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【プロレスリングWAVE 宮崎有妃(中編)】葛西純にデスマッチファイターとして認められたい

プロレスリングWAVE所属。JWP女子プロレスでデビューして28年、様々なプロレス団体で活躍する宮崎有妃。前編は彼女の生い立ちからデビュー、海外生活を中心に伺った。今回はファンの脳裏にしっかり刻まれているNEO女子プロレス時代、NEO解散と引退、そして現役復帰について聞いた。(取材/文:大楽聡詞、取材協力/写真:プロレスリングWAVE)

NEO女子プロレス時代

メキシコから帰国し、フリーランスとして様々な団体のリングに上がっていた宮崎有妃。彼女の運命が変わったのは2000年3月。NEO女子プロレスのプレ旗揚げに参加し、試合前の売店で当時の社長に「NEOに入らない?」と声をかけられた。宮崎は二つ返事で「いいよ」と答えた。

「その日は井上京子さんとシングルマッチ。試合後、『NEOに入らせてください』と言って入団しました。あの時NEOにいたのが田村欣子、タニーマウス(以下 タニー)、元気美佐恵。このメンバーが同期で嬉しかったのを覚えています」

NEOでの活動は2000〜2010年の約10年間。この時期、宮崎のプロレス人生は充実していた。宮崎はNEOに入る前まで決まったタッグパートナーがいなかったが、入団後にタニーとNEO認定タッグ王座を始め、全日本タッグ王座、インターナショナルリボンタッグ王座と様々なタッグベルトを獲得。

2人のチーム名「NEOマシンガンズ」は、漫画「キン肉マン」に登場するキン肉マンとテリーマンのタッグ名「ザ・マシンガンズ」に由来している。「キン肉マン」の大ファンであるタニー曰く「宮崎がテリーマンで、タニー自身がキン肉マン」とのこと。

普段、関節技を使わない宮崎はテキサス・クローバー・ホールドやカーフ・ブランディングなどテリーマンの必殺技を意識し使用した。

「旗揚げ当初のNEOは小規模な団体で、北沢と板橋を中心にコツコツ活動し1年に1回の後楽園大会を大切にしていました。それが年を追うごとに後楽園を2回、それが3回、4回と増えていきましたね」

後楽園よりキャパシティーの大きい川崎市体育館(現在カルッツ川崎)に華やかな照明を設置。いつのまにか1番ビッグマッチを開催する女子プロレス団体になった。NEOマシンガンズの入場時、キン肉マンの主題歌を歌う串田アキラさんに歌ってもらったこともある。

「とにかく想定外のことがNEOでは形になりましたね。小さい団体だったNEOは年々大会の規模が大きくなり、レスラーとして華やかな世界を見ることができました」

デスマッチへの興味、追い込まれた時の恐怖が好き

今でこそハードコアファイターとしてプロレスファンに認知されている宮崎だが、元々デスマッチに興味はなかった。

当時大日本プロレスの巡業の際、NEOの提供試合が行われていた。メインの試合は2方向のロープ部分を火で燃やす「ファイヤーデスマッチ」。試合前の控え室で、初めてファイヤーデスマッチを闘う沼澤邪鬼が恐怖心から放心状態に。しかし試合が素晴らしかった。

その試合を観戦した宮崎は「恐怖を味わいながら、なぜデスマッチをやるのだろうか?」と興味を抱いた。

試合後、デスマッチを戦った選手たちが血まみれなのに爽やかな笑顔でお互い称え合っている。葛西純、山川竜司、金村キンタロー、アブドーラ小林…さまざまなデスマッチファイターを見ていたら「やりたい気持ち」がふつふつと湧き上がってきた。

2010年5月5日 後楽園ホールで宮崎は引退を発表。引退前の道場マッチ終了後、田村・タニー・宮崎の3人でトークイベントが行われた。そのイベントで司会者から「引退までにやりたいことを上げて下さい」と質問され、宮崎は「デスマッチをやりたい」と答えた。

そして「伊東竜二選手とペアを組みたい。対戦相手は葛西純・沼澤邪鬼ペア」と。当時、デスマッチの黄金カードは葛西純・沼澤邪鬼vs伊東竜二と他1人のレスラーが組んでいた。その話を聞いた大日本プロレス側が宮崎の希望を全面的に受け入れた。

2010年10月29日、新木場ファーストリングで宮崎は大日本プロレスの伊東竜二選手と組み、葛西純・沼澤邪鬼組と戦った。宮崎は想像していた満足感を得ることができたのか?

「デスマッチは想像以上に楽しかった。引退するのに後悔はないと思っていましたが、唯一の心残りは『もっと早くデスマッチをやれば良かった』と(笑)」

2010年引退時、デスマッチをやらなかったことを激しく後悔した。

NEO女子プロレス解散、引退。そして1日だけのリング復帰

NEO女子プロレスは2010年12月31日解散。田村とタニー、宮崎の3人が同時に引退した。

「引退と団体の解散、どっちが先だったのか忘れましたがタニーと田村が引退することになりました。私は当時30歳で2人の決断を聞き『もう引退を考える年齢か』と。当初引退するつもりはなくNEO解散したら2011年に再度海外に行こうと考え、海外へのルート作りも進めていました。『1年くらい海外遠征し日本に戻り他団体に所属して1年で引退。いやいや所属して1年で辞めるのは団体に失礼だ。そうなると2012年から2年間は戦って…ちょっと待て、私いつまでプロレスを続けなくちゃいけないんだ?だったら今辞めよう』と引退を決断しました」

引退後、普通の仕事だと刺激が少ないと感じた宮崎は新宿2丁目で働いた。職場は食事メインの夜カフェ。夜なのに叫び声が聞こえる新宿の街は刺激が多く毎日面白かった。そこで2019年まで約9年間働いた。

飲食店で働いて5年が経過した頃、プロレスリングWAVEの会長GAMIさんが宮崎のお店に現れた。

「GAMIさんに『各地で興行が行われてマスクマンが1人足りない。1度だけマスクを被って試合してくれへん?』と言われました。『無理です』と断ったら、働いていたカフェのオーナーが『久しぶりに試合に出たら?』と後押ししてくれたんです」

4年ぶりにWAVEの練習に参加。久しぶりに身体を動かすと筋肉痛になるが、プロレスの受け身や技は覚えていた。仕事の合間で練習を重ね1ヶ月後の試合に出場。

「1日だけのプロレス復帰後、いつものように普通の飲食店で働く日々に戻りました。でも『リングに上がった感覚』が忘れられなかった。1ヶ月後、GAMIさんをご飯に誘い『またプロレスをやりたくなりました』と素直に告白。するとGAMIさんは『ええよ、いつ復帰する?』とスケジュール帳を開きました。いやいや流石にそれは早すぎるだろうと(笑)」

宮崎は夕方から朝まで飲食店で働き、仕事の合間で復帰戦に向けて身体作りに励んだ。

日曜日限定復帰

2015年7月20日WAVE後楽園大会で宮崎は正式に復帰した。2度目ならぬ3度目のレスラー復帰だ。これほどまで好きなプロレスを2010年に引退したのは、なぜだろうか。

「タニーと田村に言われたわけではないけど、絶対に3人で辞めた方がNEO女子プロレスの最後に相応しいと思ったんです。『田村、タニーと一緒に引退する方が絶対にキレイなNEOの終わり方』だと」

最高の仲間と出会い、数々のタッグチャンピオンにも輝いた宮崎。だからこそNEO女子プロレスの終焉と共に自分のキャリアが終わることを一度は選択した。

宮崎が働く飲食店の定休日は日曜日。当初は定休日を利用し日曜日限定で試合に出場していたが、日曜以外にも少しずつ試合が増えてきた。

「私はプロレスが好きです。飲食店に10ある気持ちが1だけプロレスに向かうとどんどんプロレスに引き寄せられていった。自分の中で、『飲食店:プロレス=5:5』だと思っていた。でも他の人に「8:2でプロレスに気持ちがいってない?」と言われた時、言い返す言葉が見つからなかった。それで飲食店を辞めました」

2019年、宮崎は飲食店を退職しプロレスリングWAVE所属レスラーとして完全復帰した。
<後編に続く>

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