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【プロレスリングWAVE 宮崎有妃(前編)】葛西純にデスマッチファイターとして認められたい

プロレスリングWAVE所属。JWP女子プロレスでデビューして28年、様々なプロレス団体で活躍する宮崎有妃。得意のハードコアだけではなくコミカルな試合にも対応し会場にいる全ての観客を笑顔にする。そして彼女はレスラーなら誰もが求めるベルトへの執着がない。タイトルという記録ではなく、観客の記憶に「宮崎有妃」を刻み込む。その彼女に生い立ちからデビュー・海外生活・NEO時代・引退・現役復帰、そして今後の夢を聞いた(全3回)。(取材/文:大楽聡詞、取材協力/写真:プロレスリングWAVE)

中学卒業後の進路は「女子プロレスラー」

愛知県安城市生まれ。宮崎有妃(以下、宮崎)は両親と兄の4人家族。親戚は男子の割合が多く、幼少期の遊び相手は男の子ばかりだった。そのため、おままごと遊びが分からず、貰ったリカちゃん人形を怪獣と戦わせていた。また、スカートを履くことにも違和感を覚えていた。2歳で両親が離婚、宮崎は母と兄と共に刈谷市に引っ越した。

小学校の頃、町内のキックボールクラブに半ば強制的に参加。周囲から運動能力の高さを評価された。その才能は中学に入るとバスケットボールに生かされる。

宮崎がプロレスに興味を持ったのもこの時期。母親が全日本プロレス中継を観ていた影響もあり徐々にプロレスに魅せられていく。

プロレス初観戦の思い出を聞くと「三重県桑名市にあるナガシマスパーランドでJWP大会が開催された時、会場で観戦できてメチャクチャ興奮したのを覚えています」と当時を懐かしみながら目を細めた。

中学卒業後の進路は、「細かい作業が得意」という理由から美容師になるつもりだった。就職先の美容院も内定していたが、プロレス熱も高まり、「女子プロレスラー」が選択肢の一つとなっていた。3年になると同級生が部活動を引退したが、宮崎は体力作りのため「部活動を続けさせてほしい」と校長先生に直談判。

「私はバスケ部の後輩と一緒に準備体操やランニングを行い、ボールを使う練習になると団体から外れ体育館の端っこで黙々と1人で練習してました」

中学卒業後、すぐに入寮。記憶のないデビュー戦。巡業中に離脱

中学3年の冬、兄が買ってきた雑誌「週刊プロレス」にJWP女子プロレス(以下 JWP)の入門テスト募集記事が載っていた。宮崎が応募すると書類審査を通過。入門テストを受けるために母親と一緒に上京した。

親に内緒で入門テストを受けにくる人も少なくない。そのため合格しても親の承諾を取れず練習生になれないケースが多い。

宮崎の場合は母親同伴のため、すぐに入門が決定。もちろん入門テストのスクワット100回もクリアした。

宮崎は中学卒業と同時に上京。JWPの寮生活はPURE-J女子プロレスのレフェリーであるテッシー・スゴーさんと他にもう一人の先輩、そして宮崎と同期6人の計9人でスタートした。

JWPには1994年3月入寮。デビューは1995年1月8日、約10ヶ月かかった。デビュー戦の相手は1994年12月にデビューした同期の日向あずみ。結果は10分時間切れ引分け。現在フリーランスで活躍する倉垣翼も宮崎と同じ日にデビューした。宮崎にデビュー戦を振り返ってもらうと…

「緊張しすぎて試合内容を全く覚えていません。『どうやって入場したのか』『どんな技を出したのか』いっさい記憶にない。YouTubeに動画が残っていないか探してみたけどなかった。あの頃はビデオリリースも多かったし、1995年4月に旗揚げした『GAEA JAPAN』の長与千種さんもJWPに参戦していたので映像が残っているはず。私のデビューの映像をお持ちの方がいればSNSで連絡ください!」

そのJWPを宮崎は1996年に退団。若気の至りだった。

「『辞める』と口にする人は辞めない。本気で辞める気はなかったけど魔がさしたというか」

朝、巡業中泊まっていた静岡のホテルから出て行った。

同期の倉垣翼や日向あずみには辞めたいと話した。2人には「巡業が終わるまでは続けたほうがいい」と言われていた。しかし巡業が終わって寮に帰ったら「同じ生活を繰り返すことになる」と思い決行。宮崎は「もう2度とプロレスには戻らない」と固く心に決めた。

1996年、宮崎は「もう2度とプロレスには戻らない」と固く心に決めJWPを退団。

先輩・ライオネス飛鳥からの連絡。そしてプロレス復帰

JWPを退団してから約2年間、実家の愛知県に戻らず友達の家を転々としながらバイト生活。プロレスとは全く関わらなかった。

ある時、プロレスの興行主である地元・愛知の友人から「ライオネス飛鳥(以下、飛鳥)さんが宮崎に会いたいと言っている」と連絡が。

飛鳥は「JDスター女子プロレス(以下 JD)で『裁恐軍(さいきょうぐん)』として戦っている。一緒にやらないか?」と宮崎を誘った。裁恐軍は飛鳥とドレイク森松、ザ・ブラディー、ファング鈴木がいるユニット。断る理由も見つからず、流されるまま加入。基本からトレーニングを始め、身体を鍛え直し1998年現役復帰した。

1996年JWPを離れた時、「もう2度とプロレスには戻らない」と心に決めた宮崎だったがどんな心情の変化があったのか?

「元々プロレスが嫌いで辞めたわけではなく、人間関係が嫌で飛び出した。だから『JDなら私を知っている選手がいないので1からできる』と考え復帰を決めました」

当時18歳。再びトレーニングを開始してから試合に出場するまで約半年。受け身も身体に染みついていたため、リング復帰は早かった。

リングネームを「魔術師」という意味の『エチセラ』に変更。名づけ親は知り合いのメキシコ人。それほどリングネームに思い入れはなかった。その後、裁恐軍をやめてJD正規軍に加入したのを機にリングネームを本名に戻し、横浜にあるJDの寮に入った。

メキシコのプロレス団体「AAA」で活躍

しばらくするとJDを辞めたいと思うようになる。でも「JWPと同じ過ちは起こしちゃいけない」と考え、JDを離れるために「メキシコに行きたい」と会社に話した。すると会社は宮崎にメキシコのプロレス団体「CMLL」へのルートを作ってくれた。

宮崎は1ヶ月半で帰るフライトチケットを握りメキシコに向かった。メキシコにはAAAとCMLLという2つの大きなプロレス団体がある。宮崎はJDが用意してくれたCMLLにはいかず、AAAに入った。

「選手は盛り上がっている団体に移籍します。『今AAAの方が盛り上がっている』とメキシコ人の友人から聞いてAAAに行きました。結果的にAAAで良かったけど、昔の私は人の恩を大切にしないやつでしたね(苦笑)」

メキシコにいる友人のツテもあり、初戦からテレビマッチに出場しAAAの上層部からの評価も上々。しかしフライトチケットの期限である1ヶ月半が近づいてくる。宮崎は「日本に帰りたくない」とチケットを捨ててしまう。

だがビザの都合でAAAのテレビマッチには出場できない。そんな時、一人の日本人女性との出会いが宮崎の助け舟となる。

「一人の日本人女性に出会いました。彼女の旦那さんは週末帰ってくるけど平日は不在。『1人で寂しいから』と一緒に住むことになりました。彼女は日本のプロレス団体にメキシコ人の売り込みをしていて、私のことも売り込んでくれました。そしたら『大阪プロレスに上がって欲しい』と連絡があり、フライト代を負担してくれて帰国することができました」

帰国後、宮崎は実家の愛知に住み、試合時に東京や大阪に移動する生活を送った。

名古屋で格闘技イベント「DEEP」を旗揚げした佐伯繁氏のプロレスラジオに準レギュラーで出演したこともある。その頃、原宿でショップ経営しているニグロ、菊タロー、ディック東郷と知り合ったのをきっかけに「今後、プロレスをやるなら東京に住もう」と再上京。

毎週水曜日は大阪プロレスに参戦、日曜日は渋谷club ATOMでのDDTプロレス定期興行に出場していたので収入は安定していた。

2000年3月、北沢タウンホールでNEO女子プロレスのプレ旗揚げに参加。そこでプロレスラー宮崎有妃にターニングポイントが訪れる。
<中編へ続く>

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