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『サッカー、やめよう』からプロ選手へ…サッカー少年の夢を繋ぎ止めた支援 ~(第4回)いわてグルージャ盛岡、震災に向きあい続けた岩手のサッカー人たち

2011年3月11日、日本列島を襲った東日本大震災で、多くの被害を受けた岩手県。いわてグルージャ盛岡(以下グルージャ)メンバーをはじめとする、岩手のサッカー人たちが取り組んできた復興への取り組みは、試行錯誤と葛藤の連続だった。

『サッカーで夢を与えることができる』『自分たちのやっていることは、一時の気晴らしにしかなっていない』『自分のやるべきことは、サッカーじゃないのかもしれない』過去3回を通じ、様々な岩手サッカー人たちの取り組みと想いを取り上げてきた。

これらの支援を、被災地の子ども達はどのように感じていたのか。そこに意味はあったのか。現在グルージャが企画するサッカーレジェンドOBと岩手県中学生選抜を行うイベント『2021年頑張ろういわてスペシャルマッチ』(10月9日開催予定)の開催に寄せ、震災の日を岩手県釜石市の中学生として迎え、現在はヴィッセル神戸所属のJリーガーとして活躍する菊池流帆(きくち・りゅうほ)選手に話を伺った。(全5回連載中第4回)

サッカーがなくなった日

『俺の日常からサッカーがなくなったあの日』――菊池選手は震災の日のことを自身のNoteに綴っている。

菊池選手は当時、中学2年生。小さい頃に見たJリーグの試合、プロのプレーに憧れ、自身もプロのサッカー選手となるべく練習漬けの日々を過ごしていた。朝5時からのランニング、放課後の自主練、クラブの練習…。「とにかく、練習、サッカーが大好きでした」と語る程、サッカー中心の生活を送っていた。

(小学生時代に書いた夢(菊池選手noteより))

失われた日常、街の風景

そんなサッカー少年の毎日から、サッカーを奪ったのが震災だった。割れる窓、崩れて落下する学校のコンクリート。「地震なのに、なんで山に逃げてるんだろう」よくわからないまま避難した。耳にした津波、というのも想像がつかなかった。

山を降りる途中、これまでの日常がなくなってしまったのを感じ取った。渋滞で動かない車の中から見た道は、停電の影響で真っ暗だった。暖房もなく身に染みる寒さ。行方のわからない家族もいた。不安の中、家族で同じ部屋に集まり、毛布にくるまって夜を過ごした。

翌日、明けて見えてきた釜石の町は、封鎖都市のような雰囲気が漂っていた。

(乗り上げた船、塞がれた建物…釜石の町は深刻な被害を受けた)

「今はそういう状況じゃない」サッカーのない日々

「そこから、なぜか記憶がないんです。何にもない日が続いていたんだと思います」菊池選手は語る。

これまでサッカーをしていたグラウンドや公園は仮設住宅で埋まった。学校もなくなり、家の外に出ることも止められていた。サッカー仲間に会う方法がなく、様子すら全く分からなかった。サッカーをする場所・機会・仲間…すべてを失った。

街も厳しい状況にあった。家族や家、全てを失った人たちも身近にいた。誰も家の外に出ようとはしない雰囲気。庭でボールを蹴ろうとすると親に「今はそういう状況じゃない」と止められた。外へ出てサッカーをする、ということが許されない、というのは薄々感じ取っていた。

「大好きだったサッカーもやめようと思った。やめようと思ったというかサッカーを続ける術がなかった。(中略)練習もできるわけはないんだし」
「もうなにもかもがわからなかった。これからどうしていけばいいのか、なにをしていきたいかなんて分からなかった」(原文ママ)(菊池選手のNoteより)

カズが、サッカー教室が与えた希望

無気力になってしまっていた、と菊池選手は当時の自分を振り返った。

「サッカーは自分の生きがいで、大好きなものでした。それがなくなってしまったので何もすることがなくなってしまったんです。ただ家にいるだけ」

目標や夢を失い、過ごしていた無味乾燥な毎日が変わるきっかけになったのが、サッカーファミリーによる支援だった。

「カズさん(三浦知良選手)が歩いてきたシーンを今も良く覚えています。釜石のみんなが凄く喜んでいて、自分もジャージにサインを貰って」

震災後ひと月たった4月18日だった。横浜FCが盛岡でグルージャとのチャリティーマッチをおこなった翌日、用具の寄贈やサッカー教室の実施の為に、三浦知良選手ら横浜FCのメンバーが釜石を訪れた。

一か月ぶりのサッカー。レジェンドが目の前にいて、一緒にサッカーをしてくれた。その経験が、無気力になっていた菊池少年を奮い立たせた。

「自分の憧れ、日本で一番すごい選手と一緒にサッカーができた。当時サッカーができなかった自分に、もう一回「サッカー選手になりたい」っていう夢や希望を与えてくれました。自分がサッカー選手になるために、一番大きかった出来事でした

三浦知良選手に続いて、様々な選手、レジェンドたちが釜石を訪れた。名波浩氏、福西崇史氏、ラモス瑠偉氏…。多くの選手たちが繰り返し、サッカーを続ける夢を与えてくれた。周りの大人たちも急ピッチで支援を続ける。1か所しかなくなったグラウンドを整備し、サッカーの練習ができる環境を整えた。

サッカーファミリーへの感謝を、菊池選手はこう記している。

『あの時に来てくれた名波浩さんも福西崇史さんもラモス瑠偉さんも小笠原満男さんも野々村芳和さんもセルジオ越後さんも岡田武史さんもあの時教えた少年がプロになってるなんて知らないだろう。

サッカーをできなかった僕らにサッカー教室を開いてくれたことがどれだけの希望となったのか想像もつかないだろう。

(中略)

震災があったからこそ繋がった絆。そして縁である。
震災がなかったら果たしてプロになれていたのだろうか』

(支援で出会った沢山のサッカーレジェンドたち。菊池選手の実家には今も大切に色紙が飾られている。(菊池選手のNoteより))

震災で、支援で学んだこと――出来事をどう捉えるか

震災で失われたサッカー、繋がった縁、つかんで実現した夢――これらの経験を経て、菊池選手に生まれた信念があった。

「出来事が起きてしまうことはしょうがない。それをどう捉えるか、で人生が大きく変わる、というのを身に染みて感じました。だからこそ、どう捉えるかを自分で決めることが大事で。それなら、自分が楽しい、と感じるように切り替えることを意識しています」

皆が前向きに捉えられるように。周りの人間を大切にすることの重要性も感じている。

「一人じゃ何もできない、というのも感じていました。周りの人間を大切にして、どう助けていくか――大事なことを震災で学びました」

体験させてもらったことを、今度は自分が被災地の子どもたちに

もし仮にプロ選手として震災当時に戻ったとしたら、どんなことをしますか――この問いに、菊池選手は、自分が受けた支援を返したい、と語った。

「サッカーファミリーの支援は、僕たちサッカー少年や釜石の人たちにとって、本当に大きな意味がありました。本当に勇気づけられましたし、夢や希望を与えていただいた。感謝しかないです。

 (もし震災当時に戻ったとしたら)自分も現地に行って同じような支援をしたい、自分が体験させてもらったことを返したいと思います」

(サッカーファミリーへの感謝を語る菊池選手)

復興のためにできること

復興のために、釜石のために、サッカー人として何ができるのか。菊池選手もこの問いを考え続けている。まだ分からない、という言葉も自身のNoteには残していた。「難しいですね…」悩みながらも言葉にしてくれた。

「僕は釜石出身の初めてのプロサッカー選手なので、僕がどんどん成績を残していくことで、「自分だってできるんじゃないか」って子たちが釜石市にも増えてくれればいいな、と思っています。その為に、プレーや発信で示していきたい。だからこそ、僕は自分の限界を超え続けていきたい」

サッカーで夢を感じさせること、それが叶う、と信じさせること――菊池選手にとって大切なこのキーワードを、自身のプレーによって伝えたい、と考えている。今回開催されるレジェンドマッチ、それに関わる大人たちにも期待を寄せてエールを送った。

「サッカーに限らず、何をするにしても、自分の好きなことを追いかけるのが(子どもにとって)一番だと思っています。周りに何と言われようと、自分を信じて、「好き」、「楽しい」を続けること。それをやっていけば夢は叶う。

だから、大人たち、親たちは「できる」とか「夢は叶う」っていうことを子供に信じさせる機会や環境を作ることが一番の務めだと思います。それが感じられる、大切さが伝わる場になれば」

震災から10年となった2021年3月11日。語った決意を体現するように、菊池選手はその前後の試合となった3月6日の徳島ヴォルティス戦で自身のJ1初ゴール。3月17日の川崎フロンターレ戦でホーム初ゴールを上げた。

自分は、地元出身のプロサッカー選手として、プレーで。岩手のクラブや大人たちは、試合は勿論、イベントや様々な取り組みを通じて―。

菊池選手は釜石、そして被災地の子どもたちが一人でも多く夢を信じられる環境になっていくことを期待し、自身も限界に挑戦し続けている。

(結果で示し続ける菊池選手。被災地の子どもたちの夢を背負う覚悟でプレーしている)

次回は、これらの迷いや期待を受けて見い出したグルージャの挑戦について取り上げる。


(取材 / 文:竹之下 倫志)

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