車いすフェンシング河合紫乃 ”負けたくない”を原動力に

“やるからには負けたくない”
あるパラアスリートの負けん気が、再び輝きを取り戻す原動力となった。アスリートの名は河合紫乃。現在、車いすフェンシングの女子日本代表選手として東京パラリンピックを目指している。

かつては実業団のバドミントン選手だった。しかし、怪我による手術を繰り返し、20代半ばで車いす生活を余儀なくされた。
それでも絶望の淵から何度も這い上がり、再びスポーツの舞台に帰ってきた。

1年4カ月間の入院で4度の手術、左下肢の麻痺に

富山県出身の河合は小学2年からバドミントンを始めた。高校で全国5位の成績を収め、法政大では2度の全国制覇。石川・北國銀行に入社後も国内トップを目指していた。

2015年、入社2年目の時に股関節の激痛が襲った。日常生活にも支障が出たため、12月に両股関節を手術した。

1年4カ月もの期間入院し、その間4度の手術を受けた。後にわかったことであるが、手術を繰り返す過程で脳と脊髄間での神経伝達が狂う難病を発症し、左腹部から左足の指にかけて麻痺が起きてしまった。
入院中に会社を退職しなければならず、同時に17年間プレーしていたバドミントンも断念することになった。

バドミントン選手時代は常に全国大会で戦っていた

「完全に燃え尽きて辞めるっていうのであれば、スッキリして終われたんですけども『復帰したかったけどできなかった』というのがあって、自分の中にモヤモヤが残って引退したという形でした。ただ、その時は復帰できなくてもいいから元の身体に戻りたい。歩けるようになりたい。それだけしか考えてなかったですね」

10万人に5人の割合というこの病気の治療法は確立されておらず、まだ国の難病にも指定されていない。最終手段として脊髄にペースメーカーを入れて脳と脊髄の伝達を停止させる療法を施したが、これも効果はなかった。

「痛みは我慢しています。治療法が無いので、ガンの治療で使う痛み止めの薬を当てたんですけどもそれも効かなくて。病気が転移する可能性もあって、麻痺が右にも移るかもしれないですし、切断の可能性もあります」

現在も両下肢機能障害, 左下肢不全麻痺、そして転移の恐怖と向き合っている。

寝たきりの生活から社会復帰へ

長期間の入院生活を終え、車いす生活となった河合をさらなる試練が待っていた。

実家に戻り、治療できる可能性を信じて病院に通った。しかし医師たちは「心因的な病気ではないか」と診断した。行く度に精神科の病院を紹介され、抗うつ剤を処方された。

その影響で大きく体重が減り、家で寝たきりの生活になってしまった。周囲には心の問題ではないことを理解してもらえず、孤独な日々が続いた。

「誰とも喋れない、引きこもりの状態で体も動かないという生活が1年以上続いていて、ご飯も食べれない。生きるか死ぬかというくらいになっていきました。そうなっていくと『やっぱりあなたは心の問題です』ってなるんですよね」

しかし、このままでは終わらなかった。自分で何かを変えなければならない気持ちは常に持っていた。環境を変えれば何かあるのではないかと思い、まずは実家を出ることにした。

「自分の中ではやっぱり変わりたかった。環境変えれば何か変わるんじゃないかと思ってまず実家を出て一人暮らしをしようと思って。そこから徐々にですけども社会復帰をしました」

フェンシングとの出会い

富山県内に引っ越し、仕事も再開して数カ月経った頃、ある出来事が河合の心を動かした。

17年12月、大学の後輩である田中志穂選手(秋田・北都銀行)がバドミントンの国際大会で優勝した。このニュースを見て、眠っていたスポーツへの情熱が奮い起こされた。

「田中選手の活躍を見て、『もう一回私も輝きたい』と思いました。バドミントンを辞めてからいろんなことを試したんですけども、自分らしくいられるのはやっぱり昔からやっていたスポーツが一番だと思いました」

当初は車いすバドミントンで競技復帰することを考えた。しかし、自身の持つ障がいでは競技のカテゴリが合わず、断念せざるを得なかった。

そこで、新たに競技を探そうとインターネットで調べ、車いすフェンシングが女子選手を募集していることを知った。対人競技や駆け引きという点でバドミントンと共通していること、そして選手人口がまだ少なくパラリンピック出場の可能性があると考え、フェンシングに挑戦することを決めた。

再びスポーツへの挑戦が始まった

バドミントンをプレーしていた時に抱いていた「世界の舞台でプレーする」という目標もスポーツへの想いと共に呼び起こされた。

「やるからには世界に行って活躍したいです。中途半端でやりたくない、挑戦するからにはとことん突き詰めたいです。じゃないと私の性格的にやっぱり納得しないので」

開始1年で日本代表に選出

18年9月から本格的に競技を始めた。車いすフェンシングの拠点が京都にあるため、富山から毎週通った。しかし、大きく痩せた影響で握力は8しかなく、剣を1分持つのも精一杯の状態だった。

「監督からもやめたほうがいいんじゃないってずっと言われていて。でも私はやりますと。ずっと辛かったです最初は。病気を抱えながらなので、体も相当しんどくて」

それでも気持ちが折れることはなかった。自らの意思で這い上がり、掴んだチャレンジの機会を簡単に手放すわけにはいかなかった。
長期間のブランクを取り戻すこと、バドミントンとは違う体の使い方をマスターするため、富山で週2回のトレーニングを積みながら週末は京都に通う生活を続けた。

その一方で、国内外の遠征費や道具の購入など多くの資金が必要になった。
自費では限界があるため、スポンサーを募りクラウドファンディングで150万円ほど集め、資金調達も行った。

さまざまな努力が実を結び、19年9月には韓国で行われた世界選手権に日本代表として出場した。競技を始めて約1年という異例の速さでの選出だった。

競技開始約1年で日本代表に

東京パラリンピック出場が目標に

しかし、初めて臨んだ世界選手権は1勝もできず、悔しい帰国となった。早く上達するには何かを考え、10月に拠点を東京に移した。

「1番早く・強くなれる方法って考えたら東京に行くしかないと思いました。思ったらすぐ行動にすぐ移すタイプなので。特に病気になってから今この瞬間私は大切にしたいと思っています」

ナショナルトレーニングセンターで毎日朝から夕方まで練習に励んだ。11月にはオランダで行われたワールドカップに出場し、3勝を挙げるなど大きな成長を見せた。

2度目の国際大会で3勝を挙げ、大きく成長した

翌月にはアスリート雇用でIT系の会社に採用され、20年4月からは地元企業である株式会社富山環境整備に所属することになった。引き続き東京に拠点を置きながら練習を続け、環境面と資金面で全面的なバックアップを得ることになった。

さらに日本ダイバーシティ・スポーツ協会が中心となり、「TEAM SHINO」を結成。身体のケアからメンタル・栄養面などのサポートを継続的に行っている。

東京パラリンピックに出場するには、世界ランク8位以内に入ることが条件になる。新型コロナウイルスの影響で予定されていた国際大会が中止となった。しかし、パラリンピック自体が延期となり、再度行われる可能性のある選考会に向け準備を重ねている。

「東京に出られたら、私は自分の力を今できることを全て発揮して次のパリパラリンピックにつなげられるようなプレーをしたい。そしてやるからには勝ちたいです」

フェンシングを極めていきたい

これまで幾度となく逆境から這い上がってきた原動力は何なのか、河合は即答した。

「負けたくないという気持ち、根性です。やっぱりやるからには負けたくない。病気にも負けたくないって思っていますし。曖昧な気持ちでやりたくないです」

スピードとパワーを武器にフェンシングを極める

今は東京そして次のパリでメダルを獲ることを目標にしている。その先にあるパラアスリートとしてのビジョンについても、気持ちが溢れ出すかのように語った。

「フェンシングを極めていきたいです。バドミントンをやっていた時も思うように結果が出なかったのでやめられなかった。(納得する)結果が出るまで私はずっとやり続けると思います」

難病そして障がいにも負けない”根性”が河合をパラリンピックの舞台に導いていく。

☆ラジオ出演決定☆
ニッポン放送「ニッポンチャレンジドアスリート」に河合選手が出演中です!
3/30(月)~4/3(金) 13時42分〜OA!

▼番組HP
http://www.1242.com/challenged/
※スマートフォンアプリ「radiko」では聞き逃した方でも1週間以内であれば視聴可能です。

◆特定非営利活動法人日本ダイバーシティ・スポーツ協会HP
http://www.diversity-sports.org/

◆野球独立リーグ、サッカーなど様々なスポーツを応援「Spportunity」
https://www.spportunity.com/

白石 怜平
1988年東京都出身。 趣味でNPBやMLB、アマチュアなど野球全般を20年以上観戦。 現在は会社員の傍ら、障がい者野球チームを中心に取材する野球ライターとしても活動。 観戦は年間50試合ほどで毎年2月には巨人をはじめ宮崎キャンプに訪れる。 また、草野球も3チーム掛け持ちし、プレーでも上達に向けてトレーニング中。

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