関東大学野球選手権優勝、桐蔭横浜大学に学ぶ 強いチーム作りには何が必要か? 【前編】
「チーム作り」には正解がない。
ただ、そのヒントはここにある気がする。
関東地区大学野球選手権大会を目前に控えたある日。桐蔭横浜大学のグラウンドには、神奈川大学野球秋季リーグ戦で2季ぶり12回目の優勝を果たした選手たちの姿があった。昼前には全体練習が終わり、各々自主練習を始める。併設されている桐蔭学園高校とグラウンドを共同使用しているため、高校の授業が終わる時間までにグラウンドを明け渡さなければならない。
限られた時間で自主練習をする選手たちを見やりながら、今年のチーム作りのキーマンとなった主将、エース、4番、捕手の4選手に話を聞いた。そこには、ただ野球が強いだけではない、理想的な組織の在り方があった。
キーマン①「主将」
11月9~12日に行われた関東大学野球選手権で、桐蔭横浜大は7年ぶり2回目の優勝を果たした。明治神宮大会が中止となってからは、関東五連盟の1位と2位、計10校が集うこの大会で頂点に立つことがチームの目標だった。
優勝を決めたあとの囲み取材で、齊藤博久監督は加賀航主将(4年・東海大相模)についてこう語った。
「加賀は僕のことを100%信頼してくれていたと思います。監督そこは違うんじゃないですか? というのがあったとしても否定はしないんですけど、加賀は監督の方針はこうなんだからこういう風にやっていこうと強く言ってくれていました。選手に的確に伝えてくれた。だから、僕が言うのも変ですけど、この学年は監督と選手の信頼関係が非常にあったと思います。それを作ったのは加賀です」
そんな加賀を主将に指名したとき、齊藤監督は「厳しいチームにして欲しい」と伝えた。
「キャプテンに指名されると思っていなかったので驚きました。僕は試合にずっと出ているような立場ではなく、去年あたりからは盛り上げ役のような立場でベンチにいました。試合に出たいという気持ちもありましたが、割り切ってチームのために先頭に立ってガツガツいく。そこを評価してくれたのだと思います。監督さんに言われる前から、キャプテンじゃなくても4年生になったら厳しいチームにしたい、チームを変えたいと思っていました」
齊藤監督と思いが一致していた加賀は、主将として新チーム作りに着手した。「自分の中で1年間掲げていたのが『チームから嫌われよう』ということでした」と、まずは嫌われ役に徹することを決めた。ただ、厳しくするだけだと部員たちに不満が募る恐れもある。
「そこは、副キャプテンの3人が、僕がそういう立場になっているというのを理解してくれてよくやってくれました。3人がいなかったらやっていけなかったと思います。僕が厳しくしたときは副キャプテンの誰かが、逆に副キャプテンが厳しくしたときは僕がフォローする。何人もが同時に怒ることのないようにしていました。そうやろうと4人で話し合ったわけではなく、自然とそういうフォローのしあいができたので、言われた選手も次はやってやろうという気持ちになったのかなという気がします」
副キャプテンである霜田渓外野手(4年・東農大二)、瀬戸泰地内野手(4年・仙台育英)、森下蓮央捕手(4年・岡山理大付)の協力も得ながら、加賀は4年生が軸となるチームを作っていくことにした。そのためには、4年生全体で下級生にその姿勢を見せなければならない。今まで下級生に頼りがちだった作業なども積極的にこなすようにした。みんな、快く加賀に協力してくれた。練習面では、自主練習への取り組みを強化した。
「全体練習も大切ですが、周りと差をつけるのはやっぱり自主練習の時間だと思います。今までもやろうとは言っていたんですけど、言葉だけになってしまうこともあって。それに、自主的にやるものなのでどうしても強要ができないんですよね。じゃあ、どうしようとなったときに、やっぱりまず4年生がやろうということになったんですよ。4年生が練習して、下級生が帰りにくいような雰囲気を作ろうと。最初は本当に4年生だけでしたが、それを見てか、下級生も徐々に練習をしてくれるようになりました。今となっては普通の光景になっていますが、1年前はこんなにいませんでした」
加賀はそう言いながら、グラウンドのあちこちで自主練習に励むチームメイトを見渡した。言わなければならないことは嫌われてでも言い、4年生の意識を高め、自主練習を強化する。加賀の取り組みで間違いなくチームは強くなっていったが、それは言葉だけではなく自らも動いて背中を見せてきたからだろう。ミーティングでは「私生活ありきの野球」ということも話してきた。他人に厳しくしているのに、自分に厳しくしないわけにはいかない。どんな質問にも詰まることなく答えが返ってくるところにも、加賀が常に様々なことを意識して生活しているのが感じられた。
関東大学野球選手権の決勝。勝利まであと3アウトとなった9回裏、それまでベンチで仲間を鼓舞していた加賀がレフトの守備についた。加賀のいなくなったベンチから「キャプテンはいないけど、こっちもしっかりやろう」という声が聞こえた。加賀の存在の大きさと、ひとりひとりが自覚を持って戦っていることを感じた瞬間だった。
「勝てなかったら、自分が今まで厳しくやってきた意味があるのかわからなくなったと思うので、ホッとしました」加賀は最後にそう言った。
関東大学野球選手権の優勝は、加賀のこの1年が正しかったと証明してくれた。「嫌われ役の主将」は、チームメイトたちの手に支えられ最高の笑顔で宙に舞った。
キーマン②「エース」
サードを守る渡部健人内野手(4年・日本ウェルネス)は言った。
「うしろから見ていて楽しいです」
神奈川大学リーグで4完投3完封、関東大学野球選手権では3完投でチームを優勝に導いた、エース左腕・片山皓心投手(4年・日立一)のことだ。安定感のある投球を見せ続けた片山だったが、高いポテンシャルを持ちながらもそれを結果につなげることができたのはこの秋が初めてだった。
片山がこの秋、一番多く口にした言葉は「自信」だった。神奈川大学リーグの初戦で初完投、初完封をしてから結果を出すたびに自信をつけ、それがさらに次のピッチングへとつながっていった。今まで、秘めた可能性に周囲から高い期待を寄せられながらも、思ったような結果を出せなかった片山にとって「自信」は開花への最後のピースだった。
片山の肩甲骨は柔軟性が高く、肩関節の可動域が広い。スポーツにおいても健康であるためにも肩甲骨が柔らかいことのメリットは大きいが、もともとネガティブな性格である片山は「写真を見ると自分だけが違ってコンプレックスだったんです。僕は普通が良くて」と、それを短所ととらえていた。そんな思考をプラスに転換させてくれたのが、中学時代に出会った日立一高の中山顕監督だった。中山監督に褒めてもらえたことで「自分にも可能性があるかもしれない」と思えるようになった片山は日立一高に進学したが、思うような結果が出せぬまま高校生活を終えてしまった。
肩関節の可動域が広い分、それをコントロールすることも難しく、当時の片山は投げてみなければいい結果になるかどうかわからないという投手だった。それでも、中山監督は片山が開花する日を信じ、同じく片山に可能性を感じてくれた齊藤監督にあずけた。
桐蔭横浜大硬式野球部の生活環境はさまざまで、実家から通う者、一人部屋の学生寮で生活する者、以前は寮に空きがなかったこともあり他の集合住宅で一人暮らしをする4年生もいる。片山も4年間一人暮らしをしてきた。「料理はあまりできないです」と笑いながらも、野球のために食事の内容には気をつけてきたと話す。また、カップラーメンやファストフードを食べない家庭で育ち、一人暮らしをするようになってからも食べたことがないという。
桐蔭横浜大にはピッチングコーチがいないため、練習も自分自身で考えてやらなければならない。誰に聞いても「片山は、助言がなくても自分の足りないところがわかって、やるべきことをきちんとできる選手」と言うが、片山自身が本当に自分の体を理解し、コントロールできるようになったのは3年生の12月になってからだった。
「高校のときも比較的自主性を重んじるチームでしたが、当時はそれをはき違えていました。自由だから楽できる、という感じで。大学でピッチングコーチがいなくて本当にひとりになったときに、自主性ってこういうことなんだと感じさせられました。これは自分でやるしかない。それで、どうしようかと思ったときに高校のメニューを見返してみました」
3年春、片山は右ひじを疲労骨折し、しばらく野球のできない日々が続いた。そんなとき、高校時代に教わったメニューを改めて見返した。当時は中山監督が意図もすべて説明してくれていたが、理解できていなかったため体現することができなかった。
「誰も教えてくれない中で改めてメニューを見て、自分で考えることで『こういう意図があったのかな』と発見できたんです。それが3年の12月ごろでした」
ここから、片山は飛躍的に成長を遂げた。それまでは力投型だったが力感をなくすようにしたところ、疲れることなく最後まで投げ切ることができるようになった。投げたあとも、以前は肩に張りが出ていたが、お尻周りに張りが出るようになった。秋季リーグでは6試合に先発、1試合リリーフ登板もしたが、疲労がたまることはなく4完投3完封し、最優秀投手、ベストナインに輝いた。
そして迎えた関東大学野球選手権。肩甲骨の柔らかい片山は、連投した方がコンディションが良くなるという。とはいえ、初戦から1日空けて準決勝、次の日に決勝という日程はさすがに疲労も心配される。それでも、片山にはどうしてもすべての試合で投げたいという強い思いがあった。
桐蔭横浜大は、2012年の明治神宮大会で優勝し、創部7年で初の日本一となった。当時エースだった小野和博投手(現SUBARU)は全4試合に先発し、全国の舞台で3完投3完封という成績を残した。今年は明治神宮大会が中止になり、この関東大学野球選手権が一番大きな舞台となる。
「日本一になったときに小野さんが3完投して準決勝、決勝も完封だった。監督さんに『小野ができるならおまえもできる』と言ってもらえて、やろうと思いました」
決勝の前日にこう語った片山は、翌日の決勝では最後まで球速も質も落とさなかったばかりか、最終回に自己最速を更新する148キロを計測し、3失点完投でチームを優勝に導いた。チームを勝たせることができる、それがエースだ。
ここまで、故障などで苦しい時期もあったが、そんなときは中学のときから期待してくれていた高校の恩師、中山監督を思い出した。
「もともとそんなに長く野球をやるつもりはなかった自分が、ここまでくるきっかけを作ってくれた。その人の期待を裏切らないように、と思ったら、自然と手が抜けなくなりました」
そんな恩師の期待にやっと応えることができ「自信」を手にした片山は、さらに上を指してこの先も野球を続けていく。