日本独自の発展を遂げてきた「軟式野球」の将来

広尾晃のBasebll Diversity
軟式野球は、日本で発明され、発展してきた日本独自の野球競技だ。
日本に来た野球は「硬式」
1872年にアメリカの「お雇い外国人」ホーレス・ウィルソンが日本にもたらしたとされる野球だが、使用するボールは当然ながら「硬球」だった。当時の硬球は、規格がなく、製法は様々だったが、木片などの芯に糸を巻き付け、動物の皮などで覆ったものが多かった。1878年にアメリカのスポルディング社が今とほぼ同じ硬球を開発し、数年後には日本でも使われるようになる。
漱石も書いた「明治の野球」
硬球は中空ではなく、毛糸などで固く巻き締められたコアを皮革で巻いたものなので、非常に硬かった。
1905年に発表された夏目漱石の「吾輩は猫である」には、明治期の野球のシーンが描かれている。親友の正岡子規が野球好きで、その影響を受けたと思われるが、漱石は野球のボールを「ダムダム弾」と表現している。「ダムダム弾」とはイギリス領だったインドで製造された弾丸で、19世紀後半に紛争や狩猟などで使われていた。
直線に布(し)かれたる砲列の中の一人が、ダムダム弾を右の手に握って擂粉木の所有者に抛(ほう)りつける。ダムダム弾は何で製造したか局外者には分らない。堅い丸い石の団子のようなものを御鄭寧(ごていねい)に皮でくるんで縫い合せたものである。前(ぜん)申す通りこの弾丸が砲手の一人の手中を離れて、風を切って飛んで行くと、向うに立った一人が例の擂粉木をやっと振り上げて、これを敲(たた)き返す。
漱石は面白おかしく書いているが、野球の普及とともに、ボールが家屋に飛び込んだり、人に当たったりするトラブルが頻発していた。土地が狭く家屋が立て込んでいる日本では、アメリカのような広いグラウンドは少なかった。また、硬球は、子どもが遊ぶうえでも危険だった。
テニスボールなどを代用
そこで日本では、テニスボールを使った野球が普及した。テニスボールは中空で軽くて、飛距離も野球の硬球よりは短い。少年たちは、テニスボールを打ち、投げて野球を覚えていた。ただ、明治期はテニスボールは輸入品で高価だったこともあり、その使用は限定的だった。
日本のテニス愛好家の中では、1880年代半ばからゴム製のボールが代用品として使われるようになったが、少年野球もテニスボールのほか、各種のゴムボールを使うようになっていた。
軟式球の発明
1913年に、今の「夏の甲子園」の前身である全国中等学校野球優勝大会が始まると、小学生の間でも野球熱が高まった。しかし日本の狭い国土で、子どもたちが安全に野球に親しむことができる「ボール」はまだなかった。
1918年、こうしたニーズに応えて京都の教員や文具メーカーなどが中心になって「軟式球」が開発された。
「軟式球=軟球」はゴム製で中空になっている。縫い目がない代わりに表面には凹凸がある。
ゴム製なので、身体に当たっても大きな怪我をすることは少なく安全だった。ゴム製なので弾むが、バットの芯に当たっても硬球よりも飛距離は出なかった。また、軟球は、一つ一つ手作りの硬球と異なり、大量生産が利いて安価だった。
軟球によって広がった野球
国土が狭く、広いグラウンドが少ない日本で、野球が「ナショナルパスタイム」と呼ばれるほどに普及したのは「軟球」の存在が非常に大きかった。
軟球の普及によって、高等小学校(今の中学、小学校5、6年に相当)以下の子供たちに野球は急速に普及した。
地方の新聞社は、朝日新聞、毎日新聞が主催する「甲子園大会」を真似て、少年野球のトーナメント大会を主催した。
1929年には大人の軟式野球の団体である「日本軟式野球連盟」が生まれる。硬式野球をするほどの予算がない企業や地域の愛好家なども軟式野球を楽しむようになったのだ。

「野球遊び」が大人気に
戦後、日本を統治した進駐軍の中心はアメリカだったが、日本でもアメリカでも人気の「野球」を統治に活用することとした。終戦の翌年である1946年には、早くもプロ野球のリーグ戦の再開が認められたし、中等学校野球(1948年からは高校野球)も再開した。
終戦直後は、空襲や建物の疎開などで都市の真ん中にも大きな空き地があった。子供たちはこうした空き地に粗末なバットやグローブを持ち寄って「野球ごっこ」に興じたが、この時に使われたのが軟球だった。軟球がなければ、戦後、野球の復興はなかったと言ってよいだろう。

王貞治も少年時代は「軟球」
昭和40年代まで、中学生以下の少年が、硬球に触れる機会はほとんどなかった。
日米通じて最多の856本塁打を打った巨人の王貞治は、中学時代にのちの巨人の打撃コーチである荒川博に出会っている。荒川は中学野球の試合で、右打席に立っていた王に「左打ちにしなさい」と言ったと言うが、この時の試合も「軟式野球」だったのだ。
軟式野球は少年野球だけで愛好されただけではない、用具代も硬式よりも安く、狭いグラウンドでも試合ができたことから、大人の愛好者も増えた。今でも全国で行われる「シルバー野球大会」「早起き野球大会」なども軟式だ。
1956年には「もう一つの甲子園」と言われる全国高等学校軟式野球選手権大会も始まった。

アメリカから来た硬式少年野球
しかし「軟式野球」は、日本だけのものであり、アメリカなど外国ではほとんど普及していない。
1950年代半ば、アメリカの少年野球(6歳から16歳)である「リトルリーグ」が日本で始まった。アメリカでは大人のボールより一回り小さい硬球を使う。またルールの制約もある。
リトルリーグからは中学世代の硬式野球である「リトルシニア」が派生した。さらに1970年代に、南海ホークスの大監督だった鶴岡一人が、リトルリーグの野球を日本式に変えた「ボーイズリーグ」を始める。ボーイズリーグからは「ヤングリーグ」が派生した。
また「リトルリーグ」とは別のアメリカの少年野球である「ポニーリーグ」も日本で始まった。九州を中心に「フレッシュリーグ」も始まった。
現在では中学以下の硬式野球団体は「リトルリーグ」「リトルシニア」「ボーイズリーグ」「ヤングリーグ」「ポニーリーグ」「フレッシュリーグ」などがあり、競技人口は合わせて10万人程度と言われている。
実質的に絶滅した「野球遊び」
一方で、都市の開発が進み、空き地が減るとともに子どもたちの「野球遊び」の場は減少した。さらに、近年全国で「公園でのボール遊び禁止」になったために「野球遊び」は実質的に絶滅した。
サッカーなど他のスポーツも盛んになる中で「野球離れ」が進み、スポーツ少年団に所属する小学校の野球部、中体連に所属する中学校の野球部は、部員数が激減している。さらに軟式高校野球も、参加校、競技人口ともに減少している。

「軟式野球」の魅力を再発見すべき
軟式野球は、ボールが飛びにくいと言う特性があるため、2006年にはより飛距離がでるように公認球が改定された。またボールがよく飛ぶバットを導入するなど、関係者は軟式野球の魅力を高めるための努力を続けているが、硬式野球と同様、競技人口が減少しているのが現実だ。
2024年、高校硬式野球部は12万7031人に対し、軟式は7716人と16分の1だ。
軟式野球は、野球を「安全で誰にでもできるスポーツ」にし、日本の野球を普及させるうえで大きな役割を果たした。今後も野球を普及させるうえで「軟式野球」は、不可欠だ。
「軟式野球」の魅力を再発見する努力が必要だろう。