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「うちなーんちゅは地元でマウンドに登り続ける」エナジック・大嵩博斗

エナジック・大嵩博斗は悩んだ末、「内地(日本本島)」ではなく沖縄でのプレーを選択した。

「うちなーんちゅ(沖縄人)」の郷土に対する熱い思いはよく知られているが、野球人も同様だ。

素晴らしい才能を持った横手投げ投手は、地元・沖縄から再出発を果たした。

~沖縄から東京ドームを目指す

「先発候補の3人に入っています。右の横手投げなので左打者対策で球種を増やしたのですが、それが上手くいっています。チームに貢献して、(都市対抗本戦のある)東京ドームへ行きたいです」

大嵩は沖縄県うるま市が活動拠点のエナジックで、昨年春からプレーしている。同県には名門・沖縄電力もいるが、乗り越えないと次のステージには進めない。

「エナジックは2008年創部の新しいチームです。でも高等学院があるなど、野球への本気度を感じます。打倒・沖縄電力を常に考えています。ハナマウイ・本西厚博監督のおかげで良いチームに入ることができました」

同チームを率いるのは、オリックスや阪神で活躍した石嶺和彦監督。大嵩が一昨年に所属したクラブチーム・ハナマウイ(千葉県富里市)の本西監督とは旧知の仲だった。両監督のホットラインを通じて移籍はスムーズに決まった。

身体の強さを活かし球威あるボールを投げ込むことができる。

~元プロ選手も認める一級品の素材

「『素晴らしい素材なので見てください』と、石嶺さんに伝えました。試合中の動画も撮影して送った。『良い投手だね』とすぐに返事をくれて、話はすぐにまとまりました」

本西監督は大嵩の投手としての可能性に惹かれた。入団当初から潜在能力の高さに注目、次期エースの可能性まで考えていた。

「素晴らしい素材で大きな期待を持っていました。中心投手になれると思いましたが、優し過ぎる性格がマイナスに作用しました。厳しくインコースを突くことができなかった」

ハナマウイ投手コーチの中山慎太郎は、「初めて見た時には惚れ惚れした」と振り返る。

「身体は大きくないが強さがありました。さすが沖縄の選手という感じでしたが、それが逆効果にもなっていた。言葉は悪いですが、小手先で強い球が投げられる。でも企業チームと対戦する社会人野球なので、そのままでは通用しません」

ハナマウイ・本西厚博監督は入団時から才能を認めていた。

~家族に対する申し訳ない思い

ハナマウイではチームの将来を担う投手になることが期待された。荒削りで覚えることも多かったが、可能性は十二分に感じさせた。しかし在籍1年目の夏頃には、「退団して沖縄へ帰りたい」と言う気持ちが芽生え始めていた。

「理想と現実が全く違っていました。野球と仕事の両立は想像以上に難しかった。もっと野球に集中できると思っていましたけど、考えが甘かった。自分が上手くなっている感覚が全くなくて、不安ばかりが増えていきました」

「家族に対して申し訳ない気持ちにもなりました。野球をするため内地へ行かせてくれた。振り返ると高校時代は3年間毎日、糸満市から浦添市まで送迎してくれた。都市対抗出場という結果で恩返ししたいと思ったのですが、現実的には難しいことがわかりました」

ハナマウイには社員選手としての入団だった。普段はデイケアサービスの仕事をするため、チームとしての練習は週2-3回に限定される。残りは自主練習となるのだが、そういった環境の変化への対応もうまく行かなかった。

「仕事メインなのは当然なので、練習ができていない感覚が常にありました。野手は素振りやティ打撃もできますが、投手はフィジカルや走り込み等が主になる。投球練習ができないので、自分の現在位置がわからない状態でした」

「軽々しく、『都市対抗に行きたい』とは言えなくなっていました。エナジックにいる高校の同級生に聞いたら、野球に集中できる環境ということだった。このまま消化不良の感じでプレーを続けるのも良くないな、という思いが強くなりました」

毎日プレーできる環境を求め、エナジックへ移籍した。

~沖縄から強豪・富士大、そしてハナマウイへ

沖縄では野球をするのが当たり前の環境で生まれ育った。実家から目と鼻の先には野球強豪校・糸満高があった。少し足を伸ばせばプロ野球の春季キャンプを見ることができた。

「野球は小学校3年生からやっています。浦添市のヤクルト・キャンプへも行って、山田哲人選手にサインをもらったこともある。内野手をやっていた頃だったので、トリプルスリーのすごい選手からもらえて本当に嬉しかったです」

糸満市立兼城(かねぐすく)中から浦添商へ進学。春1回、夏4回の甲子園出場経験を誇る名門校を選び、本気で野球に取り組んだ。

「中学時代の1つ上の先輩に、『本気で野球をやるなら(浦添商へ)来ないか』と誘われた。練習が一番厳しい、と言われていた学校で上手くなって甲子園へ行きたいと思いました。学力的に最適だったのもありますけど(笑)」

高校から投手に専念、2年時には現在の横手投げへ投球フォーム変更を行なった。甲子園出場はならなかったが、強豪・富士大(岩手)から声がかかった。

「話が来るとは思っていなかったので驚きました。沖縄を出て内地で野球をやってみたい気持ちもあったので、富士大進学は即決。投手として専門的なことを色々と学べました。自分のレベルの低さを思い知らされ、上手くなりたいと常に思っていました」

大学では思ったような結果を出せなかったが、同大監督を通じてハナマウイから話が来た。2020年には本西監督の元、創部2年目で都市対抗本戦出場したことが大きな話題となったチーム。「このままでは野球を終われない」と思っていたこともあり入団を決意した。

ハナマウイ・中山慎太郎コーチには、早くから沖縄へ戻る相談をしていた。

~沖縄の地で野球をやり切りたい

投手として上手くなり結果を残したい。都市対抗出場を果たすことで家族等、周囲への恩返しもできる。希望を持ってハナマウイ入団をしたが現実はシビアだった。早い段階から中山コーチへは本音を吐露していた。

「夏くらいに『沖縄に帰りたい』という相談を受けました。沖縄のことばかりが頭にあったようです。投手コーチとして良くないかもしれないですが、『正直、そこまでなら帰った方が良いのでは』とも感じました」

本西監督は、都市対抗野球南関東予選で敗退した9月頃に相談を受けた。結果を残せなかったことで、緊張の糸が切れた部分もあったのかもしれない。

「沖縄に帰りたい。野球も辞めたい。思い詰めた感じだった。大学までと異なり、野球と介護の仕事との両立もきつかったのかもしれません。しかし環境を変えたとしても、野球は絶対に続けて欲しかった。『野球は辞めるな』と何度も言ったことを覚えています」

野球を辞めてのんびりしようと思った時期もあった。しかしそこで支えとなったのは、やはり家族の存在だった。今まで自分に費やしてくれた時間と労力に対して、「何も返せていない」と思った。

「僕はやはり沖縄の人間。心が折れると『ナンクルナイサ』ではないですが、どうでも良くなる部分もあります。でも何1つ結果を出さないままでは家族に悪いと思いました。沖縄で野球をやれるならやりたい、やり切りたいと思いました」

3月開催の大会では優勝を果たし、活躍ぶりが地元新聞にも取り上げられた(新聞記事は大嵩所有)

~多くの人から「ちばれよ」と期待される男

昨年春から沖縄へ戻り、エナジックで野球を続けている。午前中は練習、午後からは在宅介護の仕事を行う日々。睡眠時間が少なくなる日もあるが、野球に没頭できる充実感があり苦労を感じない。

「日本ハムのキャンプ地・名護での練習がメイン。毎朝8時半には球場入りするので、糸満市の自宅を6時過ぎには出発します。午後からは地元へ戻り、夜まで介護の仕事。肉体的に疲れる時もありますが、気持ちは充実している。毎日、ボールを握れることが大きいです。もっともっと上手くなりたいです」

現在の充実ぶりを本西監督と中山コーチに伝えると、2人とも心から嬉しそうな表情を見せてくれた。

「今でも島らっきょう、海ブドウを送ってくれる。義理堅くて良い奴なんです。そういった優しさが野球で出ないようにして欲しい。良い表現ではないが、ぶつけても良いからどんどんインコースを突くこと。そうすればもっと良くなるはず」(本西監督)

「マインドセット、覚悟を持って欲しい。沖縄人独特というか、ノンビリした部分がある。野球人としてはマイナスになる。野球をやり抜くという覚悟を持てば、取り組む姿勢がもっと貪欲になる。24歳とまだまだ成長できる年齢なので、期待しかないです」(中山コーチ)

地元沖縄から東京ドーム出場を目指し、前向きに野球へ取り組む日々だ。

紆余曲折を重ね、沖縄の地で再び野球へ本気で向き合っている。内地での経験は決してムダではない。ここから結果を残すことが家族、そして今までお世話になった人たちへの恩返しになる。

「あいつは本当に好かれている。『大嵩、良かったらしいです』と、ハナマウイの選手がいつも教えてくれます」(本西監督)

大嵩博斗、うちなーんちゅの野球人生は第二章が始まったところ。多くの人からの「ちばれよ(頑張れ)」に応えるのはここからだ。

(取材/文・山岡則夫、取材/写真協力・エナジック、ハナマウイ)

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