ハナマウイ投手・松坂大輔「名前を大事にしつつ、東京ドームでの好投だけを考えている」
野球クラブチーム・ハナマウイには松坂大輔という横手投げ投手がいる。 日米プロ野球で活躍した「平成の怪物」と同姓同名、今までの野球人生では常に比較されてきた。「時にはウザいと感じたが、今では大きなパワーになる」と語ってくれた。
「昔からマウンドに上がると『松坂大輔だ』という声が聞こえます。嫌に感じることも多かったですが、大学後半からは受け入れられるようになりました」
松坂が生まれた1998年に怪物・松坂は甲子園で春夏連覇、3球団競合の末に西武へドラフト1位で入団した。プロ1年目から16勝の活躍、レッドソックスなどMLBでもプレーするなど日米通算20年間で170勝を挙げた名投手だ。
「僕が生まれた時から活躍していた素晴らしい投手です。小学生で野球を始めた頃は西武のバリバリのエースでした。同じ名前で嬉しかったし、ああいう選手になりたいと思いました」
~リトルリーグ時代は無双、プロへ行けると信じていた
岩手県盛岡市出身の松坂は、小学校低学年から野球を始め父親がコーチを務めていたリトルリーグへ入団。当初は投手をやっていたが肩の故障で野手へ転向、中学のシニアリーグで投手に復帰した。
「リトルで投手をやったけどすぐに肩を壊した。球は速かったのですが当時のリトルは球数制限がなくて結果的に投げ過ぎてしまった。打者転向して中学でシニアに入った当初はサードをやっていて、その後に投手に戻りました」
「シニアでは投手として岩手大会で負けたことがなかった。身体は小さかったですが変化球が良かったと思います。当時からカーブが得意球で打者に打ち返される感じは全くなかったです」
ハナマウイ投手コーチを務める1986年セ・リーグ新人王の長冨浩志氏(元広島他)も、「あのカーブは良い」と評価する。
「カーブに加えて真っ直ぐのキレとコントロールにも自信がつきました。シニアの北東北大会ではノーヒッターもしました。当時は自信しかなかったので、このまま頑張れば高校で甲子園、その先のプロへも行けると思っていました」
~「名前負けしている」というバッシング
シニアリーグでは「向かう所、敵なし」、身体は大きくなかったが球のキレと変化球で打者をねじ伏せた。しかし名門・一関学院高へ進学するとカベにぶつかった。
「高校へ入ってすぐに現実に直面しました。僕も含め1年生投手3人がAチーム(3学年合わせたレギュラー候補)に入った。だけど他の2人のレベルが高過ぎて僕だけがAチームを外れました。球威、キレ、コントロールなど比較になりませんでした」
一関学院高へはシニア時代に声をかけてもらい進学を決めた。強豪校スカウトの目に留まったこともあり自信を持っていたが打ち砕かれた。
「その頃から『松坂大輔』という名前が重く感じるようになった。1年時は試合に出ていなかったので、『このままではベンチへも入れない』という焦りもありました。周囲から『松坂大輔という選手がいるんだ』という雰囲気も出始めました」
「2年秋の県大会準決勝、盛岡大附属高戦でピンチの場面で登板したけど抑えられず降板しました。その時に『完全に名前負けしている』とバッシングを受けた。自分の名前はこういう評価をされるんだ、と思いました」
~父親の大病と祖母からの声によって考え方が変わる
名前のせいでプレッシャーを感じるようになった。青森中央学院大へ進んでも「松坂大輔という名前は面倒臭い」と思っていた。
「名前のことに加えて肘を故障した。大学1年秋から2年春までは投げていたのですが、2年秋から3年の1年間は試合での登板はありませんでした。投げられないので自暴自棄というかダラダラ過ごしていました」
名前の重圧に加えて試合で投げられない。下り坂を転げ落ちそうな時に父親が病気で倒れてしまう。
「大学2年冬に脳出血で父親が倒れ、大学を辞めないといけないと思った。祖母が『お金は何とかするので大学は卒業して欲しい。野球も頑張れ』と声をかけてくれた。その時に覚悟が決まった感じでした」
「短い人生の中ですが、色々なことを1番考えた時期だと思います。『このままで良いのかな?』と素直に思えて、まずは肘の回復に全力を注いだ。投げられるようになってからは、身体のメカニズムなども独学で勉強するようになりました」
「考えることの重要性を学びました。野球以外でも4年で教職を取りました。『将来的に母校で野球部を指導するのも良いな』と思い始めたからです。さまざまなことが変わるきっかけ、名前のことなど気にならなくなりました」
~「野球選手として残りどれくらいの期間できるか?」を考えた
肘の故障は完治して大学4年時は主戦投手として投げていたものの、同年秋に今度は肩の故障を発症してしまう。
「半分以上の試合に登板しましたが、コンディション調整や身体のケアが不十分だった。4年秋は学生最後の大会だったので痛み止めを飲み無理して投げた。結果的にその後のハナマウイに入団してからも、完治まで想像以上の長い時間がかかりました」
大学4年秋のリーグ戦前にはハナマウイ入団が内定していた。故障を抱えて投げられない状態だったが、大学卒業後は快く受け入れてくれた。
「社員ではなく他の仕事をしながらのクラブ生として入団しました。入団後3-4ヶ月で肩も治って投げられるようになった。学生時代より練習時間が少ないので感覚を取り戻すのには苦労しました。今の仕事は夜勤が多く睡眠時間を削って練習をする生活です」
ハナマウイでは投手コーチ・中山慎太郎とエース(当時)・平野暖周との出会いが大きな影響を与えてくれた。
「中山さんは身体のメカニクスを丁寧に教えてくれる。ここまで、と思うほど細かい指導をしてくれます。平野さんは2020年の都市対抗(東京ドーム)で投げている姿を見てから尊敬の存在。常に手を抜かず黙々と練習する姿勢に刺激を受けます」
「平野さんには『野球を今後どれくらいできるか、を考えた方が良い』と言われた。現役でできる時間は限られているので、『眠い、身体がつらい』など言わず野球に没頭しようと思いました」
「各自に適したメカニクスを活かす」中山コーチの指導の元、横手投げへの投球フォーム変更もうまくいきつつある。また平野が都市対抗の舞台で四国銀行(高知市)相手に先発して8回1失点に抑えた勇姿を忘れることはない。
~「松坂大輔」という名前の捉え方は自分次第
ハナマウイ入団4年目26歳のシーズンに入った。残りの選手生活が長くないことを自覚しつつも、今は目の前に全力を注ぐことしか考えていない。もちろん名前に対する複雑な思いなどは微塵もなくなっている。
「今でも打たれたら悪い評価は聞こえますが、『この名前を背負って結果を出すのはすごい』と言ってくれる人もいます。どう捉えるかは自分次第だし、『やるしかない』と覚悟は決めました」
「今は松坂大輔という名前に何の不満もありません。忘れられない名前なので、色々な人に話しかけられる機会も増えました。『あのチームにいたよね』とか相手が覚えていることが圧倒的に多いですから」
「シンプルに一生懸命、野球をやります。都市対抗野球の東京ドームで良い投球します」と笑顔を見せる姿には期待しか感じさせない。
「怪物・松坂」の伝説が始まったのは1999年4月7日のプロデビュー戦(対日本ハム)、東京ドームでの快投だった。同じマウンドでハナマウイの松坂大輔が好投を見せてくれる日が見たい。タフな環境に負けず自らを高め続ける横手投げ右腕に、その日は必ずやってくるはずだ。
(取材/文/写真・山岡則夫、取材協力/写真・ハナマウイ・ベースボールクラブ)