Jリーガーから事業家に転身した馬場賢治 人との出会いを大切にしながら進むセカンドキャリア
2008年にヴィッセル神戸でプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた元アスリートがいる。「MIND PLUS(マインドプラス)」というアパレルブランド事業を立ち上げた馬場賢治氏。神戸で約3年間プレーした後、中学時代まで下部組織に所属していた生まれ故郷のクラブである湘南ベルマーレに移籍。その後は水戸ホーリーホックからカマタマーレ讃岐、大分トリニータ、FC岐阜と渡り歩き、2020年に入団した鹿児島ユナイテッドでのプレーを最後に、現役生活を終えた。Jリーガーとして約13年間を過ごせたことは、平均して約26歳と言われるJリーガーの引退年齢と比べれば、選手として一定の成功を収めたと言っていいだろう。
とはいえ、そのような選手だからセカンドキャリアが安泰かというと、そうではないのが現状だ。アスリートがセカンドキャリアをどう描くかは、今もなお課題である。それでも馬場氏は明るい兆しを感じている。様々な葛藤や人との出会いを経て経営者としての道を進んだ馬場氏が、経営者になることを選んだ経緯と今後の目標、アスリートのセカンドキャリアについて話を聞かせてくれた。
現役引退決断の裏には家族の存在
2020年、プロサッカー選手としてプレーを続けられるのかどうかの瀬戸際で入団したのが、鹿児島ユナイテッドだった。「拾ってもらった」と馬場氏は言う。既にそのシーズンのメンバーが決まっていた中、獲得を決めてくれたとのことだ。
そういった事情もあり、鹿児島ユナイテッドを上位に引き上げたいという思いは強かった。また、自身としては最後の所属クラブになるだろうという予感もあり、強い思いを胸に臨んだ2020年だった。ところが、コロナ禍真っ只中のこの年は「サッカー以外何もできなかった」と馬場氏は振り返る。プロアスリートであれば競技に集中するのは当然のことだと聞こえるかもしれないが、単身で鹿児島に移住し、自宅と練習場かスーパーの行き帰りを繰り返す毎日に、心身が疲弊していった。そこで改めて気付かされたのが、家族の存在の大きさだった。
翌年2021年1月に現役引退を発表する。最後は契約満了だった。でもそこに悔いはなかったという。10年以上Jリーグの舞台でプレーを続け、数々のゴールも挙げてきた。客観的にはそう評価されるだろう。しかし、本人としては必ずしも満足のいくキャリアではなかったのかもしれない。それでもコロナ禍で閉鎖的な生活をする中で、アスリートではなく一人の人間として、サッカー以上に大切な家族の存在に気が付くことができたことは、馬場氏にとって良い意味でのターニングポイントとなった。
「もうやりきった。これからは家族と過ごしたい」
これが引退を決めた理由である。契約満了時には、もっとやれたという悔しい気持ちよりも、家族のもとに帰れる安心感が大きかった。
経営者になるきっかけとアパレル業を選んだ理由
プロになって最初の所属クラブであるヴィッセル神戸に入団した時は「たくさん活躍したいし、日本代表も目指した」という馬場氏。野心を抱いてプレーしてきた。だが、年齢を重ね、サッカーの取り組み方に変化が生じたそうだ。「目の前の状況を見ながらやるべきことを選択できるようになりました」と話す。馬場氏は複数クラブでプレーしてきたが、J1からJ2にカテゴリを落としたり、また戻ったりする中で、自分の置かれた環境を理解し、適応してきた。それが長く現役でプレーを続けられた要因なのだろう。
馬場氏ほどの適応力や実績があれば、引退後もサッカー界で仕事をすることはできたと考えられる。しかし、本人にその考えはなかった。「引退してすぐはサッカーをやりたいという気持ちにならなかった」という。
引退の時期が近いことを予感した頃、セカンドキャリアについて考えることはあったものの、明確なプランを持っていたわけではなかった。はっきりしていたのは「会社員を否定するわけでは全くないですが、そういう環境でやることは考えられなかったです」と、組織に雇用されて働く考えは無かった。それでも引退直前に、アスリートのセカンドキャリアについて考えるJリーガー向けサロンに参加したことで、漠然としていた考えが形になっていく。そこで経営への興味が強くなっていくが、このサロンについて馬場氏は「ちょうど引退を考えはじめたタイミングだったのが良かったです」と話した。
馬場氏は自身のことを、人との出会いやタイミングに恵まれている人間だと語っている。良い時期にサロンやビジネススクールに参加できた。そこで学んだ後に経営者としてアパレルブランドを立ち上げることになるわけだが、この道を選んだ理由は「現役時代からやってみたかったこと」である。一見単純なようだが、ある人との出会いが背中を押したのだった。
人の意見を参考にしながらも常に自分のやり方を模索してきた
セカンドキャリアについて参考にした事例はあるか?との問いに、馬場氏はこう答えている。
「運良く色々な人に話を聞く機会がありました。アパレルの先輩に話を聞くこととかはありましたが、ひとつのことをモデルケースにするというよりは、色々参考にして独自のセカンドキャリアを進もうと考えました」
現役時代からアパレルに興味があったものの、セカンドキャリアでこの道に進もうと決めていたわけではない。最終的にアパレルブランドを自身で立ち上げる決断ができたのは、先述した「ある人」の後押しがあった。「こういう人に出会うことは大事」と語るその人は、ビジネススクールの学長だ。「好きなことを仕事にしたい」と漠然としたイメージが現実的なものになりつつあったが、やはり不安は残る。アスリートが全く違う分野に飛び込むのだから当然である。そんな時に学長から「やりたいんだったらまずやってみよう」と言われたことで覚悟が決まった。「この人と出会っていなかったら今はない」と言うほど今でも尊敬の念を抱いている。
影響を与えた人との出会いは、選手時代にもあった。選手時代に刺激を受けた人物や出来事について聞いたところ「大久保嘉人選手と2トップを組んだことです。1人のプレーヤーとして強烈でした」と即答。「凄すぎましたね。この人が気持ちよくプレーできるように自分はプレーしたいと思うほどでした」と続ける。2021年シーズンをもって現役を引退した大久保嘉人氏の名前を、迷わずに挙げた。大久保氏は輝かしい実績の持ち主でありながら、勝利へ執念を全面に出しすぎるが故に、その行動が周囲から批判されることも多い選手だった。そんな大久保氏について馬場氏は、日本サッカー界には必要な選手だったと言い切る。
一方で「自分は大久保選手と同じマインドでプレーすることはしませんでした」と口にするが、そんな大久保氏と一緒にプレーした経験は、経営者としての今に通じるものがあるとのこと。「多様な考え方があることは、選手も経営者も一緒だと思います」と話すように、自分には自分のやり方や考え方があり、新たな知識を吸収することや他人の意見を取り入れていくことで成長していくことが大事だと考えている。大久保選手に刺激を受けながらも、自分のスタイルを模索してきた。それは経営者となった今も変わらない。
馬場賢治が考える未来のセカンドキャリア
アパレル会社を起業した馬場氏だが、自身のキャリアの成功だけでなく、事業家としてアスリートのセカンドキャリア問題にも目を向けている。「既存の会社に入る選択肢もありましたが、自分が起業して頑張っている姿を見せることで、アスリートのセカンドキャリアの選択肢として示せるのではないかと思います」と言う通り、馬場氏はアスリートのセカンドキャリアにおいて、競技とは関係ない道に進む選択肢が増えるべきだとの考えを持つ。
多くのアスリートが20代〜30代前半で現役引退を迎えるが、自身が情熱を注いできた競技の世界に残って仕事を続けたいと考えたとする。しかしながら、所属チームや協会などで指導者やスタッフとして活動できる枠は、どうしても限られてしまうのが現実だ。馬場氏は自身が競技とは無関係の事業の経営者として活躍することで、アスリートにセカンドキャリアの成功事例を作るというミッションを自らに与えているようだ。
同時にセカンドキャリアに対するアスリートの考え方に変化を感じている。「後輩と話すと、引退後はサッカースクールでコーチをするなどの単純な発想では(セカンドキャリアを成功させるのは)難しいという状況を理解している人が増えていると感じます」とのこと。一般企業に就職する選択肢を持つ人が増えてきていると感じるそうだ。
では、サッカーには全く未練がないのだろうか。サッカー界から離れた馬場氏だが、2021年からはアパレル業の傍ら、母校の近畿大学サッカー部で外部コーチを務めている。この先サッカー関連の事業を始める可能性はあるか?との質問に対してこう答えた。
「引退時にはなかった教える喜びと楽しさを感じ始めたんです。将来的にはアパレル業を誰かに任せて、サッカーに費やす時間を増やしたい気持ちはあります」
やはりサッカーから離れることはできない。そして馬場氏はこう締め括った。
「どういう形かは明確ではないが、サッカー界に恩返ししたいです」
アスリートのセカンドキャリアには多様な選択肢がある。異業種を経験することで視点を広げ、そこで得た知識やアイデアは競技に還元できることだろう。馬場氏が進む道はひとつの理想形であると感じた。
(取材・文:阿部 賢 写真提供:馬場 賢治)