箱根駅伝で優勝に導いた名指導者 ~鈴鹿大学 女子駅伝チーム~ 前編
小野 圭久氏
突然だが、小野圭久氏をご存知だろうか。
箱根駅伝に興味がある方はご存知かもしれない。実業団では、ほぼ実績がないチームを数々の大会で優秀な成績を残すまでに育て上げた。
特筆すべきは2001年に亜細亜大学の陸上競技部の専任コーチに就任したことであろう。2006年の第82回箱根駅伝ではチームを総合初優勝に導いた実績がある。その後は監督も務めた。
そんな小野氏は今、何をしているのであろうか。
現在の小野氏は幼少期を過ごし、実業団での現役時代の活動拠点を置いていた三重県にある鈴鹿大学で、同大学の強化部に指定された女子駅伝チームの監督をしている。同時に大学教員として「スポーツマネジメント」や「チームビルディング」などの講義をしている。
駅伝に興味のある方は
「鈴鹿大学に女子駅伝チームはあったかな?」
と思われるだろう。
鈴鹿大学 女子駅伝チームは、平成最後の月となる2019年4月に産声を上げた全く新しいクラブである。部員はわずかに3名。
現在、小野氏は「陸上競技部部長 兼 女子駅伝チーム監督」、「大学教員として講義や論文作成」に加えて
・全国の高校へスカウト活動
・練習場所確保のために、大学近くの高校にグラウンドの使用交渉や許可取り
・クラブの予算管理や資金調達
・県外部員や留学生の下宿先の交渉や手配
など教員や監督だけでなく「スカウト」、「交渉役」、「クラブの会計役」に加えて「選手の親代わり」と1人で6役も行っている状況である。
練習を見学している最中に
「(鈴鹿大学の教員になって) 本当は駅伝の指導は辞めようと思いましたけどね・・」
「もう50歳を超えると、体が言うことを聞かないですよ。」
と笑みを浮かべながら語っていた。
なぜ「辞めよう」と思いながらも大学の依頼に、あえて多忙となる道を選び、もう一度立ち上がったのか?そんな小野氏を今回スポチュニティ(*1)が取材を行い内に秘める想いをインタビューした。
*1
スポチュニティとはクラブチームや所属選手の“夢”に共感・感動した支援者を
募集するプラットフォーム
https://www.spportunity.com/
鈴鹿大学 女子駅伝部の支援プロジェクト
https://www.spportunity.com/mie/team/316/detail/
鈴鹿大学 女子駅伝チーム
左下から加藤選手(キャプテン)、遠藤選手、左上ムネネ選手、小野監督
たくさんの悔しさ、苦難続きのキャリア
――小野監督の今までのキャリアを教えてください。――
小野監督
生まれは三重県で大阪、京都と転校して、中学2年の時に陸上を始めました。陸上に励んでいくうちに、京都の名門校である「洛南高校」に憧れて入学しました。1年生の時は陸上部内でもビリ欠でした。練習を重ねて3年生の時に1500、5000mの京都府記録を樹立しました。全国高校総体や全国高校駅伝にも出場しました。
体育教師になりたくて順天堂大学に進学し陸上部に所属しました。しかし、大会に出ることも箱根を走ることもできず悔しかったです。
そこで悔しさを晴らしたいために
「実業団に行きたい」
と思い監督に相談しました。薦められたのが当時のNTT三重殿でした。
――社会人以降はどうでしたか?――
小野監督
NTT三重殿では、実業団ではなく非公認の同好会でした。公式クラブに認められるために、自分が週末に大会に出場して結果を出しました。2年かけてようやく認めてもらいました。
しかし、公式クラブになってから、体を壊して1年休養しました。私は心身ともに限界で苦しく退社しました。
――退社された後はどうなされたのですか?――
小野監督
公式クラブとして立ち上がったばかりの八千代工業殿からお誘いがありプレーイングコーチを2年やりました。そして31歳から監督をしました。
選手集めに苦労しましたが、他企業で戦力外を受けた選手や大学を中退した選手をスカウトしました。スカウトした選手が活躍して日本選手権での優勝など、大会でもいい結果も出始めた矢先に、社会全体が平成不況に陥って、会社の経営が苦しくなりました。
陸上どころではなくなり、私は解任されました。
――企業の論理としては理解できますが・・・――
小野監督
選手のセカンドキャリアも支援したかった想いもあり、
「陸上競技の成績も業務成績に入れてほしい」
とお願いしましたが、会社も苦しかったため受け入れられませんでした。
今なら理解はできますが、当時は若かったため理解できませんでした。そして亜細亜大学からお話を頂きました。
――2001年に亜細亜大学のコーチに就任されて5年後には箱根駅伝で優勝を成し遂げられました――
小野監督
2001年に5年ぶりに予選会を通過し、2002年の本選ではシード権を獲得しました。
それから9年連続箱根駅伝出場し、2006年には総合初優勝をすることもできました。
――2008年からは岡田監督を引き継いで監督になられました。――
小野監督
実は陸上部が活躍し始めると、多くの方と折衝と交渉をしなくてはなりませんでした。岡田監督も勇退されて私が監督を引き継ぎました。右腕となるコーチもおらず、折衝や交渉が増えてなかなか上手くいきませんでした。
その結果チームの成績も下降線を辿ったため、私は監督を辞任しました。それからハローワークに通い職探しをしました。
――指導者の道を外れたのですか・・・・。――
小野監督
「もう陸上はいいか」
と思い陸上と離れた仕事をしていました。それから約5年後に麗澤大学殿から話がありました。
「箱根駅伝に出てほしい」
という依頼を引き受けました。大学からの支援を頂きながら 指導していきました。
人生を振り返り進学の決意 ~学生に伝えたい~
選手1人1人に指導する小野監督
――(麗澤大学就任と)同時期にプロフィールには母校である順天堂大学 修士課程とありますが――
小野監督
自分の人生も振り返り立て直そうと思いました。
――現職である教員の準備もなされていたのでしょうか。――
小野監督
そうですね。予てから本来あるべき大学スポーツがないような気がしていました。大学も生き残りで競争が激しくなっている環境は理解します。
しかし、大学スポーツはただ結果を出してブランド力を上げる。そして学生募集のために貢献するだけでなく、
「スポーツを通して、学生をどう育成をするべきか?」
というあるべき姿がなくなっていると感じました。
――箱根駅伝の過熱ぶりから予選会も注目され始めました――
小野監督
予選会に出るだけでテレビや新聞に注目されます。しかし、知名度が上がる現実に葛藤してしまいました。
だからこそ、自分の今までのキャリアを活かして
「選手だけでなく、学生に伝えることで、いい影響を与えることはできないか」
と考え教員を目指し進学を決意しました。
――大学院でどんなことを学ばれて、今どんな講義を行っているのでしょうか?――
小野監督
コーチングやトレーニング論、陸上競技に特化したものではなく、いいチームのときにはいい結果が出ました。
では、
「いいチームの定義は何か?」
「いいチームを作り続ければ、ずっといい結果が出続けるのか?」
ということを学びたかったです。
スポーツも企業も組織を良くするためにチームビルディングの方法を応用しています。自分もスポーツ組織に所属してきたことを振り返り学び直しました。学生らに経営論の1つとして教えられたらと思っています。
――チームビルディング論から卒業後も活かせるように教壇に立たれているということでしょうか?――
小野監督
就職活動の面接で出身校や自分の実績だけアピールするのではなく、企業組織でも学生時代の経験から、将来、社会に貢献できる学生を育てていきたいと思っています。
後編は・・・。
教員を目指して、陸上から離れようとした小野監督が、再び駅伝指導を行うきっかけや原動力に深くインタビューしました。
後編もお楽しみに!!