“東京五輪代表・鈴木亜由子の大学4年間” 支えた指導者の力に迫る(前編)

東京五輪女子マラソン代表・鈴木亜由子選手(日本郵政グループ)。女子マラソン・駅伝ファンならほとんどの人が知っているだろう。昨年9月15日に行われたMGCで2位となり、東京五輪マラソン代表となった。
4年前のリオ五輪でも5000m・10000m代表、世界選手権(2015年・2017年)でも代表を経験した。仙台で行われるクイーンズ駅伝(全日本実業団女子駅伝)でも2度の優勝、日本選手権やクイーンズ駅伝のポスターにも登場する日本女子長距離界の”顔”だ。

「陸上競技では無名の大学」で天才少女が復活~大学での戦績~

鈴木選手は名古屋大学出身だ。2019年名古屋大学陸上競技部は男子400mハードルで2名の全国王者を輩出した。国体優勝の小田将矢選手(現豊田自動織機)、日本学生個人選手権優勝の真野悠太郎選手(6年)だ。
しかし50年を超える部の歴史の中で全国大会個人優勝は4名。学生時代に世界大会代表になったのは鈴木選手のみ。陸上競技では無名の大学といってよいだろう。 その無名の大学で鈴木選手はユニバーシアード金メダルを始め、多くの実績を残した。以下、彼女の4年間の主な戦績をまとめてみた。

国内大会(5000m)

大会名2010年2011年2012年2013年
日本インカレ3位優勝優勝2位
日本選手権10位4位
国体6位2位2位

国際大会

2010年 世界ジュニア選手権 5000m5位
2012年 世界学生クロスカントリー選手権 7位
2013年 世界クロスカントリー選手権62位(日本人トップ)
2013年 ユニバーシアード10000m 優勝・5000m2位
2013年 千葉国際駅伝区間賞

中学時代は全日中で2年生時に800m・1500m2冠、3年時に1500m2連覇を達成して「天才少女」として注目された。しかしその後は順風満帆だったわけではない。地元豊橋市の進学校である時習館高校へ入学した後は故障に苦しんだ。手術を経験し、歩けない時期さえあったという。そのためインターハイの最高成績は3年時の3000m8位に留まっていた。

高校時代故障で苦しんだ彼女が「陸上競技では無名の大学」で見事に復活したわけだが、彼女は大学4年間をどのように過ごしたのだろうか。名古屋大学の監督として鈴木選手を指導した金尾洋治さんに当時について伺った。

▲鈴木選手の母校・名古屋大学には横断幕が設置されている(2019年12月撮影)

金尾氏との出会い~なぜ名古屋大学に進学したのか~

――本日はお忙しいところインタビューを受けてくださりありがとうございます。まず金尾さんについて聞かせてください。いつから名古屋大学の指導をしていたのでしょうか?

1983年、27歳のときから指導を始め、2013年まで指導していました。名古屋大学で研究生として運動生理学を研究していたとき、指導教官が陸上競技部の部長だったことがきっかけで長距離コーチに就任しました。

――駅伝の名門、世羅高校(広島県)出身、全国高校駅伝で優勝したそうですね。同じ世羅高校出身の青山学院大学・原晋監督とも面識はあるのですか?

はい。良い指導者と仲間に恵まれ2年生の時、当時の高校新記録で優勝できました。原さんは中京大学出身。彼の学生時代に私は名古屋大学で指導していたので、大会などでよく会話していました。

▲鈴木選手を4年間指導した金尾洋治氏、現在は東海学園大学で教授を務める。(筆者撮影)

――早速ですが鈴木選手について聞かせてください。鈴木選手に初めて会ったとき、どんな印象でしたか?どのような経緯で名古屋大学に入学したのですか?

最初は彼女が名古屋大学に来ることを想像もしていませんでした。同じ時習館高校の男子選手を勧誘したかったので、同校出身の部員に話す機会を作ってもらいました。その際に部員から彼女も勧誘しようと言われて、大会の時に男子選手と一緒に会いました。

「名大に来て欲しい、まずは練習を見に来て欲しい」と話しましたが、とても驚いていました。多分名古屋大学への進学は全く考えていなかったのだと思います。

なぜかはわかりませんが、興味を持ってくれて2回練習を見に来てくれました。「楽しそうに練習している」と言ってくれたのですが、そこが気に入って受験を決めてくれたのだと思います。
経済学部の推薦入試で入学したのですが、名古屋大学では数年に一度しか入学しないインターハイ入賞者が受験してくれるということで部員がいろいろサポートしてくれたようです。
部員が合格発表を見に行って私に知らせてくれたので、すぐに彼女に電話して伝えました。すごく喜んでくれたことを覚えています。

もちろん走りも見ました。故障で長期間練習を中断していたにも関わらず、躍動感のある走りで好タイムを出していました。「練習を継続できれば5000mで14分台が出せる、ロンドン五輪代表になれる」と思いました。

2020年9月現在、日本人女子選手で5000m14分台を達成したのは3名。それだけの記録を出せると高校時代の鈴木選手を見て感じていたのである。

ロンドン五輪を目指して~4年間での成長~

――鈴木選手は入学からわずか3カ月後、7月の世界ジュニア選手権で5位入賞の成果を残しています。いつから大学の練習に合流したのでしょうか?

4月の入学式前後だったと思います。1月の都道府県駅伝を走っていたし、(冬の寒い時期に)無理をして故障してもいけないから、特に連絡は取らず練習は本人に任せていました。入学直後は調子が上がらなかったので、追い込むような練習はしていなかったのだと思います。それでも7月にこの成績を残せたのだからロンドン五輪代表を目指せると確信しました。

――鈴木選手はどんな練習をしていたのでしょうか?鈴木選手ならではの工夫をしたのでしょうか?

特別な練習はしていませんが、男子と一緒に練習していました。入学直後は5000m15分30秒程度の選手と、4年生の時は14分50秒程度の選手と練習していました。週3回強度の高いポイント練習を行っていました。ごく普通の練習です。

ロード走はあまりしませんでした。その代わり大学周辺の未舗装路でクロスカントリー走をやっていました。

金尾氏はそう言って当時の練習メニューを見せてくれた。そこには1週間分の練習メニューが記載されており、男女全員分の設定タイムも記載されていた。金尾氏は年間を通じて選手一人一人の能力と体調に合わせた練習メニューを作成する非常に丁寧な指導をしていたことがわかった。

――高校の時には故障に苦しみました。大学では故障はなかったのでしょうか?

ありましたよ。練習を1カ月以上中断したこともあります。将来がある選手だから無理をさせないようにしていましたし、本人にもそう伝えていました。その結果、選手生命に関わるような大きな故障を回避できました。

しかし本人が故障を恐れて慎重になり過ぎていると感じた時は、背中を押す意味で厳しい言葉をかけたこともあります。

学業との両立、その秘訣

――名古屋大学では学業も大変だったと思います。両立の秘訣はなんでしょうか?

彼女は「経済学の勉強は楽しい」と話していました。そこだと思います。高校時代は学業に対して「大学受験」という明確な目標がありますが、大学ではそれがない。学業に対して自分でやりがいや目標を持つことがまず必要です。

練習についても配慮が必要と考えました。「レポート提出などもあって大変だろうから朝練習をせず、睡眠を優先した方が競技にプラスだ」と話しました。朝練習自体を否定はしないですが、無理に朝練習をしても疲労が蓄積してしまう。まずは睡眠をしっかり取って疲労を回復させることを優先しました。選手が頑張り過ぎないようにするのが指導者の最も重要な役割だと思っています。

2年生の冬だったと思いますが、「もう朝練習をしていいですか?」と聞かれたので「本練習に差し支えない練習ならいいよ」と言いました。おそらく自分なりの生活のペースができたのでしょう。

金尾氏の誘い、そして丁寧な指導が鈴木選手の飛躍を支えたことは間違いないだろう。もし自分で練習メニューを考えていたら無理をして故障したかもしれないし、慎重になり過ぎて結果が出せず思い悩んだかもしれない。「無理をさせない」と言うのは簡単だが、将来を考えれば十分な練習を積み、力を付けることも重要だ。鈴木選手はどのように力を付けていったのだろうか。中編では飛躍の理由、強さの秘密に迫る。

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