野球を国民的スポーツにした中等学校野球大会。―「春夏の甲子園大会」が日本野球にもたらした「功と罪」―前編
広尾晃のBaseball Diversity:21
競技人口の減少などが近年問題にはなっているが、「野球」はそれでも日本で最も人気があるスポーツだ。昭和の時代までプロ野球の視聴率は常時20%を超え、全国に野球少年がいた。野球は日本の「ナショナルパスタイム(国民的暇つぶし)」だったのだ。ここまで野球が普及した最大の功労者は「高校野球(その前身の中等学校野球)だったのは間違いない。
エリートのスポーツとして始まった野球
野球が日本に伝来したのは1872年と言われる。アメリカのお雇い外国人教師の一人ホーレス・ウィルソンが勤務していた第一番中学の生徒に野球の手ほどきをしたのが始まりだとされる。
第一番中学は開成学校と校名を改め、のちの東京帝国大学の前身の一つとなった。そうした関係もあり、日本野球をリードしたのは東京帝国大学の予科と位置付けられた第一高等学校(旧制一高)だった。
旧制一高、東京帝大は日本の最高学府であり、明治以降の日本をリードしたエリート官僚や学者、企業人を輩出してきた。
草創期の野球は「一高時代」と言われ、旧制一高が圧倒的な強さを誇ったが、これに慶應義塾など私学が挑戦し、次第に優位に立つようになった。
この慶應義塾に東京専門学校(のちの早稲田大学)が、野球で挑戦したことから「早慶戦」が生まれ、東京のみならず日本中の注目を集めるようになる。
そして「早慶戦」を契機として大学野球のリーグ戦が生まれる。大正期に原型が生まれた「東京六大学」は、日本野球のトップリーグとして、今のプロ野球のような人気を博するようになる。
地方エリートのための中等学校野球
このようにして日本野球は「エリート大学生」の活躍で人気スポーツとなった。大学野球の選手たちは卒業するとそれぞれの故郷に帰って、地方都市のリーダーとして活躍したが、中等学校の教員になった人も多かった。中等学校は今でいう中学2年生から高校3年生までの生徒が学ぶ学校であり(中途入学もできた)、地域の担い手となるエリートの育成を目的としていた。進学率は20%以下であり、多くの庶民には縁がなかった。
大学野球の選手たちは中等学校の生徒に野球を教えた。地域で学校同士の対抗戦などが行われたが、1915年、この中等学校を対象にした「全国大会」が始まった。
主催者は朝日新聞社。大阪朝日新聞社社会部長で、後に文化勲章を受けた文芸評論家の長谷川如是閑が発案者だと言われている。
参加資格は旧制中学と、同年代である商業学校、師範学校などだった。これらの学校の中には今も甲子園大会に参加している学校があるが、師範学校は戦後、「教育大学」になったため、今は参加できない。
第1回大会は大阪の豊中球場で行われ、京都二中が優勝したが、主催者の想像以上の反響があり、新聞販売にも貢献した。
翌年以降、参加校数も増えて、全国的に注目される大会になった。
朝日新聞の発案でできた「選手権大会」
中等学校野球大会が短期的に大人気を博するようになったのは、主催者がメディア企業の朝日新聞社であり、「自社メディア」を使ってどんどん宣伝できたことが大きい。
さらに、この大会が最初から「トーナメント」だったことも大きかった。アメリカ東海岸で発祥した野球は草創期から「リーグ戦」で行われた。日本に伝来してからも大学野球はリーグ戦で行われていた。
しかし中等学校野球大会は、夏休みの期間に日程を消化する必要があったこともあり「一戦必勝」のトーナメントになった。
日本では柔道や県道など武道の世界で江戸時代から「勝ち抜き御前試合」が行われていた。庶民にはトーナメントはなじみのある試合形式だった。
「絶対に負けられない試合」での選手の必死のプレー、勝ったチームの選手の歓喜、負けたチームの選手の涙、などが新聞で感動的に伝えられたことも、大会の注目度を高めた。
阪神甲子園球場の創設
中等学校野球大会の人気が高まるとともに、観客を収容する大球場の建設が課題となる。朝日新聞社は1923年、阪神電鉄に「中等学校野球専用の球場の建設」を提案。阪神側がこれを受け入れて「阪神甲子園球場」が建設された。
「甲子園」と言う名前は、球場が開場された1924年が干支でいう「甲子(きのえね)の年」に当たっていたことからつけられた。
今は阪神タイガースの本拠地である甲子園球場は「中等学校野球=今の高校野球の専用球場」として建設されたのだ。だから今も春と夏の高校野球の期間中、タイガースは甲子園球場を明け渡し京セラドームなど他の球場で主催試合を行っている。
また、高校野球の主催団体である日本高野連は、阪神甲子園球場に「使用料」を支払っていない。そもそもが「高校野球専用球場」なのだから。
阪神甲子園球場の収容人員は「5万人」と言われ「いくらなんでもこれだけの観客を集めるのは無理だろう」と言われたが、開場4日目には満員となった。こうして「選手権=夏の甲子園」が誕生した。
ライバル毎日新聞が創設した「春の甲子園」
「中等学校野球の全国大会」が爆発的な人気を博したことで、ライバル毎日新聞社も中等学校野球の大会を開催するようになった。こちらは夏休み期間ではなく、春休みに行われた。1年目は名古屋の山本球場で行われたが、2年目から甲子園球場が使用されるようになる。
「選抜=春の甲子園」の始まりだ。
「春の甲子園」開催の経緯を見ると、当時の中等学校野球の過熱ぶりがわかる。
「夏の選手権大会」は、当初、地域のエリートである中等学校が全国大会に進出していたが、野球人気が高まるとともに私学や商業学校などが有望選手をスカウトして次第に中等学校を圧倒するようになる。本来地域エリートの野球大会だった「選手権大会」が、新興学校などの大会に変わりつつあったのだ。
このことを問題視した中等学校野球の関係者が、大阪毎日新聞社の関係者と話し合い「夏の大会」とは異なる「もう一つの大会」を創設することが決まったのだ。
新しい大会は「ただ野球が強いだけ」の学校ではなく、「勉学」「素行」なども優秀な学校を全国から「選抜する」こととなった。今に至るも「春の甲子園」に予選がないのは、こうした経緯による。
「郷土の代表」を応援する機運、全国に。
1925年から「春、夏の甲子園」が並び立って「中等学校野球」は、日本中が注目する大会になった。
それは同時に「野球が全国レベルの人気を博すること」をも意味した。都道府県にはすべて「中等学校」がある。また商業学校、工業学校などもある。私学もある。こうした学校で野球部ができ、春夏の甲子園を目指して激しい競争を繰り広げるようになったのだ。
全国で「我が郷土の選手たちを応援する」機運が生まれた。そして野球は最も人気のあるスポーツになっていったのだ。
実はサッカーやバスケットボールなどの球技も、明治初期のほぼ同じ時期に「お雇い外国人」によって日本に伝えられた。また大学、中等学校にも普及し、全国大会も行われるようになった。その歴史は野球と変わらない。
しかし戦前、競技としての人気は、野球よりも圧倒的に小さかった。これはひとえに「甲子園」に相当する大会がなかったことによる。そして新聞社のプロモーションもなかった。
野球が日本の「ナショナルパスタイム」になっていったのは、戦前、新聞社が企画し、創設した「甲子園大会」の功績だと言ってもよいのだ。
朝日新聞、毎日新聞を追いかける讀賣新聞が仕掛けたもの
「中等学校野球」の大成功によって新聞部数も増大した朝日新聞、毎日新聞を追いかける立場だった讀賣新聞の正力松太郎は「朝日、毎日が中等学校野球なら、讀賣は職業野球だ」とアメリカからベーブ・ルースなどのメジャーリーガーを招いて日米野球を行うとともに、今のプロ野球の前身である「職業野球リーグ」を創設した。
そうした動きを促進したという意味でも「甲子園の高校野球」が、日本野球に果たした役割は非常に大きいと言えるだろう。