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心はラグビー少年のままで 選手・レフリーの稀有な二刀流に挑む、近藤雅喜の軌跡

近藤雅喜は、JAPAN RUGBY LEAGUE ONE(以下、リーグワン)の三重ホンダヒートに所属する現役選手であり、レフリーでもある。

前例が限りなく少ない二刀流に挑み続けている彼が、レフリーとしての一歩を踏み出したのは、2022年6月。その背景には、幼い頃から抱き続けているラグビーに対する無垢な思いと、確かな覚悟があった。

土日の練習が待ち遠しかった少年は、高校、大学とラグビー名門校へ

近藤がラグビーを始めたのは、小学1年生のときだ。そこから始まる長い歩みの出発点は、テレビ番組を見たとき口にした何気ない一言だった。

「両親によると、僕が高校ラグビーのドキュメンタリー番組を見ているときに『ラグビーがしたい』と言ったそうなんです。その後すぐ、地元の名古屋ラグビースクールに入れてくれました」

出会うべくして出会ったかのように、近藤少年はラグビーにのめり込んだ。土日に行われる練習が待ち遠しくて、木曜日になる頃には、おのずと胸が高鳴っていたという。ラグビーを始めた当時のことは、今も鮮明に覚えている。

「学校が終わると、僕は毎日のように友達と遊んでいました。でも、金曜日だけは絶対に予定を入れなかったんです。テレビで16時ごろから放送される海外ラグビーが、楽しみで楽しみで。本当にラグビーが好きだったんでしょうね」

この頃から近藤には思い定めていたことがある。将来、トップリーグ(※)の選手になること。そして、日本代表として桜のエンブレムが刺繍されたジャージを着ることだ。
※現在のリーグワン ディビジョン1にあたる

家族の協力もあって力をつけていった近藤は、全国大会の常連である東海大附属仰星高等学校へ進学し、大学はラグビーの名門校として知られる明治大学に入学する。明治大学では入部当初から試合に出場し、高校2年時に選ばれたU17日本代表に続き、大学1年時にU19日本代表としてプレーした。

一方で、キャリア最大の怪我を負ったのが、この直後だ。忘れもしない2013年9月、リーグ戦の前日。膝の前十字靱帯を断裂して、復帰まで1年近くを要した。

「当時は心が沈んだし、ラグビーに対するモチベーションも一時的に低下しました。でも、それは自分の中だけにとどめて、グラウンドに立つ姿を毎日イメージし続けました。当時の僕はやる気が空回りしていた気がするし、自分を見つめ直す時期として必要だったと思います」

明治大学時代の近藤

砂を噛むような日々を乗り越えてピッチに戻った近藤は、その後、春季大会でのプレーが評価された選手が集う関東大学ラグビーオールスターゲームに、2度にわたって選ばれている。

全国レベルの活躍を見せた学生時代を終え、2017年、いよいよ国内最高レベルの舞台に足を踏み入れる。

ひとつの夢を先延ばしにしてでも選んだ「世界」

実力と実績を併せ持つ近藤には、複数のクラブから声がかかった。その中でも熱心なアプローチのあった三重ホンダヒートを選んだのは、挑戦心に溢れるチームの雰囲気が、自分の肌に馴染むと感じたことが大きかったという。

「当時の三重ホンダヒートは、トップリーグでも下位のほうでした。だからこそ、上位を目指すチャレンジングな姿勢に惹かれましたね。ひとりのラグビー選手としてこのクラブで成長できる、と感じて三重ホンダヒートを選びました」

だが、三重ホンダヒートは近藤の加入前シーズンのリーグ戦で降格し、2017年を当時2部にあたるトップチャレンジリーグで迎えることになった。大学時代の仲間たちはトップリーグでピッチに立っている。「こんなはずじゃ……」という思いも湧いてきたが、ラグビーを楽しもうという気持ちのほうが、はるかに大きかった。

前半戦を全勝で飾ったチームはそのまま勢いに乗り、1年でトップリーグへの復帰を果たした。

「『このチームは間違いなく上にいく』と信じていたし、1年目のシーズンは楽しい記憶しかありません。期待された自分の役割を果たそうと、目の前のことだけに集中しました」

「昇格を決めたのは、大雨の中で行われた、長崎のかきどまり陸上競技場での試合でした。『スタートラインに立てた』と、どこかホッとしたことを覚えています」

三重ホンダヒートでプレー中の近藤

小学生の頃から夢見ていたトップリーグへの挑戦がいよいよ現実となり、近藤は、国内最高峰のピッチに立つことを心待ちにしながら、次のシーズンを迎えた。だがここで、ありがたくも難しい二択を迫られることになる。

2年目の2018-2019シーズンに入った直後、近藤は「HSBCワールドラグビーセブンズシリーズ」に向けた7人制ラグビー(通称:セブンズ)日本代表に選出されたのだ。同大会および日本代表としての練習は国内のリーグ戦期間と重なっているため、代表を選べば、トップリーグの初出場は先延ばしになる。予期せぬタイミングで訪れた、二つの夢へと向かう分かれ道。思い悩んだが、自分の気持ちに正面から向き合って答えを出した。

「ラグビー選手として、やはり桜のエンブレムは特別でした。それに、国を背負って立つ経験は自分のキャリアにおいてきっと大きな糧になる。そう思って、セブンズでの挑戦を選んだんです」

「代表での経験は『自分は今まで何をしてきたんだ』と自らを省みる機会になりました。選手としての実力はもちろん、試合までの準備だったり、生活だったり、すべてが違う。ラグビー選手として別次元に行けたような、そんな感覚でした」

その後、近藤がトップリーグで初めてピッチに立ったのは、2020年1月。セブンズを選んでから、1年以上が過ぎていた。だが近藤は、当時世界に挑んだことについて、「あの選択は間違いなかった」と言葉に力を込める。

セブンズの代表として活動する近藤(右)

ラグビーがなくなった自分への焦りと、出会ったレフリーという選択肢

選手として高みを目指し続ける中、キャリアにおいて転機となったのは、コロナ禍だった。

2019-2020シーズンの途中でリーグ戦の中止が決まり、チーム練習もなくなって、日常から一時的にラグビーが消えた。「自分からラグビーを取ったらどうなるのだろう」。焦りに似た不安が、日を追うごとに大きくなっていった。

「ラグビーキャリアで積み上げてきたものを今後にどう生かせるのか、そもそも引退した自分に価値を見出せるのか。何度も何度も考えました」

ちょうどこの頃、日本ラグビーフットボール協会の審判部門ハイパフォーマンスレフリーマネージャーで、三重ホンダヒートのアドバイザーでもある原田隆司氏が、レフリーへの転身に興味のある選手を募っていた。

2019年に国内初となる選手とレフリーの兼任を表明した、滑川剛人氏(当時トヨタ自動車ヴェルブリッツ)の存在も重なって、近藤のキャリアに新たな選択肢が芽生えてくる。

「はじめはレフリーへの転身を本格的に考えていたわけではありませんでしたが、滑川さんの挑戦が衝撃的だったので意識はしていました。原田さんがいらした際に『興味があります』と言ったのを覚えています」

選手一本で生きていた近藤にとって、このときは、あくまで「セカンドキャリアの選択肢のひとつ」だった。だが、2022年1月、滑川氏がリーグワンの試合で主審を務めた試合を見たことで意識が変わった。

「NTTドコモレッドハリケーンズ大阪対リコーブラックラムズ東京の試合でした。自宅のテレビで滑川さんの姿を見て『これだ』と、言葉にならない高揚感を覚えたんです。小学生のとき『早くラグビーがしたい』といつもワクワクしていた、あのときの気持ちでした」

選手とレフリーの二刀流は、当時、前例が滑川氏だけだった。二人目となる近藤が中途半端な形で諦めれば、同じ道を後続する者に示しがつかないし、滑川氏の名を汚すことにもなりかねない。生半可な思いで始められる挑戦ではなかった。

だが、それを見据えての覚悟はある。近藤に迷いはなかった。

C級資格を取得した1週間後にデビュー 思い起こされたあの頃の高ぶり

二刀流を決意した近藤は、シーズン終了後にC級資格を取得して、その1週間後の2022年6月に行われた高校生の試合で、アシスタントレフリーとしてピッチに立つことになった。分厚い競技規則本をすべて読み直し、レフリーとしての立ち位置や動きを何度もイメージしたという。

「初レフリー。率直に難しかったです。選手としてボールを追い続けてきましたが、レフリーとして求められる視点や動きは全然違っていた。ただ、難しさ以上に楽しさを感じました。ラグビーが面白い。アスリートの直感ですよ、やはり俺が進むべきは『これだ』と」

レフリーとして初めてピッチに立った近藤の中に芽生えたのは、やはり、滑川氏をテレビで見たときに感じた、少年の頃の気持ちだった。

2か月後には長野県菅平高原で、明治大学対帝京大学という名門校同士のトレーニングマッチでアシスタントレフリーを務めた。その後も選手活動と並行しながら、着々とレフリーとしての能力を身に付け、2022年12月、公式戦でレフリーデビューを飾っている。現在は、三重ホンダヒートの試合がない週、いわゆるプレウィークを中心にレフリーの活動をしている。

レフリーとしてピッチに立つ近藤

もちろん、楽しさの中には困難もある。近藤が特に難しさを感じているのは、レフリーには勝ち負けがないこと。選手とは異なり、自らの取り組みが「結果」という形では表れない。だからこそ、責任を果たすために、自分の中に絶対的な軸がある。

「最も大切にしているのが“プレイヤーファースト”です。僕はレフリーであり、選手でもある。だから選手の気持ちを一番知っていなきゃならないし、選手が活躍できるフィールドを作らなきゃいけないと思っています」

本田技研工業の従業員であり選手、そしてレフリーとして、近藤はひたむきに活動を続けている。

いきつく先は「ラグビーが好きだから」 いずれは世界へ

年齢や時間、キャリアを考えたとき、選手とレフリーの二刀流には限界がある。「そう遠くない未来、レフリーとしての道に絞るタイミングが必ずきます」と話す近藤は、近い将来に実現させたい目標を語ってくれた。

「まずは日本協会公認のA級レフリーになって、リーグワンのディビジョン1で笛を吹くことが目標です。その先の目標は、自分が選手として出場したセブンズワールドシリーズのピッチに、レフリーとして立つこと。選手とレフリー、二つの立場で参加した日本人男子っていないんです。それに、自分のキャリアを輝かせてくれたセブンズに恩返ししたい気持ちもあります」

腹を据えた男の声は静かで、だからこそ固い決意を思わせる。

「ラグビーが好きだから、どんな言い訳もしたくない。選手とラグビーの活動がどんなに忙しくても、何かに悩んでも、いきつく先は『ラグビーが好きだから』の一言です。逆に言うと、その気持ちを失ったら終わり。僕はこれからも、ラグビー少年のままでいたいと思っています」

近藤の心の奥にあるのは、6歳の頃のまま変わらない「ラグビーが好き」という思いだ。土日の練習を待ち望んでいたあの頃から、真摯すぎるほどラグビーに向き合い続けてきた。過去の出来事も鮮明に記憶しているのは、ラグビーに関わる瞬間瞬間を全力で楽しんでいるからだろう。

いつかレフリーとして世界のピッチに立つときも、そこで笛を吹くのは、純粋にラグビーを愛する近藤雅喜だ。

(取材協力:三重ホンダヒート、写真提供:近藤雅喜)
(取材・文:紺野天地)

フリーライター、文筆家。ライターとしては、あっと驚くような取り組みをしている人や、苦境を乗り越えて歩を進めている人など、形にとらわれないで生きる姿を取材している。

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