ブルーウェーブ日本一から25年 色あせない”がんばろうKOBE”の記憶 小川博文氏「神戸市民と一緒に勝ちとった優勝」
1995年、阪神淡路大震災があったこの年、神戸を本拠地に置いていたオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)はパ・リーグ優勝を果たした。翌96年はリーグ連覇そして日本一を達成した。
被災した神戸市民に勇気と感動を与えた優勝として、今も後世に語り継がれている。2021年は日本一を達成してから25年が経つ。この2年間を球団OBの小川博文氏・鈴木平氏に協力いただき、前後編で振り返る。
前編では小川博文氏に当時の状況などを伺った。
(取材協力 / 写真提供:オリックス野球クラブ、以降敬称略)
震災当時、自身も大きな被害を受ける
1995年1月17日、甚大な被害をもたらした阪神淡路大震災。神戸地方では最大震度7、マグニチュード7.3(※気象庁発表)という当時の戦後最大規模の災害であった。
当時の状況を今も鮮明に覚えている。
「僕は住まいが西宮ということもあり、(地震の)揺れは非常に大きかったです。玄関を開けたら周りが陥没していて。近所の安否を確認するのに隣の家に行ったのですが、恐怖で震えていました」
アスファルトが割れ、一軒家が傾くなど信じられない光景を目の当たりにした。ガス漏れも起き、陽炎(かげろう)が出ていた。
一番困ったのは水だった。断水が続き、破裂した水道管から水が出ているのを見つけた。それをバケツでくみに行って確保した。
この状況を見た知人が、鳥取県から軽自動車に水を入れたポリタンクを30ケースほど積んで駆けつけてくれた。その水を近所にも配って回った。
「食料と一緒に届けてくれたのですが、行動してくれたというのがありがたくて心の中で泣いてましたよ。近所や地域の方々とも毎日支え合っていました」
「がんばろうKOBE」市民と共に掴んだリーグ優勝
その後球団を通じて選手が全員無事であることを確認し、予定通り2月1日から沖縄・宮古島でキャンプイン。チームメイトと顔を合わせ安堵感がありながらも、複雑な思いの方が強かった。
「被災された方や街の様子を思うと『自分たちは野球をやっていていいのか』と。仰木(彬)監督からは『とにかくキャッチボールからでいい。今は体ができていなくてもいからゆっくりやろう』と言っていただきました」
シーズンも一度は神戸以外での開催も検討された。だが、宮内義彦オーナーの「こんなとき神戸を逃げ出して何が市民球団だ。一人も来なくてもいいから、スケジュール通り絶対、神戸でやれ」という強い想いもあり、オープン戦から予定通り神戸で開催した。
4月1日の開幕戦、本拠地グリーンスタジアム神戸(現:ほっともっとフィールド神戸)には3万人を超えるファンが駆けつけた。スタンドの光景を見渡し、自然と心が奮い立った。
”神戸市民と共に戦う”
ユニホームの袖に「がんばろうKOBE」を刻み特別なシーズンが始まった。
チームは6月から大きく加速する。9日に7連勝し、首位を奪い返した。7月22日には早くも優勝マジックが点灯するなど独走体制に入る。
しかし、マジック1で迎えた9月14日からのホーム残り4連戦。1勝でもすれば優勝を決められる中でまさかの4連敗。神戸での胴上げを逃してしまった。
「地元で優勝を決める」これが逆にプレッシャーとなり、普段通りのパフォーマンスを発揮できなかった。それでも神戸のファンの方々は選手たちに大きな拍手を送った。ファンの温かさを胸に、ナインは所沢へ向かった。
そして9月19日、西武球場でのライオンズ戦。4-3で勝利し、ブルーウェーブとして初のリーグ優勝を果たした。小川もこの試合、2安打1打点で勝利に貢献している。
「とにかく『神戸の街を元気にするんだ』と。自分たちだけじゃなく、市民の皆さんや被災された方々全ての人と一緒になって戦うという思いでやっていました。僕らの後ろには(神戸の)皆さんがついている。本当に背中を押してもらいました」
日本シリーズの相手は野村克也監督率いるヤクルトスワローズ。ID野球と心理戦に翻弄されてしまい、初戦から苦戦を強いられた。それでも小川は意地を見せる。
3連敗で大手をかけられた第4戦。0-1とリードを許した9回表、0点で終わればシリーズ敗退というまさに崖っぷちの中、この回先頭打者として打席に入った小川は完封目前の相手先発・川崎憲次郎から同点本塁打を放つ。延長に持ち込み、12回に勝ち越して一矢を報いた。
「僕の中ではもう1回神戸に帰りたいというのがありました。あの時は無心で打ったホームランでした。振り抜いて手ごたえも十分だったのですが、ただ観客が多くてどこに飛んだか全然わからなかったんですよ(笑)審判の方が手を回してて初めて分かったくらいでしたから」
しかし、結果はこの1勝のみに終わり、シリーズ制覇には届かなかった。
この年、小川は120試合に出場し打率.272。二塁を中心に内野全ポジションを守りながら、1番以外の打順を全て務めた。
「地元神戸での胴上げ」「日本一」
この2つの”忘れ物”をとりに、翌96年のシーズンに臨むことになった。
本拠地神戸で連覇、そして悲願の日本一
「今年こそ神戸で仰木監督を胴上げする」キャンプから目標は明確だった。
小川は開幕戦に4番・遊撃で先発。試合もエース星野伸之が完封勝利を決め幸先のいいスタートを切る。
しかし、4月は首位で終えるものの、5月以降は日本ハムに首位を奪われる。7月終了時で2位ながら4ゲーム差をつけられた。
前年とは逆に追いかける立場になったが、全く焦りはなかったという。
「前年の優勝を経験していたので、多少離されていても気にならなかったです。やっぱり逃げる方が辛いでしょう。ペナントレースの中で『ここは落とせない』という試合は落とさなかったですし、粘り強さというものは頭1つ抜けてたんじゃないかなと思います」
その言葉通り、終盤にかけて一気に加速した。8月と9月でそれぞれ貯金8ずつ記録し、首位を奪い返す。その間、日本ハムとの直接対決では8勝2敗2分、8月は1敗もしなかった。
そして9月23日、マジック1で日本ハムとの一戦に臨む。グリーンスタジアム神戸には前年果たせなかった地元での胴上げを観るべく、約4万人の観衆が詰めかけた。
試合はシーソーゲーム。8回に3度目のリードを奪われ、9回2アウトとなったその時、奇跡の逆転劇が始まる。代打で登場したD・J(ダグ・ジェニングス)が起死回生の同点本塁打を放ち、敗色濃厚の状況が一変した。
延長戦に入り10回表を0点で切り抜け、その裏ブルーウェーブの攻撃。先頭の2番・大島公一が安打で出塁すると打席は3番・イチローを迎えた。
あらゆる期待を背負い”イチローコール”に包まれる中、2球目外角の球を流し打ちレフト線へ。守備がもたつく間に1塁走者の大島は一気にホームイン。若きスーパースターがサヨナラ打で決めるというこの上ないストーリーとなった。
「もう本当にね、あの場面でちゃんとスターが決めるんですよ(笑)そこに打席が回ってきて、シナリオ通りに決めてくれたので。前年もですけれども何か僕らだけの力じゃないような気がしましたね。チームメイトがいてファンの方、被災された方たちが足を運んでくれてみんなで勝ち取った連覇だと思うんです」
セ・リーグの覇者は長嶋茂雄監督率いる巨人。この年は最大11.5ゲーム差を引っくり返し「メークドラマ」と呼ばれこちらも劇的な優勝を決めていた。
ブルーウェーブにとっては2年連続の日本シリーズ。前年の経験から、戦い方や個々の準備も万全にして臨めたという。
試合は前年とは真逆の展開に。東京ドームでの初戦からブルーウェーブの3連勝で一気に大手をかけた。第4戦は落とすも第5戦、ついに悲願の瞬間が訪れる。
3回表に先制されるもその裏にこのシリーズMVPを獲得するニールのタイムリーで逆転。小川も2点タイムリーを放つなど一挙5点を奪った。最終回、鈴木平が0点に抑え5-2でゲームセット。神戸での日本一を達成し、最後のミッションを達成した。
「それはもうね、一気に想いが爆発したというか、『俺たちはやったんや!』という感じでしたよ。神戸のファンの方の前で日本一を見せられたことが何よりも嬉しかったです」
この年は、110試合に出場して打率.288。遊撃をメインに守り1・2番以外の打順を打ち日本一に貢献した。
「神戸にこだわっているんです」熱い神戸愛
95年のリーグ優勝・96年の日本一。ブルーウェーブは神戸復興のシンボルである。
「スポーツの力は計り知れないです。その中で市民の皆さんと一緒になって前を向いて歩んでいく。その先頭がブルーウェーブだったのかなと思います」
震災から26年経ち、神戸の街は建物も復旧し活気を取り戻している。しかし、心の傷はこれからも完全に癒えることはない。自身も被災した立場として、風化させてはいけないという使命感を持っている。
現在はオリックス野球クラブのコミュニティグループに所属。地元の小学校訪問やバファローズジュニアのコーチを務め、自身の経験を子ども達や保護者の方達に伝えている。
「経験者たちがしっかり次の世代に伝えていく。それが大事です。自分の子どもたちにも、『1月17日は特別な日なんだよ』と言っています。みんなで支え合って生きている。それが強く自分の中にあるので、これからも大切にしたいです」
01年に横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)へ移籍後もアンダーシャツの袖に「がんばろうKOBE」と刺繍を入れてプレーしていた。神戸への愛着は人一倍強く持っている。
「もう神戸大好きです!人生の半分以上こちらに住んでいますし、街並みもすごく好きです。復興してさらにこの先どう成長していくのかを最後の最後まで見ていきたいです。だから僕は神戸にこだわっています」
最後の質問で今後の夢を伺うと「またいつか指導者としてユニフォームを着たいです。子ども達がオリックスに入団して将来一緒に戦って優勝できたら最高ですよ!」と明かしてくれた。
自他ともに認める熱い男。神戸の復興だけでない、夢の続きはまだまだ続いている。
次回、96年の日本一の際に胴上げ投手となった鈴木平氏に登場いただく。
(取材 / 文:白石怜平)