入れています。今の子どもたちは我々の世代と違い、遊びの中で体の動かし方を覚える機会が減っています。こういったトレーニングで体の動かし方を覚えてもらいたいです」と語る。

生徒の中から都道府県対抗駅伝の選手が誕生するなど成果を上げている。またスクールにスタッフとして学生を参加させ、学びにもつなげている。

「大学に保健体育科の教員免許を取得できるカリキュラムもあるので、教員を目指す学生の学びにつなげています。また月謝をいただいて運営していますが、その運営状況に触れることも経営について学ぶ機会になっています」

強化と教育の両立を模索する揖斐監督。そのやりがいは人間的な成長だ。「競技で良い結果が出たときは嬉しいですよ、学生もそれを求めていますし」と前置きした上で「学生が人として成長したと感じる時が嬉しい。みんな3年生くらいになると顔つきや話し方など変わり始めますね」と語り、笑顔を見せた。

アスリート育成クラブでの練習風景(岐阜協立大学駅伝部提供)

引き継がれる指導者の思い

高校時代、そして指導者としてのスタート、大学院での学び。揖斐監督は平澤氏から多くの影響を受けた。そして、その平澤氏に大きな影響を与えた人物がいる。かつて世羅高(広島県)を全国王者に導いた新畑茂充氏だ。新畑氏は高校生の指導の現場で実績を上げた後、研究者の道に進む。1988年までは名古屋市立大学に教員として勤務していた。その時期に岐阜県の指導者たちが教えを請いに行ったという。平澤氏もその一人だ。

新畑氏が指導者、研究者として積み上げた経験や成果は多くの指導者に共有された。目先の結果を求めた無理なトレーニングではない、科学的なトレーニングを普及させたいという思いがあったのだろう。その思いは平澤氏へ、そして平澤氏から揖斐監督に引き継がれている。

揖斐監督の思いは指導する学生に伝わっていく。その中から競技の指導に携わる者も出てくるかもしれない。その思いは誰にどのように引き継がれるのだろうか。今後の揖斐監督の指導に注目したい。

(取材・文 坂下しん/取材協力 岐阜協立大学駅伝部)

関連記事