【SEAdLINNNG 中島安里紗(前編)】いつかプロレスを、もう1回やりたい

現在SEAdLINNNGのエースとして君臨、「BEYOND THE SEA Single王座(以下 ビヨンド・ザ・シー・シングル王座)」を保持する中島安里紗。取材中の彼女は柔らかな雰囲気で笑顔が印象的。だがリング上では「冷酷の刃」「リングの小悪魔」などのニックネームに相応しく、対戦相手をどこまでも追い詰めていく。2006年1月のデビューから17年が過ぎた中島に過去を振り返ってもらい、彼女が求める戦いや今後の目標などを聞いた。

初観戦は女子プロレス団体「アルシオン」。キラキラした世界に心を奪われる

身長160cm体重60kg、「子供の頃は、今よりちょっと背が低くて体重が80kgあったんです」と中島は笑いながら語る。その容姿のことで同級生からいじめにあう。中島は「いじめられるなら別に学校に行かなくていいや」と登校拒否。

初めてプロレスを観たのが小学5年生。地元の埼玉県秩父市で女子プロレス団体「アルシオン」の興行が開催。中島の瞳には女子プロレスがキラキラとした世界に見えた。

「小さい頃、父がお酒を飲むと周りに迷惑をかける人で肩身の狭い思いをしていました。そんな思いを解消してくれたのがプロレスです。子供の頃の私にはキラキラした世界に見えた。その瞬間『プロレスをやろう』と決めましたね」

そのことを父親に打ち明けると「プロレスラーはオリンピックに出場するように、ほんの一握りの人しかなれないんだよ」と説得され、一時は諦めた。しかし中学生になりプロレスラーになりたい気持ちが再燃する。

「中学ではテニス部に籍を置いていました。そこから柔道や空手を習うわけでもなく、レスラーを目指し家で一生懸命、腕立てや腹筋などの基礎体力作り。気がつくと体重も80キロから70キロに落ちていました。憧れのレスラーはいませんでしたね。なぜか『女子プロレスの中では絶対に上の方までいける』という根拠のない自信はありました(笑)」

最初に所属した団体が活動停止、フリーとして活躍。そしてJWP入門

2005年に「メジャー女子プロレスAtoZ(以下 AtoZ)」に入門。だがAtoZは2006年5月3日の後楽園大会を最後に活動停止。その後はフリーとして先輩の阿部幸江とユニット「Hysteric Babe」で活動を共にするが、同年8月6日にJWP女子プロレスに入団。

「AtoZが無くなる前から、JWP道場が近かったので合同練習に参加させてもらいました。そしてAtoZが無くなり、専属フリーのような形で参戦。ある日、試合後のリング上で、JWP代表のコマンド・ボリショイさんに、『いつまでも専属フリーじゃなくて、所属にならないか』と言われました。一緒に行動していた阿部さんが『所属します』と。リング上で言われたら、後輩なので断れないじゃないですか(苦笑)。もちろんJWPに入って良かったです。後悔はしていません」

「冷酷の刃」「リングの小悪魔」などのニックネームを持つ中島安里紗

突然の退団、引退。そして一般企業への就職

2006年12月、中島は渡辺えりかの引退で空位となっていたJWPジュニア王座を獲得。2007年6月には浦井百合、松本浩代との巴戦を制しPOP王座になりジュニア二冠王となる。

2008年5月には自身初となる有刺鉄線ボードデスマッチに挑戦。2008年6月、前年11月に手放したJWPジュニア&POP王者に返り咲いた。順風満帆のように見えたレスラー人生だが、中島は2009年5月にJWPを退団、引退する。

「ビッグマウスじゃないけど、根拠のない自信があった。でも全然勝てなくて、結果が出なかった。周りの期待に応えられない自分にもどかしさを感じていました。あとはお金の問題です。私は20歳で引退しました。20歳になっても親から仕送りをもらっていた。それがすごく嫌で、『20歳になったら就職しよう。普通に働こう』と。博多での試合後、飛行機で帰宅し、次のシリーズまで休みがあった。それで『もう行かない』って…」

その後、中島は仕事を転々とし、携帯ショップに居場所を見つける。

「携帯ショップの仕事が面白かった。『あ、接客ってこんな楽しいんだ』と。それまで人見知りだったので、人と喋るのとかあんま好きじゃなかったんですけど、そこでの接客が面白く感じたんです。『お客様のためにどうしたら良いのだろう』と考えました。それで気づいたんです、『お客様に尽くすっていう部分は、プロレス時代の先輩に尽くすっていうところで学んでいる』って。だからお客様を先輩だと思って接すれば、いい接客ができるんですよ。私は『プロレスラーはなんでもできる』と思っています。プロレスで学んだ礼儀が、そこで生きたっていう感じですね」

恩師ボリショイさんが入院、病室を訪ねると意外な言葉が…

そんなに楽しい生活をしていたのに、なぜ中島安里紗はプロレス復帰したのだろうか?

「プロレスから離れて、プロレスの情報を一切入れないようにしていたんです。見なければ、情報も入ってこないし気にすることもない。ある時、母親から『ボリショイさん病気になったんだね』と。調べたら難病指定されている黄色じん帯骨化症でした。『もしかしたら、もうリングに上がれないかもしれない』という情報も目にしました。多分、心のどこか隅っこに、『プロレスを、もう1回やりたい』っていう気持ちがあったと思うんですよ。ボリショイさんの病気のことを聞いた時期と、東日本大震災が起きた時期が同じくらいでした。震災を体験して『いつか』って来るか来ないかわかんないじゃないですか。『いつかって言ってるんじゃなくて、今しかない』みたいな気持ちが湧き上がってきて、『よし、ボリショイさんに会いに行こう』と。とりあえず、何も相談せずに退団したことを謝罪したかった。それでJWPの道場に謝罪に行き、ボリショイさんの病院に謝罪に行きました。そしたらボリショイさんが『いつ復帰するの?』みたいな軽い感じで接してくれたんです。私はもっと怒られると思っていたんですけど」

その後、携帯ショップで働きながら、休みの日に練習をする日々が始まった。2011年12月に退職、同年12月23日のJWP後楽園大会に来場し、再入団を発表。

6.28新宿FACEでBEYOND THE SEA Single王座戦をおこなう中島安里紗

2012年4月、復帰戦。相手は負けたことのない中森華子&大畠美咲

2012年4月22日後楽園大会で復帰。中島は阿部幸江と組み、中森華子&大畠美咲と対戦。退団前、中森と大畠に一度も負けたことのない中島だったが、中森の前に敗戦。自分が休んでいる間、2人は休むことなくプロレスに打ち込み成長していた。だが中島は晴れ晴れとした気分だった。

「色々な人のおかげでできた再デビュー。ほんとにみんな見守ってくれました。私の仕事の都合でみんなと練習時間が合わなくても、私の練習に付き合ってくれた。再デビューできたことは感謝しかないです」

プロレスを離れる前と再デビューした時、中島のプロレスに対する考えに変化はあったのだろうか?

「変わりましたね。最初はプロレスラーになりたくて入ったはずなのに、どこかでやらされてる感があった気がします。雑用にしろ、何にしろ、『イヤイヤやってた部分』があって、ほんとしんどかった。

でも再デビュー後は、『プロレスをやらせてもらっている』気持ちしかなかったです。プロレスに対するネガティブな気持ちが、ポジティブに変わっていましたね」

そのポジティブな気持ちはリング上でも好転する。2012年8月、米山香織&さくらえみ(リセット)の持つJWP認定タッグ王座&デイリースポーツ認定女子タッグ王座にボリショイと挑み王座を奪取。同年12月、JWP認定無差別級王者・さくらえみに挑戦し、見事に勝利。タッグベルトと合わせ3冠王者に。2013年1月にタッグ王座は失うも、同年7月にはCMLL-REINAインターナショナル王座を獲得、シングル2冠王者となった。

「周りから期待されてプレッシャーはあったけど全てが心地よかった。『ゾーン状態』に入っていましたね。『やっぱり私はチャンピオンになる器だったんだ』と(笑)。再デビュー前はジュニア選手として戦っていたけど、再デビュー後はヘビー級の選手とも闘い始めました。当然、先輩たちとも闘います。1番最初に先輩に勝った時、その先輩が号泣したんです。それを見て、『先輩に勝つということは、「勝って嬉しい!」だけではなく、その人の気持ちも全部背負っていかなきゃいけない』と感じました。私は根拠のない自信だけでJWP最高峰のベルトまで駆け上がった。本当に勢いだけ。だから人を思いやる気持ちというかレスラーとしての中身がスカスカでした。2012年の再デビュー後、JWPには2016年まで在籍しましたが、後半は不安を抱いてリングに上がっていましたね」

その思いは、2016年12月「JWP退団」という形で表面化される。
(後編に続く)

(取材・文/大楽聡詞 写真提供/SEAdLINNNG)

※一部内容を修正・更新しました。

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