千葉ドリームスター 山岸英樹 障がいにも負けない不屈のエース

負けられない試合の先発マウンドには必ずこの男が立っている。

山岸英樹。石川県出身の31歳は身体障がい者野球チーム「千葉ドリームスター」のエースを務めながら、パラローイング(ボート)の日本代表候補としても活躍している。
翌年に延期されることが決まった東京パラリンピックへの出場を目指しトレーニングに励む一方、その合間を縫ってグラウンドでも汗を流している。
異種目に挑戦しても野球への情熱が衰えることはない。

「人生が終わった」どん底からのリハビリ

小学校卒業を間近に控えた2001年2月、突然意識を失う発作を繰り返す病気「てんかん」の手術を受けた。異変が起きたと感じたのは手術から目が覚めた時だった。左半身が何の感覚もなく、どこに意識を置いても体が動かない。のちに判明したことであるが、血管が詰まり脳梗塞を引き起こしていたのだ。

「小学生なりに『人生が終わった』って思いました」

精神的にどん底の状態からリハビリが始まった。リハビリ以外でも自分で体を動かすなど工夫を重ね、1週間で何とか杖をついて歩けるようになった。その甲斐もあり回復傾向が早く、周囲を驚かせる程だった。しかし、本人の感覚は周囲の喜びとは全く異なっていた。

「あの時はこんなに動いていたのに」

元々身体能力には自信を持っていた。回復が早いといってもまだ走ることさえもできない。現状とのギャップに苦しめられる日々が続いた。

中学入学後も約1カ月間はリハビリに専念。
術後から3カ月ほど経った5月ごろにキャッチボールやランニングから再開した。徐々にできることを増やしていき、3年生まで完走することができた。しかし、入学した高校の野球部は県内屈指のチームで、練習量が多いことで有名だった。当時の身体では限界を感じ、野球を続けることを断念した。

研究と実践が礎に

野球から離れた後は、毎日地元のジムに通いトレーニングを継続した。
病院と連携しており、プロ野球選手もメディカルチェックに訪れる施設が自宅の近所にあった。元々中学1年からリハビリのために通っていたが、部活動を辞めて時間ができたため、再度トレーニングや野球の動作をイチから見直すことにした。

ジムでのトレーニングに加えて、野球の動作に関する書籍などをひたすら読み漁った。
高校までに読んだ本は30冊以上にも及んだ。解剖学や動作解析、トレーニング論などジャンルは多岐に渡る。

中学から始めたトレーニングは今も継続している

自分で勉強して知識を増やすことで、さらにトレーニングについて興味が強くなった。
高校卒業後はスポーツトレーナーの道に進みたいと考えた。オープンキャンパスで東京へ来た際には、野球専門の施設にマンツーマン指導を自費で受講しにも行った。本だけでなく映像資料も購入して勉強していたが、そこで不明なところは対面で質問することで疑問を解消していく。

そして卒業後、上京してスポーツトレーナーの専門学校に進学した。これまで研究してきたことに加え、学校の講義で得た知識を合わせることでさらに理解が深まった。そして自分の体で実践することで頭と体両方で理論を形にした。その過程で体もさらに回復し、打球の飛距離が伸びていくのを実感した。このストイックかつ研究熱心さが以降活躍するための礎となる。

13年ぶりに再びグラウンドへ

28歳で障がい者手帳を取得できたのを機に、障がい者スポーツを始めようと考えた。その時ある記憶とリンクした。2006年、“もう一つのWBC“と呼ばれる障がい者野球の世界大会が日本で行われていた。テレビで特別番組が放送されていたのを当時見た記憶があった。

すぐにインターネットで障がい者野球について調べ、日本障害者野球連盟に問い合わせた。そこで市川ドリームスター(当時)含む3チームを紹介された。

178㎝、83kgの体格を誇り、野球理論とストイックさを兼ね備えた男を各チームが放っておくはずがなかった。どのチームも「ぜひ来てほしい」のラブコールを送り続けていた。
3チーム全ての練習に参加し、最終的にドリームスターのユニフォームを着ることを決めた。その理由を2つ挙げた。

「練習に参加してみて、すごく活気のあるチームだなというのが強く印象にありました。あと、(17年)当時ドリームスターは招待枠で神戸の全国大会に進んだ年でした。一緒にやる中で、これから伸びていくチームだなと感じました」

高校入学後に志半ばで断念したが、13年ぶりにユニフォームを着て再びグラウンドに帰ってきた。野球人生が再開し、止まっていた時計が動き始めた。

17年、千葉ドリームスターに入団。野球を再開した

エースそして主力打者として

17年シーズンから正式に加入し、ポジションはチームが手薄だった投手になった。
試合があれば必ずマウンドに上がり、長いブランクを徐々に取り戻していった。好きな野球がもう一度できる喜びを爆発させるかのようにトレーニングと研究の成果を発揮し、すぐにチームの主力へと昇った。

この年ドリームスターは障がい者野球の関東甲信越大会決勝に初めて進出し、先発投手としてマウンドに上がった。以降、チームのエースとして3年連続で同大会決勝の先発を務めている。

関東甲信越大会では3年連続決勝戦のマウンドに(写真:本人提供)

体格の大きさからは意外に感じるかもしれないが、ピッチングスタイルは打たせて取る“1試合27球型”と考えている。身体のメカニック(構造)を調べ、試行錯誤を重ねる中でこのスタイルに辿り着いた。

「自分はムービングボーラーで1人1球が理想です。身体の構造上、全ての球種において回旋運動の中でリリースポイントが自然と変わってくるので、肘や手首を無理に捻るとかそういう意識はないです。なのでゴロを打たせてあとは味方の野手を信じて投げるだけです」

また、登板のない日は外野手や指名打者としても出場している。打順もクリーンアップを担い、19年シーズンはチーム最多のホームラン数を記録した。練習でのロングティーではグラウンド場外に出るほどの打球を放ち、チームメートを毎回驚かせている。本人は自信をのぞかせた。

「ピッチャーとして取り上げられる機会が多いですが、実はバッティングの方が自信はあります。ホームランも期待してもらっているんですが、自分はしっかり強い打球を打つことを心掛けています」

力強いスイングで相手投手に威圧感を与える

今後はトレーナーも視野に

現在は野球とパラローイングの“二刀流”として活躍している。将来は競技を続けつつ、トレーナーとしてのキャリアも視野に入れる。
専門学校でスポーツトレーナーの資格を取得しており、形を変えてもスポーツと関わっていきたいという想いを抱いている。

ローイングの選手としてパラリンピックも目指している(写真中央)

「将来的には健常者・障がい者問わず、またアスリートから一般の方まで各用途に合わせてアプローチしたいなと思っています。また、野球を続けつつパラリンピックにも挑戦していきたいです」

パラローイング、そして野球人としても成長するため、今も探求心を持ち続けている。

白石 怜平
1988年東京都出身。 趣味でNPBやMLB、アマチュアなど野球全般を20年以上観戦。 現在は会社員の傍ら、障がい者野球チームを中心に取材する野球ライターとしても活動。 観戦は年間50試合ほどで毎年2月には巨人をはじめ宮崎キャンプに訪れる。 また、草野球も3チーム掛け持ちし、プレーでも上達に向けてトレーニング中。

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