サッカーは、復興に何ができるのか ~(第1回)いわてグルージャ盛岡、震災に向きあい続けた岩手のサッカー人たち~
2011年3月11日、日本列島を襲った東日本大震災から10年が経過した。「復興」—そんな言葉をキーワードに、今もなお傷跡を残す被災地や、被災された人に対し様々な取り組みが行われている。多くの被害を受けた岩手県。その中に、プロサッカーチームとして活動するクラブがある。現在J3に所属するいわてグルージャ盛岡(以下グルージャ)。
グルージャは、サッカーレジェンドOBと岩手県中学生選抜を行うイベント『2021年頑張ろういわてスペシャルマッチ』(10月9日開催予定)を企画、現在準備を進めている。イベントのテーマは、『子どもたちを元気に』そして『震災を風化させない』だ。
被災した地域の中で、震災に、復興に向き合い続けてきたチーム、そしてそこに所属するサッカー人たち。サッカーは、被災地に何ができたのか。そして、これから何ができるのか。震災当時、そして現在グルージャに関わる方々に、今回のイベントに込めた想いと併せて話を伺った。初回、第2回では震災当時を振り返り、震災が岩手サッカーに及ぼした影響や、その中でクラブとしての支援活動を通じ感じてきた苦悩について取り上げる(全5回連載中第1回)
サッカーの街、遠野
サッカーが盛んな都道府県はどこか――この質問に、岩手県、と答える人は少ないかもしれない。しかし、岩手県は日本サッカー黎明期から何人もの名選手たちを輩出してきた。先日まで熱闘が続いていたオリンピック。日本が唯一メダルを取得したメキシコ五輪で主将として精神的支柱となり、「伝説のキャプテン」と呼ばれた八重樫茂生氏、Jリーグ黎明期のスター軍団ヴェルディ川崎の菊池新吉・利三兄弟、アルビレックス新潟で日本人エースを担った鳴尾直軌氏、そして鹿島アントラーズのレジェンドの一人になった小笠原満男氏…。遠野高校・盛岡商業高校、という2つの強豪校を中心に、雪国という難しさを抱えながらも全国大会で何度も好成績を残してきた。
「遠野伝説」で知られる岩手県遠野市は岩手サッカー界を代表する地域の一つだ。「遠野はサッカーの街でした」菊池 利三氏(遠野出身/現グルージャGM)は語る。「学生時代も、街のイベントやお祭りに出たり。子どもたちがサッカーをやって、市民が応援する、という図式ができていました」
遠野でサッカーをしてきた人が大人になり、母校や生まれた町でサッカーを伝えていく―地域に強い思いを持つ人がサッカー文化を支え、核となるクラブチームに頼らない、地域としての一貫指導を実現していた。
広がりを見せていた岩手サッカー
独自の文化を持つ遠野以外でも、サッカー文化は少しずつ根付きつつあった。Jリーグが設立した90年代、県内にプロクラブを持たない県民にとってはまだ遠い存在だったが、岩手県で試合が開催された時は多くの観客が会場に足を運んだ。
現在、岩手県サッカー協会会長を務める佐藤訓文氏は「(2011年まで)県内のサッカー人口は右肩上がりでした」と震災前を振り返る。「子ども達も、少子化と言われながらサッカーをやっている数は減っていませんでした。数が特に多いわけではなかったですが、社会人も、小さい町の中にも市町村職員のチームなんかがあり、そこに色んな人が入ってプレーしていました。生涯スポーツとまでは言えませんが、サッカー人口は順調に増えていたと思います」
2007年には第85回全国高等学校サッカー選手権大会で県立盛岡商業高校が岩手県勢として初優勝。冬場はサッカーはできないから東北は弱い―そんな言葉を乗り越え、岩手出身者で構成された岩手県代表が頂点に立った姿は岩手サッカー人たちに勇気を与えた。沿岸地区の高校を中心に女子サッカーも活性化。2003年からJリーグ入りを目指し発足したグルージャも2005年をはじめに東北リーグ優勝、07年からは連覇を続け、J入りを見据えるところまで来ていた。少しずつ、確実にグルージャ、そして岩手サッカー界は前に進んでいた。
そして迎えた2011年。震災の日から、状況は一変した。
震災が生んだ光景・不安
その日をグルージャの選手やスタッフは様々な場所で迎えた。グラウンドで、メディカルチェックを行う病院に向かう車の中で、家族と公園で――。皆共通していたのは、何が起きたか分からない、ということだった。
「停電の中、テレビもつかない、携帯も使えない。車の中のカーナビでニュースを見ていました。これまでテレビや教科書の中でしかなかったようなものが、自分のいる街、産まれ育った街で起きていて、現実味がない、どうしたらいいか分からない、そんな状態でした。ただ、知人達の安否が分からない、それがとにかく本当に怖かった、というのを覚えています」
当時、グルージャでコーチを務めていた中村学氏(現グルージャ強化育成部・育成部長)は見た景色を語った。「電気がないので、夜は街がただ真っ暗でした。外も歩けないくらい」
朝になり、目の前にあったのは異世界の様な光景だった。寒い中、ガソリンや灯油を求める長蛇の列。「沿岸部が大変だ」という風聞、遮断された道路。想像のつかない状況がようやく把握できてきたのは1週間がたち、グルージャが拠点を置いていた内陸地域に電気が戻り、テレビを通じてヘリコプターの映像が見られるようになってからだった。
始まった支援活動。そこで見たもの、触れた人たち
中村氏はその時のグルージャを「当たり前ですが、サッカーなんかやってる場合じゃない、という空気感でした」と振り返る。「サッカーをやる為に、県外から来た選手たちも沢山いました。一方で、(大きな被害を受けた)大船渡出身の選手もいました 。練習はある。でも、サッカーはもうできないんじゃないか。それなのに今まで通りここにいていいのか。選手として自分の生計は立つのか、でも、(被災地に)なにかしなきゃいけないんじゃないか――色んなことがみんなぐちゃぐちゃになっていた状態だったと思います 」
「(トレーニングを) やめましょう。人の生死が関わってる状況です。今やれることをやりましょう」
一人の選手が挙げた声に押されるように、グルージャは他のどのクラブよりも早く、バスに乗り被災地入りした。
被災地入りして見た光景で、被害の重大さ、事態の深刻さを改めて痛感した。流された車から流れ出る油で燃え、まだ煙を上げるがれき。津波注意報勧告が鳴り続ける町内。圧倒的な泥の匂い…。選手やスタッフは、がれきの撤去に取り組んだ。そこでの被災者とのやりとりが、グルージャが岩手で活動していく原点のひとつになった 。
「商店街の中のお店の泥かきなんかから始めました。そうしたら、(被災者の人が)おにぎりや飲み物を準備していただいて。手助けに行った私たちを、自分の家・会社が流されて崩れ燃えているような状況の人たちが、もてなそうとしてくれるんです。
あるクリーニング屋を撤去した時です。そのお店の女将さんがポケットから泥だらけの1万円札を出してきて、『これで帰りみんなで食べてちょうだい』と言われてただ絶句しました。明日の生活も分からない状態で私たちにお金を渡そうとする、ということの意味。なんで岩手の人たちってこんなに温かいのか。こんな人たちに、私たちが、何をどれだけできるのか。
当然、受け取るわけにはいかない。今できることも限られる。でも、少しでもその地域が復興できて、尚且つサッカーがもしできるような状態になったら。この人たちが応援してくれる、その想いに応えることが岩手でサッカーをする意味だ、という意識を皆が持ちました」
グルージャでは今もなお毎年、シーズン開始前に選手・スタッフ向けに当時の映像や震災をテーマにした映画などを流し、出来事を伝えるチーム発足ミーティングを行なっている。
支援する被災地への交通手段も限られ、片道7時間をも越える移動。被災の影響でパニック障害を一部の選手が発症するなど、多くの難しさを抱える中、県外から来た選手も一丸となりグルージャの被災地支援は始まった。
次回は、活動を続ける中で浮かび上がったサッカーファミリーの力と、サッカーによる支援の限界と苦悩、そして今もなお続く震災の影響について取り上げる。(第2回へ続く)