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「まさかこんなに時間がかかるとは…」埼玉武蔵ヒートベアーズ 由規 1771日にわたる復帰への道のりと現在地「自分が体現できて教えられることが一番の教材に」

BCリーグ・埼玉武蔵ヒートベアーズから楽天モンキーズに移籍し、台湾リーグへ挑戦することになった由規投手コーチ兼投手。

仙台育英高校では夏の甲子園に出場し、155km/hの剛速球で注目を浴びた。ヤクルトに07年の高校生ドラフト1位で入団すると早くから頭角を表し、10年には当時日本最速の161km/hをマーク。本格派投手の代名詞となった。

しかし、翌年から長い怪我との闘いを余儀なくされてしまうことになる。手術・リハビリには約5年を要しながらも神宮のマウンドに帰ってきた。

今も現役として投げ続けている由規投手に埼玉在籍時にロングインタビューの協力をいただいた。ここでは長い闘いのプロセスなどを訊いた。

(取材協力:埼玉武蔵ヒートベアーズ、取材 / 文:白石怜平 ※肩書きは当時・以降敬称略)

11年9月、右肩の違和感が闘いの始まりに

由規の怪我との闘いの始まりは2011年。この年は離脱前まで7勝を挙げ、防御率も2.86と安定した投球を見せていた。

異変が起きたのはチームが中日と優勝争いを繰り広げていた9月のことだった。右肩の張りによる影響で登録抹消。クライマックスシリーズのマウンドに立つことはできなかった。

「初めての感覚でしたね。最初の感じも投げ終わって、『肩上げづらいなぁ』と思ったのですが、まさかこんなに時間かかるものだと思わなかったですね」

長い戦いになるとは当時は想像もつかなかった

翌12年も肩の状態は一向に上がらない。投げた後の回復も以前までのように追い付かない状態で、悪化の一途を辿るばかり。当初は違和感だった肩は痛みへと変わり、物を拾ったり髪も洗うのもままならないなど日常生活に支障をきたしていた。

13年に手術も、翌年の実戦復帰では155km/h

その間、すがる思いで全国の病院を回っていた。20ヶ所以上を転々とし、気功の先生やパワースポットへ行くなど、「神頼みでした」と語った。

13年、ついに右肩へメスを入れることを決断。同年4月11日に内視鏡でのクリーニング手術を受けた。

「自分では覚悟していました。このままズルズル行くのも嫌でしたし、都度麻酔を打った状態でキャッチボールをしても良いときの状態には届かない。だったら、一度クリーンな状態にしてリハビリをこなしていく方が近道ではないかと思い決断しました」

決断した理由を明かしてくれた

手術から約1年2か月後の14年6月、ファームで792日ぶりの実戦マウンドに立った。1イニングの登板だったが、最速155km/hをマークするなど無安打無失点、2奪三振。21球中11球が150km/hを超えていた。

「155km/h出てそこでほっとしたと言いますか。1試合投げただけでしたが、できない期間が長かったので気持ちよく野球ができると思えました」

15年オフの育成契約から、実力で支配下に

15年も肩との相談になった。ブルペンでの球数を増やし連投も解禁するなど、着実に復帰への階段を登って行った。

しかし、球団もいつまでも待つわけにはいかなかった。この年も一軍登板はなく、オフには育成選手へと移行。背番号「121」に変更し16年を迎えた。

「このまま支配下になれなかったら戦力外だと思っていたので、とにかく支配下に上がって一軍で投げることを目標にしないと、来年はないと考えていました」

間隔を空けながらも、与えられたチャンスでは結果を残した。最終テストは6月22日、イースタン・リーグでの巨人戦(ジャイアンツ球場)。当時の真中満監督、さらには衣笠剛球団社長(現:代表取締役会長兼オーナー代行)も視察に駆けつけていた。

由規は5回98球を投げ、3安打2失点。自責点は0で最速151km/hをマークし8奪三振と好投。実力で支配下登録を勝ち取った。

昇格テストで好投し支配下へ復帰した(写真はイメージ、球団提供)

1771日ぶりの復帰マウンドと1786日ぶりの勝利

そして、ついに長いトンネルから出る日が来た。同年7月9日の中日戦、一軍のマウンドに背番号「11」が戻ってきた。本拠地神宮球場はこの日着用するユニフォームに合わせ、スタンドがグリーンに染まった。

11年9月3日の巨人戦(神宮)以来、実に1771日ぶり。試合前に降っていた雨も、復帰を祝うかのように開始前には止んだ。クラブハウスからグラウンドに入り、ベンチへ向かうと復帰を待ち侘びたファンから歓声を浴び続けた。

初回、3回と1点ずつを失うも味方打線が奪い返し4回まで2−2。5回にもう1点を失うも6回もマウンドへ上がった。3連打で無死満塁のピンチを招くと、代打・森野将彦へ投じた94球目が外れ押し出しとなりここで交代となった。

6回途中を10安打6失点(自責点5)で復帰戦は白星スタートとはならなかったが、球場全体が感動に包まれたこの日を改めて振り返った。

「もちろん一軍の試合に投げているので勝たないといけないのですが、その前にバッターと勝負できている感覚の方が何より嬉しくて。球場の雰囲気も完全に後押ししてくれましたし、気づいたら投げていてもう終わっていましたね」

復帰のマウンドは気づいたら終わっていたという

復帰戦は悔しくも勝利で飾れなかったが、その”忘れ物”をすぐ取りに行った。復帰2戦目となったのは7月24日、相手は前回と同じ中日戦。今回は敵地ナゴヤドーム(現:バンテリンドーム ナゴヤ)での登板となった。

立ち上がりを無失点で切り抜けると、その後も中日打線を抑え込んで行った。5回1/3を投げ、4安打3奪三振で2失点の投球だった。後続の投手も抑え、1786日ぶりの勝利を手にした。

「神宮で投げた時よりも、もっとバッターと勝負できてる感覚がありました。『この場面は絶対に点数をやってはいけない』とか、『ここは1点取られてもOK』など、状況判断ができるようになっていた。それがよかったのだと思います」

約5年のリハビリも乗り越え、今も投げ続けている(球団提供)

「まだやりたいと思わせてもらった」地元での復帰マウンド

その後も間隔を空けながら登板を重ね、16年は5試合に登板し2勝3敗、防御率4.56の成績をマークした。17年も5月から一軍に合流し、10試合の登板で前年を上回る3勝(5敗)を挙げた。

しかし、18年は開幕から一軍で先発ローテーション入りするも、地元仙台での楽天戦で暗雲が立ち込めてしまう。投球中に右肩へ違和感を訴え、4回裏まで投げたところで降板した。

「投げた瞬間に”あれ?”という痛みが走ったので、これはまずいなと。またぶつかったような感覚があったのですが、あの時は骨挫傷でした。インナーマッスルが効かなくなってしまい、肩のポジションが悪くなったまま投げ続けたために挫傷してしまったんです」

18年、再び右肩を痛めてしまう

状態が上がらないままシーズンが終了。球団から戦力外通告を受けた。現役続行を決意していた中、地元球団の楽天から育成契約ながらオファーを受け入団した。

19年はファームで12イニング無失点など結果を残し、7月下旬に支配下選手登録への復帰を果たした。

そして9月26日、レギュラーシーズン本拠地最終戦の西武戦で移籍後初マウンドに上がった。481日ぶりの一軍登板だった。

背番号「63」を着けた由規は最速150km/hをマークするなど、1回を無安打無失点に抑えた。この経験が、今も野球人としての炎が消えないきっかけの一つであった。

「ヤクルトの復帰試合もそうでしたが、あの時も苦労を積み重ねてきた試合だったので、普段とは違った瞬間でした。地元に戻ってきてまた一軍で投げることができた。

あれは僕の中でも”まだやりたい”と思わせてもらった試合ではありました。この試合があったので、楽天を退団するときに”お腹いっぱい”にはならなかったんです」

地元で上がったマウンドが今も投げ続ける原動力になっている(球団提供)

20年は一軍登板の機会がなく、この年限りで楽天を退団。肩の状態も回復しており、「やれるところまでやりたい」と12球団合同トライアウトに参加した。

NPBの球団からは声はかからなったが、翌シーズンからBCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズへ入団し、現役を続けることになった。

「自分が体現できて教えられる」由規だからできること

入団一年目の21年は開幕投手を務め、6月終了までに8勝を挙げる活躍を見せた。同地区の最多勝利をマークするとともに、チーム創設初となる地区優勝の原動力となった。

NPBへの復帰を志していたがオファーはなく、この年限りで復帰という目標にはピリオドを打った。昨年からは投手コーチを兼任。NPBを目指す若い選手を指導する立場にもなった。

「昨年からコーチを兼任することになって、野球のスタイルが変わりました。現役をやりながら選手に伝える立場なので、これも経験です。日々勉強になります」

ベアーズでは投手コーチも兼任した(中央左:球団提供)

これまで何度も訪れた選手生命の危機を乗り越え、今も現役としてマウンドに立ち続けている。野球人・由規はこれからどこへ向かうのか、目指す方向性を語ってもらった。

「野球も時代が進むにつれてどんどん変わっていってます。僕もさまざまな世界の野球を経験しながら現役そしてコーチへと率先して動いています。

これは僕の中ではすごい得だと思っているんです。自分が体現できて教えられるというのが一番の教材になる部分だと思いますから。

少しでも現役を続けていく中で若い選手たちに”あぁいう選手になりたい”と思ってもらえれば嬉しいですし、自分の価値をこれからも高めていきながら野球人生を送れたらいいなと思います」

7月1日に台湾・楽天モンキーズへの入団を電撃発表。初めての海外リーグへの挑戦となった。

今も現役としてプレーするプロセスの中、上述の通り様々な困難があった。その裏側には、飽くなき探究心や怪我を通じて変わった考えなどがあった。

(つづく)

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