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震災を機にサッカー選手から教育者に ~(第3回)いわてグルージャ盛岡、震災に向きあい続けた岩手のサッカー人たち~

2011年3月11日、日本列島を襲った東日本大震災。太平洋に面した沿岸地区を多く有する岩手県も甚大な被害を受けた。その日から10年、今なお続く復興活動に、いわてグルージャ盛岡(以下グルージャ)をはじめとした岩手のサッカー人たちは取り組み続けている。

震災発生時の被災者たちへの物的支援、被災地の子ども達へのサッカー教室、復興祈念試合、そして『震災を風化させない』をテーマに今年10月に開催を予定している『2021年頑張ろういわてスペシャルマッチ』…。サッカーによる復興支援活動、その試行錯誤と苦悩を過去2回で取り上げてきた。

第3回では、選手にとっての震災とはどんなものだったのか、を掘り下げる。震災当時、グルージャで主将を務めていた島津虎史氏が、震災を機に選手を辞めて教員になった理由とは――そこに掛けた思いを伺った。(全5回連載中第3回)

県外出身の選手として岩手へ

「人生の転換点でした。あの日を境に自分はサッカー人生から、教員人生に変わったんです」

現在、静岡県浜松市の中学校で教壇に立つ島津虎史氏は、震災の日、そして復興に向き合った2011年を振り返った。

島津氏は浜松市出身。地元の高校を卒業後、桐蔭横浜大学へ進み、2003年にヴァンフォーレ甲府に入団、プロ選手としてのキャリアをスタートした。その後移籍した徳島ヴォルティスで正GKの座を掴み活躍。チーム内ではムードメーカーとしてキャプテンや選手会長も務めた。徳島退団後、ジェフユナイテッド市原・千葉を経て、2010年に当時東北社会人サッカーリーグ1部からJリーグ入りを目指していたグルージャに入団した。

初の社会人リーグへの移籍。サッカー人生の中で岩手に縁があったわけではなかった。しかし、「Jリーグを目指す」というビジョンとチームの活気に惹かれ、グルージャとの契約を決めた。


(グルージャでのプレー姿。「寒かったのと、車での遠征が遠いな、と感じたのを覚えています」とグルージャ入団時の印象を笑いながら語った)

「大きな音が鳴り響いたのを覚えています」訪れた震災の日

加入した2010年シーズン、島津氏は守護神兼主将として活躍、グルージャも見事リーグでの優勝を果たす。そして4月から開始する2011年シーズンに向け、トレーニングに努めていた3月、その日は突然訪れた。

「グラウンドにいたんですが、ミサイルが落ちてきて爆発したんじゃないか、というような大きな音が鳴り響いたのを覚えています。グラウンド内で呆然としていました」

途絶えたライフライン、繋がらない連絡…。島津氏が事態の重大さを知ったのも、他の皆と同じく、徐々に時間が経ってからだった。

きっかけをなった一言「 今やれることをやりましょう

チームも、事態を受け止め切れずにいた。チーム内には被災地出身の選手も複数いた。家族や地元の人の元に駆け付けたい。しかし、自分達はプロのサッカー人。サッカーをしなくてはいけない――選手たちは葛藤していた。そこで声を挙げたのが島津氏だった。

「止めましょう。人の生死が関わってるような状況です。今やれることをやりましょう」

県外からサッカーをやる為に岩手に来た人間が、サッカーを止め、支援に向かう。その姿勢に引っ張られるように、チームは一丸となって動き出した。チーム関係者が「あの発言が大きかった」と語る一言だった。

島津氏は「きっかけが必要だったんです」と語る。

「みんな本当は、心の中では何かしなきゃいけない、と思っているのを感じていました。でも、なかなか踏み出せずにいた。選手だからサッカーしなきゃいけないって、表に出さず闘っていました。

 なにより、「お母さんと連絡取れない」「子どもと連絡取れない」、「親戚が」、「友達が」…という声が身近な人から溢れていました。サッカー選手である以上に日本人であって、縁があって岩手に来た一人の人間として、何かをすべきだ、って。であれば(主将であり最年長である)自分が動くべきだと」

(がれき撤去、義援金募金活動。島津氏は選手達を率先して取り組んだ。その姿が本当に嬉しかった、と岩手県出身のチームスタッフは語る)

「自分がすべきことは、サッカーではないのでは」と考えた

被災地で見た、テレビの映像のままの景色。流された同僚の家族を探しにいった経験。支援活動の中で触れた、様々な人とのやり取り…。その中で、島津氏の中に生まれた変化があった。

自分がすべきことは、サッカーじゃないんじゃないか、って考えだしたんです」

島津氏はグルージャ移籍まで、プロ選手ということにこだわっていた。24時間、100%、サッカーのことだけを考えられる環境を求めたからだ。それが、震災を機に変わっていった。

「活動を続ける中で、気づいたことがいくつもありました。支援物資などのやり取りで感じた人と人とのつながりの大切さもそうですが、もう一つに、根付いた教えの力というものがありました」

沿岸部を訪れた際、現地の中学生たちが動き回って支援活動をサポートする姿に驚かされた。

「なんで中学生がこんなにできるんだろう、と感じました。地震があった時、こうしなさい、という東北地方の地震に対する教えが根付いていたんですね。過去の経験や教訓が活かされていました」

震災、復興で得た経験や教訓――こういうことを伝えていくのが自分の役割なのかもしれない、と考える様になった。プレーで夢を与えるプロ選手から、伝える存在へ。自分が取り組むべきことが交差した瞬間だった。

2011年シーズン終了後、島津氏は現役引退を発表。第2の人生として選んだのは、教員の道だった。

教員として見出した、復興への向き合い方

島津氏は現在、地元浜松市の中学校で教鞭をとる。担当科目は体育科ではなく社会科。これを選んだのも、震災を伝えていくためだ。

「社会科の中では、歴史でも、公民でも、地理でも、必ず東日本大震災を取り扱います。現地で起きたこと、そこにいた人たち、周りの国の支援…やはり教師でしか教えられない部分もあると思っています。どう伝えていくか。まだ自分にできることは沢山あると思っています」

授業外でも、年15回程度、様々な学校で講演活動を行なっている。そこで伝えるのは島津氏がプロサッカー選手になり、震災に向き合って感じた「夢をもつ大切さと、その夢が変わる瞬間」だ。

「夢を持つことはとても大切です。でも今回の震災で自分が変わったように、そのかなえた夢も、変わっていく瞬間が人生の中にはある。出来事や人と人との関わりの中で、自分がやるべきことに出くわすタイミングがくる、というのを伝えています」

「震災を知らない子どもたちも徐々に増えてきています。なので、ちゃんと伝えていくのが大事だと思っています。それは、単に起きた出来事をそのまま伝えるのではなくて、そこで人と人が交わって、変化が起きて、今があるんだよ、って」

震災の出来事、ではなく、意味を伝えていく――教員として見出した、島津氏の復興への向き合い方だ。

(島津氏による講演の様子)

節目はない。風化させず、伝えていくこと―葛藤しながらも続けていく

島津氏は毎年3月11日になると、自身のブログに震災に関する投稿を行なっている。
今年はメッセージとして「節目、という言葉はない」と書いた。

「ちょうど10年というのもあり、メディアなどでも良く使われていたと思います。でも、現場にいた人間として、切り替わる節目なんかはないと思っています。

ご家族をなくされた方の中には、今も時間が止まっている方がいます。現地の友人にも、いまだに(震災について)納得できていない、という方が多い。今も風化していない。

でも、それは(現地で被災した人にとっては)しょうがないことだと思います。だからこそ、そういう思いや考え方もあることも含めて、しっかりと伝えていきたい」

島津氏もまた、今もなお葛藤しながら、震災に向き合い続けている。

「もともと、県外から来ていた人間。震災で自分自身が大きな被害を受けたわけではない。そんな自分が、正直、語っていいものなのか。いろんな気持ちがあります。

でも、伝えていく、風化させない――これが、凄く大事なのだと思っています」

一人のプロサッカー選手の人生を大きく変えた震災。その経験は遠く離れた静岡の地で、今も活かされ続けている。

次回は被災地でのサッカー少年にとって、サッカーファミリーの復興支援はどんな影響があったのか、を取り上げる。被災前、クラブでサッカー漬けの生活を過ごしていた少年の日々が、震災を受けてどう変わったのか。支援を受けて感じたことは――。ひとりのサッカー人に話を伺った。(第4回へ続く)

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