「DDTの絶対的エース」HARASHIMA。デビュー22周年記念試合は盟友たちと!
“ミスターDDT”ことHARASHIMAが、今年デビュー22周年を迎えた。それを記念して8月27日後楽園大会でデビュー22周年記念試合が行われる。プロレス人生の節目である2021年のデビュー20周年は、コロナ渦中で記念試合どころではなかった。そもそもHARASHIMAは、5周年、10周年といった周年記念試合を行ったことがない。プロレスデビューが曖昧だったこともあり、デビュー○周年という感覚がなかった。今回、高木三四郎社長に「プロレス始めて今年で何年になる?」と聞かれ「22年くらいです」と答えると「じゃあ、22周年やろうよ」と記念試合が決まった。そんなHARASHIMAに、デビュー当時からプロレス人生22年間を振り返ってもらった。
リング屋のプロレスデビューは「コニカマン」、そして「HERO!」に変身
2001年2月、HARASHIMAはDDTプロレスのリング屋(試合会場のセッティングを行う仕事)のアルバイトをしていた時、選手が足りないから試合に出るよう声をかけられ、マスクマン「コニカマン」としてリングに上がった。
「変身願望があり、マスクマンは変身して強くなるイメージがあって、被り物も好きなので、『もしプロレスラーになるならマスクマンをやりたい』と思っていました。だから全く抵抗はなかった。例えば、野球選手やサッカー選手にマスクマンはいない。マスクマンはプロレスだけの特権だと思う」とマスクを被ることを決めていたHARASHIMA。
学生プロレス(主に大学生により構成されるプロレス愛好者によるプロレス同好会)の経験があったHARASHIMAは入門テストや練習生期間もなくリングデビューが決まった。
実際DDTのリングで初めて試合をしたのは「コニカマン」の時だが、同年8月12日秋葉原大会が、マスクマン「HERO!」としてDDTプロレス正式デビュー。HARASHIMAは「コニカマン」の契約満了後、マスクマン「HERO!」として活動。「子供たちに人気の出るヒーローキャラクターをやってほしい」と社長に提案されて誕生したキャラクターだ。
HARASHIMAは「コニカマン」と「HERO!」で2回デビュー戦を経験している。
「22年経った今でもどちらのデビュー戦もしっかり覚えています。デビューから22年間、思い返してみると長いけれども、常に一生懸命やってきたので過ぎてしまえば感覚的には短い。 「HERO!」でやっていた頃、会場に観に来てくれた子供が大人になってプロレスデビューした。そう思うと22年は長い期間だとは思うんですけどね」
マスクマンから「HARASHIMA」時代へ突入
2005年「ダークサイドHERO!」としてヒールを経て、2006年1月、マスクを脱ぎ素顔の「HARASHIMA」に改名。
同年12月、団体最高峰のKO-D無差別級王座を初戴冠してから、過去10回戴冠(最多戴冠記録)、通算防衛回数27回のダントツ歴代1位。まさにDDTのトップであり絶対的エースとして団体を牽引し続けてきたHARASHIMA。
改めて22年間の歴史を遡るといろいろな経験をして、試合一つ一つがそれぞれ心に刻まれている。それは全てにおいてHARASHIMA自身の成長の糧になっている。
KO-Dタッグ王座チャンピオンになった時に芽生えた意識の変化
HARASHIMAのプロレスに対する意識の分岐点は意外にも早い段階だった。
昔のDDTは今に比べると小さな団体で、HARASHIMAは興行のある時だけリングに上がった。メディアに載ることもあったが小さい枠に限られ、観る人からしたら関心が薄かった。そのため、最初はHARASHIMA自身も強い意識を持ってプロレスに向き合ってはいなかった。
転機が訪れたのは、2003年12月後楽園大会、KUDOと組んで、KO-Dタッグ王座のベルトに挑戦し、第12代のチャンピオンになったとき。「もっとしっかりしていかなきゃいけない」と、HARASHIMAの中で意識が変わった。
「プロレスを始めた当初は、頼まれたからという人助けのような感覚だった。初めてタッグのベルトを獲って団体の象徴を巻いた時に『真剣にプロレスと向かい合わなきゃいけない』と感じて意識が変わりました。正直なところ、自分でお客さんを満足させようとか、楽しんでもらおうとか、 そこまで意識はしていなかったです。それが、ベルトに挑戦しタイトルを獲ったことで意識も変わり、お客さんの声援もすごく届いて、それが力になると感じた。 いい試合、楽しんでもらう試合をどんどんやっていこうって、意識はどんどん変わっていきました」と当時の心境の変化を語った。
メジャーとインディーの団体の差を感じなかったと実感
2006年6月、Cruiser’s Game(クルーザーズ・ゲーム)で高岩竜一とのシングルマッチを敢行。高岩はメジャー団体・新日本プロレス出身。これまで数々の団体でベルトを手にしてきたレスラーだ。
HARASHIMAがデビューした当時、DDTは地域密着型の小さな団体、いわゆるインディーというポジション。そこに所属していたHARASHIMAはテレビで観ていた憧れの選手と試合ができたことに興奮した。
「いざ、肌を合わせて試合してみたら、ちゃんといい試合ができたんです。結果は負けてしまいましたが、自分が思っていた以上に戦うことができた。相手の技も受けきることができ、メジャー団体やインディー団体といった規模の差を感じなかった。会場もワーッと盛り上がって歓声を浴びた。自分の中で変わった感覚がありましたね」
普段DDTでやっていることがメジャー団体の選手にも通用したことを実感した。
「やっぱりメジャーに対する意識というか、劣等感のような感覚はあった。でもメジャー団体出身の高岩選手と肌を合わせて力負けしなかった。『同じことをやっているんだ』と確信。一つステップアップした感覚がありました」
2006年12月後楽園大会、HARASHIMAは王者・大鷲透を破りDDT最高峰のタイトル第23代KO-D無差別級王座初戴冠したことも印象深い。ここからDDTの中心でエースとして存在感を発揮する。
今まで戦ってきた全てに思い出があり、一番印象に残っている試合として一つに絞るのは難しい。対戦相手毎に印象深い試合がある。その中でも飯伏幸太との試合でいうと、HARASHIMAのベストバウトは2015年4月29日の後楽園大会。繰り出す技、試合展開など、個人的に一番面白い試合でベストだと話す。
当時、KO-D無差別級王者の飯伏に、HARASHIMAが挑戦。25分54秒、超満員札止めのファンの目の前で、両者は持てる力を全て出し切った。最後はHARASHIMAがスワンダイブ式蒼魔刀で飯伏を仕留め、第50代KO-D無差別級王者に返り咲いた。
必殺技「蒼魔刀」ができるまで
あらゆるスタイルをこなすHARASHIMAの決め技に「蒼魔刀」がある。「蒼魔刀」とは、長座の相手に助走して両ひざによる膝蹴りをする。数々の試合において「蒼魔刀」で勝利をおさめてきた。
この「蒼魔刀」は、学生プロレス時代に漫画「キン肉マン」の中でテリーマンが使っていたテキサスコンドルキックを真似してやっていたのがそもそものはじまり。
「コニカマン」の時は「コニカキック」、「HERO!」の時は「ヒーローキック」と名付けていた。「長座位状態の相手にやったら、破壊力があっていい技だって気がついた。その時『HERO!』だったので、最初は『スーパーヒーローキック』って名前にしたんです」
「蒼魔刀」という技名は、この技を食らった人が、 衝撃で朦朧とした中で過去の様々な記憶が頭をめぐって気づいた時には試合が終了している、というイメージ。当時遊んでいたアクションゲームで相手を罠にはめていくという「蒼魔灯」からもヒントを得た。
「これが一応、自分として正式な「蒼魔刀」エピソードですが、昔、DDTのみんなと多摩川でバーベキューをやった時に、黄昏れて泣いている某選手がいたので、励ますつもりでシャイニングウィザードを連発したんです。それを見ていた一部の人はそれが『蒼魔刀』の原型だというんですが、あくまでも僕自身はテキサスコンドルキックが由来なんですよ」と、「蒼魔刀」にはHARASHIMAのこだわりがある。
試合のフィニッシュ技として長座位状態の相手に蹴り技を使う選手は過去いなかった。「蒼魔刀」はHARASHIMAにとって長い歴史を持ち、これからも新たな「蒼魔刀」ストーリーが作られることだろう。
DDT=ドラマチック・ドリーム・チーム
渋谷club ATOM、後楽園ホール、そして両国国技館と会場の規模が大きくなるのを、エースとして間近で体感したHARASHIMA。
プロレスラーは個人事業主であるため、あまり集団で行動することを好まない。常識的な最低限の上下関係はあっても、控室では殺伐とした雰囲気の団体も少なくない。だがDDTは控室や移動時、和気あいあいとした空気が漂う。
昔のDDTは少人数にも関わらず、キャリアの差があったので、今のような感じではなかった。
「今の温和なDDTは僕たちで作ってきた雰囲気かなと思ってる。 みんながベストな状態で試合に臨むにはどうすればいいかを考えると、やっぱり協力しないといけない。みんなが同じ方向を見ていないと何も成り立たない。それをやってきた自負があり、歴史がある。頑張る姿勢を若い選手が見て、さらに良くなるために続けていってもらえたらと。みんながベストな状態で試合に臨むように控え室の雰囲気作りを考えました。DDTの所属レスラーだけでなく他団体から参戦した選手にも積極的に声をかけました。今でこそ団体の規模が大きくなってきたけど、昔は力を合わせないと、興行をはじめ、いろんなことができなかった。協力し合ってみんなで夢をつかむ、まさに“ドラマチック・ドリーム・チーム”っていう信念、それがDDT。DDTは協調性意識を持っている人が集まった団体なんです」
「またベルトを巻いてください」の声に応えたい
HARASHIMAの一番の願いは、プロレスを観に来てくれた観客に楽しんでもらうこと。「わざわざ会場に足を運んで観に来てくれるお客さんには、しっかり楽しんでほしいと思いますね。今日試合を観に来た人が楽しかったと思ってくれて、次の日もその次の日も、なんなら何年か経ってでも、 あの日のあの試合観て楽しかったなって思えるような試合をしたいなと思っています」
デビューして22周年を迎えたHARASHIMAに今後の目標を聞いてみた。「僕はKO-D無差別級のベルトを2019年11月に10回目の戴冠以来、巻いてない。やっぱりそこに対するモチベーションは常に保っているので、いつでも狙える時に狙っていきたいとは思っています。ファンの方にも『またベルト巻いてください』と言われることもあり、ファンの 期待に応えたい」とDDT最高峰のKO-D無差別級ベルト、11回目の戴冠を視野に目標を掲げている。
「それから、やはりDDTという団体が今より更に大きく、プロレス=DDTと言われるくらい 世の中の誰もが知っているプロレス団体のポジションを確立したい。観る人もやる人も楽しくなるような、大きな団体になっていきたいですね。団体を大きくしたいというのは昔からの目標です」
嬉しすぎるし、楽しみすぎる待望の対戦カード
間近に迫ってきた8月27日(日)後楽園ホールでの「夏休みの思い出2023」大会、デビュー22周年記念試合。スペシャル6人タッグマッチ・HARASHIMA&ヤス・ウラノ&大家健vs関本大介&高木三四郎&坂口征夫のカードが発表された。盟友・ウラノ&大家とトリオを結成するHARASHIMA。
ヤス・ウラノとは、2012年にHARASHIMA、KUDO、ヤス・ウラノの3名で「ウラシマクドウ」としてユニットを結成した仲。リング屋アルバイト時代からの関係性もあり、KO-Dタッグのベルトを一緒に巻いたこともある同志である。
そして、大家健は現在「ガンバレ☆プロレス」の代表。2015年11月の後楽園大会でタッグを組み、新日本プロレスの棚橋弘至&小松洋平組と対戦し、勝利を挙げたパートナー。
対戦相手、高木はDDTプロレス社長であり、坂口も同じDDT所属の同志である。そして、大日本プロレス所属の関本は、2010年KO-D無差別級王座に挑戦し勝利をもぎ取った相手である。
HARASHIMAのプロレス人生に関わってきた重要選手が今回選ばれた。22年間の集大成ともいえる記念試合を前にHARASHIMAは意気込みを語った。
「22年間プロレス続けてきて初めての周年試合ですけど、 参戦選手はみんなそれぞれ ベルトをかけて戦ったり、大事な試合を戦ったりっていう思い入れのある選手たちばかり。今から僕は楽しみにしています。絶対、 僕がしっかり勝ってより良い思い出となる試合にしたいと思います。よし☆[i]」
リング屋のアルバイトがきっかけでデビューしてから22年、KO-D無差別級王座をはじめ、数々のタイトルを手にしてきたDDTの絶対的エース・HARASHIMA。22年間培ってきたものをこの記念試合でみせてくれることだろう。そして、我々もこの「思い出となる試合」を目に焼き付けておこう。
(おわり)
取材・文/黒澤 浩美
写真提供/DDTプロレスリング
[i] 「よし☆」は、HARASHIMA選手の発言の締めくくりの決まり文句。気合を入れる意味が込められている。